第46話 次は、二人で
神代先輩と森崎さんの背中が、人混みの向こうへ消えていく。
「じゃあ、また会社で」
「うん。今日はありがとね、二人とも」
最後にそう言って、森崎さんは小さく手を振った。
その隣で神代先輩も手を上げる。
来たときとは、ずいぶん違う。
待ち合わせ場所では柱の陰に半分隠れていた男が、今は森崎さんの隣を普通に歩いている。
距離だって、もう人が二人入れるほど空いてはいない。
十分な進歩だと思う。
「……うまくいったみたいだな」
俺が呟くと、隣の水瀬さんが笑った。
「そうだね」
「最初はどうなるかと思ったけど」
「本当にね。二人とも全然しゃべらないんだもん」
「俺たち、何回話振ったっけ」
「途中から数えるのやめた」
顔を見合わせて笑う。
水族館を出たあとの駅前は、昼間より少し人が増えていた。
夕方にはまだ早いが、陽はもうわずかに傾き始めている。
さっきまで四人だったのに、二人減っただけで妙に静かに感じた。
「じゃあ、俺たちも帰るか」
「うん」
駅へ向かって歩き出す。
「…………」
「…………」
さっきまであれだけしゃべっていたのに、急に会話が途切れた。
別に気まずいわけじゃない。
水族館では展示を見ながら話すことがいくらでもあったし、神代先輩と森崎さんの様子を見ては、二人でこそこそ相談もしていた。
だから、たぶん。
急に静かになったのは、話すことがなくなったからじゃない。
四人から二人になったからだ。
「今日、楽しかったな」
なんとなくそう言うと、水瀬さんが少しだけ目を丸くした。
「……うん。楽しかった」
「神代先輩も最後は普通にしゃべれてたし」
「そっち?」
「え?」
「ううん。なんでもない」
水瀬さんが前を向く。
なんだ?
『眠太くん』
頭の中で、チャーマの声がした。
『今のは、かなり分かりやすかったわよぉ』
「何が?」
『それをあたしに聞く時点で駄目ねぇ』
呆れた声を最後に、チャーマは黙った。
なんなんだ。
少し考えたが、分からない。
まあいいか。
「灰谷くんは?」
今度は水瀬さんが聞いてきた。
「何が?」
「今日。楽しかった?」
「だから、楽しかったって」
「神代先輩たちがうまくいったからじゃなくて」
「ああ」
そういう意味か。
改めて今日一日を思い返す。
大きな水槽。
クラゲ。
魚の群れ。
神代先輩と森崎さんの妙にぎこちないやり取り。
それから。
途中で二人と別れて、水瀬さんと二人で館内を歩いた時間。
展示を見て。
くだらない話をして。
笑って。
別に何か特別なことをしたわけじゃない。
けれど。
「楽しかったよ」
今度は、ちゃんと水瀬さんを見て答えた。
「普通に」
「……そっか」
「うん」
「そっか」
同じ言葉を二回言って、水瀬さんが少し笑った。
その顔を見て、俺もなんとなく笑う。
また少しだけ沈黙が続く。
でも今度は、さっきより気にならなかった。
駅までは、まだ少しある。
道路沿いの店を眺めながら歩いていると、ショーウィンドウの一角に白と青の飾りが見えた。
リボンのついた箱。
焼き菓子。
キャンディ。
小さな札には、ホワイトデーの文字。
「あ」
そういえば。
「水瀬さん」
「ん?」
「もうすぐホワイトデーだよね」
「……え」
水瀬さんの足が、ほんの少し止まった。
俺もつられて立ち止まる。
「どうかした?」
「いや。急にその話するんだと思って」
「急だった?」
「急だった」
そうか。
確かに脈絡はなかったかもしれない。
「店に書いてあったから」
「なるほど……」
なぜか少し肩を落とされた。
やっぱり今日の水瀬さんは、たまに反応が分からない。
「それで?」
「ん?」
「ホワイトデーが、どうしたの?」
「ああ」
歩き始めながら、俺は少し考える。
別に隠すようなことでもない。
「今日、水瀬さん誘ったの、あれも少しあったんだよ」
「……あれ?」
「ホワイトデー」
今度こそ、水瀬さんが完全に止まった。
「え?」
「だから、ホワイトデー」
「今日が?」
「今日がっていうか。きっかけの一つ」
水瀬さんが何も言わない。
人の流れに邪魔になりそうなので、俺たちは道の端へ寄った。
「今年のバレンタイン、色々あったから」
色々。
我ながら、ずいぶん雑なまとめ方だと思う。
駅前一帯を巻き込んだ集団魅了。
逃走。
混乱。
俺は倒れ、水瀬さんも相当参っていた。
ネットでは今でも面白おかしく名前までつけられている。
チョコハザード。
たぶん、一生忘れられないバレンタインだ。
良くも悪くも。
「普通にチョコもらって、普通にお返しして、みたいな日じゃなかったし」
「……うん」
「水瀬さんも大変だったしさ」
水瀬さんの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
それに気づいて、言葉を続けた。
「だから、今度は何か普通に楽しいことできたらいいなって思ってた」
「…………」
「ちょうど神代先輩から誘われたから、それなら水瀬さんも一緒にどうかなって」
言い終えてから、少しだけ不安になる。
改めて口にすると、ずいぶん勝手な理由に聞こえないだろうか。
「迷惑だった?」
「違う」
即答だった。
水瀬さんが首を振る。
「全然、迷惑とかじゃ……ないよ」
「ならよかった」
そう答えると、水瀬さんが俺を見た。
何か言いたそうな顔だ。
「……灰谷くん」
「うん」
「それ、神代先輩が誘ってくれなかったらどうしてたの?」
「え?」
考えていなかった質問だった。
「神代先輩が、森崎さんと出かけるから一緒に来いって言わなかったら」
「うん」
「私とは、何もしなかった?」
「…………」
さて。
どうだろう。
神代先輩の話がなければ、水族館に誘うことはなかったと思う。
そもそも俺一人では、ダブルデートなんて発想自体が出てこない。
ただ。
「何かは考えたと思うけど」
「何か?」
「飯とか」
「二人で?」
「他に誰を呼ぶんだよ」
水瀬さんが黙った。
「……水瀬さん?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「今、整理してるから」
何を整理するんだ。
しばらく待つ。
水瀬さんは片手で頬を押さえ、少し俯いていた。
耳が赤い。
「暑い?」
「違う」
「館内、暖房効いてたしな」
「違うって」
「じゃあ――」
「灰谷くんは少し黙ってて」
「はい」
怒られた。
『あらぁ』
チャーマが楽しそうに笑う。
『綾ちゃん、大変ねぇ』
「何が?」
『あんたは本当に黙ってなさい』
また怒られた。
なんなんだ今日は。
少しして、水瀬さんがようやく顔を上げた。
「……じゃあ」
「うん」
「今日のお出かけって、ホワイトデーのお返しだったの?」
「お返しって言い切ると、ちょっと違う気もするけど」
俺はさっきの店を振り返る。
「プレゼントを渡すだけでもいいかなと思ったんだけどさ」
「うん」
「今年は、それだけだとなんか違う気がして」
あの日のことを、なかったことにはできない。
水瀬さんのスキルが暴走したことも。
俺が巻き込まれたことも。
水瀬さんがそれを気にしていることも。
でも。
だからといって、毎年バレンタインが近づくたびに、あの日を思い出して暗くなるのも違うと思う。
「せっかくだったら、楽しかったって思える日が増えるようなこと、できないかなぁって」
「…………」
「今日みたいに」
水瀬さんが目を瞬く。
それから、ゆっくり笑った。
「……うん」
「うん」
「今日、楽しかった」
「俺も」
短いやり取りだった。
でも、なんとなく。
それで十分な気がした。
再び駅へ向かって歩き出す。
今度はさっきより少しだけ歩く速度が遅い。
「ねえ、灰谷くん」
「ん?」
「また行く?」
「水族館?」
「水族館じゃなくてもいいけど」
「じゃあ、どっか」
「うん」
神代先輩たちも、次はもう少し自然に話せるだろう。
「四人で?」
「え?」
水瀬さんがこちらを見る。
「ああ、神代先輩と森崎さんも誘って――」
そこまで言って。
ふと、さっきのことを思い出した。
今日の途中。
神代先輩と森崎さんの二人と別れて、水瀬さんと歩いた時間。
別に困らなかった。
むしろ楽しかった。
考えてみれば、最初から四人である必要もない。
「……いや」
「うん?」
「次は、二人が良いかな」
「…………」
水瀬さんが止まった。
まただ。
「どうした?」
「灰谷くん」
「うん」
「今の、自分で分かって言ってる?」
「何が?」
「……なんでもない」
大きく息を吐かれた。
「なんだよ」
「本当に、なんでもない」
「ならいいけど」
水瀬さんが一歩、前へ出る。
俺もその隣に並ぶ。
「じゃあ」
「うん?」
「今度は二人で行こっか」
今度は俺が少しだけ驚いた。
でも。
嫌な感じはまったくしなかった。
「いいよ」
「……ほんと?」
「俺から言っただろ」
「そうだけど」
水瀬さんが笑う。
さっきより、ずっと自然な笑い方だった。
「約束ね」
「うん」
駅の入口が見えてくる。
いつもなら、そのまま改札へ向かうだけの道。
今日だって、特別なことは何も起きていない。
スキルが暴走したわけでもない。
誰かに追いかけられたわけでもない。
イノシシも熊も出てこない。
久しぶりに、平和な日常だった気がする。
ただ水族館へ行って。
魚を見て。
話をして。
笑って。
帰り道に、また二人で出かける約束をした。
それだけだ。
「灰谷くん」
「ん?」
「今日は誘ってくれて、ありがと」
「こっちこそ。来てくれてありがとう」
水瀬さんは少しだけ目を細める。
「次も楽しみにしてる」
「そんなに期待されると困るな」
「なんで?」
「行き先、考えないといけないだろ」
「一緒に考えればいいじゃん」
「ああ。それでいいか」
「それでいいの」
改札の前で、俺たちは立ち止まった。
乗る路線は途中まで同じだ。
だから、まだ少し一緒にいられる。
そんなことを考えて。
すぐに、変なことを考えたなと思った。
けれど、訂正するほどでもない気がした。
二人で改札を抜ける。
俺たちの関係に、まだ名前はない。
ただ。
次の休日に、二人で出かける約束が一つ増えた。
今は、それくらいでちょうどいい。




