第42話 まめ助の小さな冒険
「じゃあ、行ってみようか」
私がそう言うと、まめ助は大きく頷いた。
山の入口から伸びる登山道は、思っていたよりずっと歩きやすそうだった。
地面は土だけれど、きれいに踏み固められている。
道幅も十分にあるし、急な坂も見当たらない。
事前に調べた通り、初心者向けのコースらしい。
「これなら大丈夫そうだね」
そう言って隣を見る。
「…………」
まめ助は、じっと前を見ていた。
登山道の上を。
いや。
正確には――その途中に張り出した木の根を。
「…………」
「…………」
木の根。
人間なら、少し足を上げれば越えられるくらいの高さだ。
でも、膝くらいまでしかないまめ助にとっては違う。
腰くらいまである。
「……最初から大物だね」
まめ助が私を見る。
そして、また木の根を見る。
「抱っこしようか?」
反射的にそう言っていた。
すると。
ぶんぶん。
首を横に振られた。
「あ、うん」
ですよね。
今日は、自分で登るために来たんだもんね。
まめ助は木の根へ近づくと、両手をかけた。
「…………っ」
足を上げる。
届かない。
もう一度。
今度は少し高く上げる。
それでも届かない。
「…………」
ちらり。
まめ助が私を見る。
「…………」
私はしゃがんだ。
「頑張れ」
「…………!」
まめ助が再び木の根へ向き直る。
両手に力を込めて身体を持ち上げ、片足をなんとか根の上へ引っかける。
そのまま、
「…………っ!」
よいしょ、とでも言うように身体を持ち上げた。
ころん。
「あっ」
向こう側へ転がった。
慌てて駆け寄ろうとして――止まる。
「…………」
まめ助が、落ち葉の上からこちらを見ていた。
「大丈夫?」
こくこく。
頷く。
それから自分で起き上がると、胸を張った。
「ふふ」
思わず笑ってしまった。
「やったね」
こくん。
ずいぶん得意そうだった。
登山開始から、まだ三分も経っていない。
先は長そうだ。
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人間にとって歩きやすい登山道でも、まめ助にとってはそうではないらしい。
地面から少し飛び出した石。
重なった落ち葉。
横切る木の根。
ほんの小さな段差。
私ならほとんど意識せずに歩いてしまうものが、まめ助の前では一つひとつ障害物になる。
「…………」
ざく。
ざく。
ざく。
まめ助が落ち葉の中を進む。
腰近くまで埋まっている。
「大丈夫?」
こくん。
ざく。
ざく。
ざく。
「…………」
なんだろう。
雪山を進んでいるみたい。
もちろん、ただの落ち葉だけど。
やがて落ち葉の山を抜けたまめ助が、頭に乗った葉っぱを取る。
取る。
もう一枚取る。
背中にもついている。
「後ろにもあるよ」
ぴたり。
まめ助が止まった。
両手を背中へ伸ばす。
届かない。
「取ろうか?」
少し考えてから、こくん。
「はい」
葉っぱを一枚取る。
「これは手伝っていいんだ」
まめ助が頷いた。
「ちゃんと基準があるんだね」
何でも自分でやりたいわけじゃないらしい。
できないことまで無理にやろうとはしない。
そのあたりは、私より上手なのかもしれない。
「……見習わないとね」
まめ助が首を傾げる。
「なんでもないよ」
再び歩き出した。
しばらく進むと、小さな水の流れがあった。
沢というほど立派なものではない。
山側から流れてきた水が登山道を横切っているだけで、私なら一歩で越えられる程度だ。
でも。
「…………」
まめ助が止まる。
水を見る。
向こう岸を見る。
私を見る。
「抱っこ――」
言いかけて、止めた。
「どうする?」
聞いてみる。
まめ助は水辺へ近づいた。
少し上流を見る。
少し下流を見る。
そして、水の中から出ている石を見つけた。
「あ」
一つ。
二つ。
小さな飛び石のようになっている。
まめ助が最初の石へ足を乗せる。
慎重に体重を移し、両手を横へ広げた。
「…………」
ぐらり。
「……っ」
思わず手が出そうになる。
でも、まめ助は踏ん張った。
二つ目の石へ。
そこから向こう岸へ――。
「…………っ!」
ぴょん。
着地。
「おお」
思わず拍手してしまった。
「すごい、すごい」
まめ助が両腕を上げた。
万歳。
「ふふっ」
その姿を見ていると、こっちまで嬉しくなる。
私は普通に一歩で沢をまたいだ。
「…………」
まめ助が私を見る。
「え?」
「…………」
「あ」
なんとなく言いたいことが分かった。
「私はずるい?」
こくん。
「だって、この身体だもん」
「…………」
「そんな顔しないでよ」
していない。
たぶん。
顔はいつも通りなのに、なぜか呆れられている気がした。
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途中の休憩場所で、少し長めに休むことにした。
ベンチに腰掛ける。
「疲れた?」
こくん。
まめ助が私の隣に座った。
さすがに疲れているらしい。
足を前へ伸ばしている。
「飲み物にしようか」
リュックから水筒を取り出す。
それから、まめ助用の小さな容器へ水を入れた。
まめ助が両手で持って飲む。
「おいしい?」
こくん。
「普通のお水だけどね」
でも、山で飲むと少し違う気がする。
私も水筒へ口をつけた。
「……おいしいかも」
風が吹いた。
木々の葉がざわざわと揺れる。
「…………!」
「あっ」
まめ助の身体が、少し横へ流された。
慌ててベンチへしがみつく。
「大丈夫?」
こくん。
「小さいと風も大変なんだね」
普段、会社ではそんなことを考えたこともなかった。
室内で仕事をしていると、まめ助はとても器用だ。
書類を運ぶ。
掃除をする。
物を片づける。
私よりずっとよく働く日だってある。
だから時々、忘れてしまう。
この子は、とても小さい。
私なら簡単にできることが、まめ助には難しい。
逆に。
私が苦手なことを、まめ助が簡単にやってしまうこともある。
「…………」
隣を見る。
まめ助は足をぷらぷらさせながら、森の中を眺めていた。
「ねえ、まめ助」
こちらを見る。
「楽しい?」
少しだけ間があった。
それから。
こくん。
大きく頷いた。
「そっか」
胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
「私も」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、訂正する必要はないと思った。
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休憩を終えて、再び歩き始める。
山頂まではあと少しだった。
ここまで来る間にも、何度かまめ助が苦戦する場所があった。
そのたびに、私はつい手を出しそうになった。
抱き上げれば早い。
荷物を持ってあげれば楽だ。
段差だって、私が持ち上げて向こう側へ置いてしまえば一瞬で終わる。
その方が安全だし、効率もいい。
でも。
「…………っ」
目の前で、まめ助が段差を登ろうとしている。
さっきまでより、少し高い。
両手をかける。
足場を探す。
一度、ずり落ちる。
「まめ助」
手を伸ばす。
その瞬間。
ぶんぶん。
首を振られた。
「…………」
私の手が止まる。
まただ。
助けようとしてしまった。
まめ助は、もう一度段差へ手をかける。
「…………っ」
身体を持ち上げる。
足が滑る。
もう一度。
今度は少し横へ移動した。
そこに、小さなくぼみを見つけたらしい。
足をかける。
よじ登る。
あと少し。
「頑張れ」
私は伸ばしかけた手を、自分の膝の上へ戻した。
「頑張れ、まめ助」
まめ助が腕に力を込める。
ぐっ。
身体が持ち上がる。
ころん。
段差の上へ転がった。
「やった!」
立ち上がったまめ助が、両腕を高く上げる。
「すごいね」
こくこく。
「自分でできたね」
こくん。
嬉しそうだ。
私は、その顔を見ながら思った。
これでよかったんだ。
助けることだけが、相手のためになるわけじゃない。
困っているから助ける。
大変そうだから代わりにやる。
ずっと、それが正しいと思っていた。
たぶん。
そうしている方が、私自身も安心できた。
必要とされている気がしたから。
でも。
自分でやりたいことまで取ってしまったら。
それは、きっと違う。
「…………」
段差の上から、まめ助が手を伸ばしていた。
「え?」
私を見る。
手を伸ばしている。
「私も登るの?」
こくん。
「いや、私は普通に登れるけど……」
「…………」
「……手、貸してくれるの?」
こくん。
私は笑った。
「じゃあ、お願いしようかな」
絶対に体重なんてかけられない、小さな手。
そこへ指先だけを触れさせる。
「よいしょ」
段差を登る。
「ありがとう」
まめ助が胸を張る。
ふふ。
助けてもらっちゃった。
山頂へ着いたのは、それから三十分ほど後だった。
「着いたね」
「…………!」
開けた場所へ出る。
柵の向こうに、街が広がっていた。
高い建物。
住宅街。
道路。
遠くを走る電車。
ここまで登ってきた道からは想像できないくらい、広い景色だった。
「きれい……」
まめ助が柵の近くまで歩いていく。
もちろん、落ちないよう私もそばについていく。
「…………」
まめ助は、しばらく動かなかった。
小さな身体で、ずっと街を見ていた。
「頑張って登ったもんね」
こくん。
「お腹空いた?」
こくん。
返事が早かった。
「私も」
ベンチを見つけて、二人で座る。
リュックからお弁当を取り出した。
おにぎり。
卵焼き。
唐揚げ。
小さく切った野菜。
まめ助用の一口サイズのおにぎりもある。
「作りすぎたかな」
「…………」
「何、その顔」
今度こそ呆れられた気がする。
「昨日かなり減らしたんだけど」
まめ助が首を横に振る。
「そんなに?」
こくん。
「……次はもっと減らします」
いただきますをして、二人で食べる。
外で食べるおにぎりは、いつもよりおいしかった。
たくさん歩いたからかもしれない。
隣では、まめ助が小さなおにぎりを両手で持って食べている。
「…………」
なんだか、不思議だった。
仕事でもない。
誰かに頼まれたわけでもない。
何かの役に立つわけでもない。
お金にもならないし。
むしろ休日なのに疲れている。
「仕事じゃないのに、こんなに疲れることするなんて変だね」
まめ助がこちらを見る。
「だって、昨日から準備して、朝早く起きて、電車に乗って、山まで来て」
私は眼下の街を見る。
「歩いて、汗かいて、疲れて」
少し考える。
「なのに」
笑った。
「楽しいね」
まめ助が頷いた。
とても大きく。
「……うん」
風が吹く。
今度は、まめ助も飛ばされない。
私の隣で、しっかり座っている。
食事を終えたあとも、私たちはしばらく景色を眺めていた。
何をするでもなく。
何かを話すでもなく。
ただ一緒に。
それだけで、十分だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「そろそろ帰ろうか」
立ち上がる。
まめ助も立ち上がった。
帰り道も、自分で歩くつもりらしい。
「無理しなくていいからね」
こくん。
「疲れたら言ってね」
こくん。
「転びそうになったら――」
まめ助が私を見る。
「……はい。言いすぎました」
首を振られる。
私はリュックを背負い直した。
山頂を離れる前に、もう一度景色を見る。
「ねえ、まめ助」
振り返る。
「また、どこか行こうか」
「…………」
「山じゃなくてもいいよ。今度はもっと楽なところでもいいし」
水族館とか。
公園とか。
海とか。
まだ行ったことのない場所は、たくさんある。
「まめ助は、どこか行きたいところある?」
少し考えて。
まめ助は嬉しそうに頷いた。
「そっか」
どこなのかは、まだ分からないけれど。
帰ったら一緒に考えよう。
「じゃあ、次はまめ助が決めようか」
こくん。
「楽しみにしてるね」
私たちは山頂をあとにする。
小さな足音が、私の隣についてくる。
ぺた。
ぺた。
仕事を手伝ってくれるときと、同じ足音。
だけど今日は。
なんだか少しだけ、違って聞こえた。




