第45話 恋人みたいな二人
クラゲの展示を抜けると、館内の通路は少しだけ明るくなった。
「…………」
俺は前を歩く二人を見る。
神代先輩と森崎さん。
待ち合わせた直後は、人が二人くらい入りそうな距離を空けて歩いていた二人だが、今は普通に隣を歩いている。
もちろん、肩が触れるほど近いわけじゃない。
会話だって、まだ少しぎこちない。
それでも――。
「いい感じだね」
隣から、小さな声が聞こえた。
見ると、水瀬さんが同じように二人の背中を見ていた。
「そうだな」
「最初、どうなるかと思ったけど」
「俺も」
「神代先輩、柱に隠れてたもんね」
「あれはひどかった」
待ち合わせ場所に着いた瞬間、柱の陰に潜んでいる神代先輩を見つけたときは、さすがに呆れたよ。
でも、今のところ心配していたほどの惨事にはなっていない。
「あ」
前を歩いていた森崎さんが足を止めた。
壁の案内板をジーッと見つめてる。
矢印の先には、屋外展示エリア。
どうやら、ヒトデやナマコなんかと触れ合えるコーナーがあるらしい。
「行きますか?」
神代先輩が聞く。
「えっ」
森崎さんが少し驚いたように振り返った。
両手を胸元で合わせながら、もじもじしている。
「……少しだけ、いいですか?」
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
二人が歩き出す。
俺と水瀬さんは、その場に残った。
「…………」
「…………」
数秒。
水瀬さんが俺を見る。
「行ったね」
「行ったな」
「追いかける?」
「……必要あるか?」
「ない気がする」
俺もそう思う。
むしろ、ここで後ろからついていったら邪魔なんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、水瀬さんが通路の反対側を見た。
「あ、ショップがあるよ」
小さなミュージアムショップだった。
水族館の出口にある大きな土産物売り場とは別に、クラゲや深海魚をテーマにした商品が並んでいるらしい。
「ちょっと見てもいい?」
「いいよ」
俺たちは神代先輩たちとは反対方向へ歩き出した。
そのときになって、ふと思う。
あれ。
これ、完全に二組に分かれたな。
神代先輩と森崎さん。
俺と水瀬さん。
「…………」
まあ。
ダブルデートなんだから、そういうこともあるか。
そう納得して、ショップに入る。
「かわいい」
水瀬さんが真っ先に足を止めたのは、クラゲをモチーフにした雑貨が並ぶ棚だった。
ハンカチ。
キーホルダー。
小さなポーチ。
ガラスでできた置物。
「水瀬さん、クラゲ好きなの?」
「んー、クラゲ自体が特別好きってわけじゃないけど、こういうデザインは好きかも」
水瀬さんが手に取ったのは、小さなガラスのクラゲだった。
透明な身体の中に薄い青色が混じっている。
「部屋に置いたら綺麗そう」
「へえ」
「何、その反応」
「いや」
こういうのが好きなのか。
覚えておこう。
そう思ってから、少しだけ自分の思考に引っかかった。
なぜ覚えておこうと思ったのか。
答えは、わりとすぐに出た。
ホワイトデー。
今年のバレンタインは、普通のバレンタインではなかった。
チョコを渡すとか、もらうとか。
そんな話をしている場合ではなかった。
だから何か返すなら、こういう物もありなのかもしれない。
「灰谷くん?」
「ん?」
「さっきから、それ見てない?」
水瀬さんが指さす。
俺の視線の先には、クラゲ柄のハンカチがあった。
「いや、水瀬さんこういうの好きなのかなと思って」
「私?」
「うん」
「…………」
水瀬さんが黙った。
「どうした?」
「別に」
「そう?」
「うん。別に」
そう言いながら、なぜか顔をそらす。
耳が少し赤い。
暑いんだろうか。
館内はむしろ涼しいけど。
「灰谷くんは?」
「何が?」
「何か欲しいものないの?」
「俺?」
改めて店内を見る。
水族館の土産物に、俺が欲しい物。
「……魚の干物とか?」
「ここで探す物じゃないと思う」
「じゃあ、海苔」
「スーパー行こうか」
水瀬さんが笑った。
「灰谷くんって、ほんと食べ物ばっかりだね」
「食べられる物は無駄にならないからな」
「かわいくない」
「実用性は高いでしょ」
「デートで言う台詞じゃないよ」
「…………」
俺は水瀬さんを見る。
水瀬さんも俺を見る。
「今、なんて?」
「え」
水瀬さんの目が泳いだ。
「いや、その……」
「デートって言った?」
「言ってない」
「言っただろ」
「言ってないよ」
「いや、聞こえたけど」
「聞き間違いじゃない?」
「そんな都合よく?」
水瀬さんがガラスのクラゲを棚へ戻す。
動きが妙に慎重だ。
「……だって」
「うん?」
「今、二人で水族館歩いてるんだし」
小さな声。
「客観的には、そう見えるかなって」
言われて、周囲を見る。
若い男女。
家族連れ。
友人同士。
その中を、俺と水瀬さんが二人で歩いている。
確かに。
「普通にデートみたいだな」
「……っ」
水瀬さんが固まった。
「どうした?」
「灰谷くんが普通に認めると思わなかった」
「なんでだよ」
「なんとなく」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「そういうの全然気づかない人」
「そこまで鈍くないだろ」
「…………」
「なんで黙るんだよ」
水瀬さんは答えない。
ただ、少しだけ楽しそうに笑っていた。
店を出て、俺たちは館内を歩く。
さっきまで四人でいたからだろうか。
二人になると、妙に静かに感じる。
別に会話がないわけじゃない。
「あの魚すごい顔」
「失礼だろ」
「灰谷くんに言われたくないと思う」
「俺、魚にそんなこと言ったことないぞ」
「眠そうな顔仲間」
「誰が仲間だ」
いつも通りだ。
会社で昼休みに話しているときと、大して変わらない。
なのに。
さっき水瀬さんに言われたせいか、少しだけ意識してしまう。
二人で水族館を歩いている。
隣には私服の水瀬さん。
仕事の話はしていない。
スキルの話もしていない。
ただ、魚を見て、くだらない話をしている。
「…………」
これをデートと言わずして、何と呼ぶんだろう。
「灰谷くん?」
「いや」
「また考え事?」
「ちょっと」
「仕事?」
「まさか」
「スキル?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「……なんでもない」
言えるわけがない。
今さらデートっぽいなと思っていた、なんて。
「怪しい」
「怪しくない」
「じゃあ言って」
「嫌だ」
「怪しい」
水瀬さんが少しだけ頬を膨らませる。
その横顔を見ながら、俺は思う。
まあ。
嫌ではない。
むしろ――。
「楽しいな」
「え?」
水瀬さんが振り向いた。
「いや、今日」
「…………」
「水族館。思ってたより楽しいなって、思って」
「水族館が?」
「それもあるけど」
口にしてから、少し考える。
「こうやって水瀬さんと出かけるのも」
「…………」
また止まった。
「水瀬さん?」
「灰谷くん」
「何?」
「そういうこと、さらっと言うのやめた方がいいよ」
「なんで?」
「……知らない」
先に歩いていってしまう。
「なんなんだよ」
追いかける。
よく分からない。
だが、水瀬さんの機嫌は悪くなさそうだった。
むしろ、耳まで赤くなっている。
やっぱり暑いんだろうか。
それから三十分ほどして、館内のカフェ前で神代先輩たちと合流した。
「お疲れさまです」
森崎さんが笑顔で手を振る。
待ち合わせのときとは、かなり表情が違う。
「ヒトデどうでした?」
水瀬さんが聞く。
「かわいかったです。それに神代さん、すごいんですよ」
「何が?」
「ヒトデさんたちの声を聞いて、良い撫で方を見つけたんです」
「えぇ……そんなことできるんですか?」
俺は神代先輩を見る。
「声を聞いたわけじゃないが、まぁ、そうだな。嬉しそうにしてるのが伝わって来たというか」
「先輩、かなり人間離れしてますね」
「今更だろう」
神代先輩が少し気まずそうに答える。
「おかげで、ヒトデさんたちと仲良くなれた気がします」
そういう森崎さんは、とても楽しそうだ。
感覚強化。
一時期はコピー機の音だけでも体調を崩すほど神代先輩を苦しめていた能力。
今も完全に問題がなくなったわけじゃない。
それでも、こういう使われ方もするらしい。
「役に立ったなら、まあ……よかったです」
神代先輩が照れくさそうに言う。
「はい」
森崎さんが笑う。
「…………」
水瀬さんが俺の袖を軽く引いた。
「いい感じじゃない?」
「いい感じだな」
本日二度目だった。
四人でカフェに入り、飲み物を注文する。
俺はホットコーヒー。
水瀬さんは紅茶。
森崎さんはカフェラテ。
神代先輩は――。
「水で」
「水?」
思わず問いかけた俺に、肩をすくめて見せた先輩は続ける。
「最近、水の旨さに気づいたんだよ」
「なるほど」
これも感覚強化の影響なのかな。
「で」
神代先輩が水を一口飲み、俺を見る。
「お前らは何してたんだ?」
「ショップ見て、その辺回ってました」
「二人で?」
「そうですけど」
「……普通にデートしてるじゃないか」
「ぶっ」
向かいで水瀬さんが紅茶を吹きそうになった。
「ちょっと、神代先輩!」
「事実だろ」
「言い方!」
「いや」
俺は神代先輩を見る。
「先輩たちも二人でヒトデと触れ合ってたんですよね?」
「…………」
「それもデートじゃないですか?」
「…………」
「どうなんです?」
「うるさい」
神代先輩が水を飲む。
森崎さんが隣で笑っている。
「でも」
森崎さんが言った。
「今日は四人でよかったです」
「そうですか?」
「はい。最初は緊張しちゃって」
神代先輩の肩がわずかに沈む。
「すみません」
「神代さんが謝ることじゃないですよ。私も緊張してましたから」
「…………」
二人の間に少しだけ沈黙ができる。
だが、朝とは違う。
気まずい沈黙ではない。
森崎さんがカフェラテのカップを両手で持ちながら、小さく笑った。
「でも、次は……」
一度、言葉を止める。
「もう少し少ない人数でも、大丈夫かもしれませんね」
「…………」
神代先輩が固まる。
俺と水瀬さんも黙る。
森崎さんの頬が少し赤い。
こうして見てると、森崎さんって案外、攻めていくタイプなのかも?
「それって」
神代先輩が口を開く。
「二人でも、という意味ですか?」
「……はい」
「…………」
長い沈黙。
返事が遅い。
神代先輩。
ここだぞ。
頑張れ。
俺が心の中で念を送っていると、水瀬さんも同じことを考えているらしい。
机の下で握った拳が見えた。
「じゃあ」
ようやく神代先輩が言う。
「今度は、二人でどこか行きませんか」
「はい」
森崎さんが頷いた。
それだけだった。
それだけなのに。
隣で水瀬さんが小さく拳を握る。
「よし」
「聞こえてるぞ、水瀬」
「あ」
神代先輩に睨まれ、水瀬さんが目をそらした。
「なんのことでしょう」
「白々しい」
「よかったですね、先輩」
「灰谷、お前も黙れ」
森崎さんが笑う。
つられて水瀬さんも笑う。
俺も笑った。
神代先輩だけが、不服そうな顔で水を飲んでいた。
水族館を出た頃には、外は少し夕方に近づいていた。
四人で駅へ向かう。
来たときとは違う。
神代先輩と森崎さんは、自然に隣を歩いている。
俺の隣には水瀬さん。
「楽しかったね」
「そうだな」
「また四人で来てもいいかも」
「先輩たちは次、二人じゃない?」
「あ、そっか」
水瀬さんが前の二人を見る。
「じゃあ、私たちは邪魔かな」
「どうだろうな」
答えながら、俺も二人の背中を見る。
たぶん。
次は、俺たちがいなくても大丈夫だろう。
むしろ、その方がいい気がする。
「…………」
となると。
俺と水瀬さんは?
そんな考えが浮かんだ。
今日みたいに、誰かに誘われたからじゃなく。
二人だけでどこかへ行く。
「…………」
別に。
それも悪くない気がした。
「灰谷くん?」
「ん?」
「また考え事してる」
「まあ、ちょっと」
「今度は教えてくれる?」
「そのうちな」
「何それ」
水瀬さんが笑う。
駅が見えてくる。
もうすぐ、今日の四人の時間も終わる。
それが少しだけ惜しいと思った。
朝の俺なら、たぶん考えもしなかったことだ。
どうやら俺も。
少しずつではあるけれど――。
今日が「ダブルデート」だったことを、意識し始めているらしい。




