第40話 鬼頭剛志の休日
「待て!」
俺の声が、休日の住宅街に響いた。
前を歩いていた犬――コタロウが、一瞬だけ足を止める。
「よし」
理解したらしい。
そう思った次の瞬間。
コタロウは勢いよく右へ走り出した。
「待てと言っただろうが!」
リードがぴんと張る。
反射的に腕へ力を込めそうになって、止めた。
「……っ」
一歩、前へ出る。
さらにもう一歩。
コタロウの動きに合わせるように歩きながら、リードを少しずつ短くする。
「引っ張るな!」
コタロウは聞いていない。
植え込みの下に鼻を突っ込み、尻尾を激しく振っている。
「何がある!」
当然、返事はない。
代わりに鼻息だけが聞こえてきた。
休日の朝。
俺は飼い犬の散歩をしている。
会社にいるときよりも一時間ほど遅い時間に起き、ジャージに着替え、こいつを連れて近所を一周する。
これが俺の休日の日課だ。
「行くぞ」
軽くリードを引く。
コタロウは動かない。
「行くぞ」
もう一度言う。
動かない。
「…………」
俺を見る。
「…………」
俺も見る。
コタロウが植え込みを見る。
俺を見る。
また植え込みを見る。
「何もないだろう」
鼻を鳴らす。
「行くぞ」
座った。
「座るな!」
通りの向こうから、犬を連れた女性がこちらを見て笑っている。
俺は咳払いした。
会社では、ここまで人の言うことを聞かない奴はなかなかいない。
いや。
灰谷もたまに聞かないか。
あいつは必要なときだけ妙に頑固だ。
水瀬もそうだ。
相沢も、以前は何でも言うことを聞くように見えて、最近はそうでもない。
神代は最初からあまり聞いていない。
「……ろくな部下がいないな」
俺が呟くと、コタロウが首を傾げた。
「お前もだ」
尻尾を振った。
褒めていない。
ようやく植え込みから引き離し、再び歩き始める。
今度は電柱。
次は道端の草。
さらに向こうから飛んできた鳩。
コタロウの興味は目まぐるしく移り変わる。
「待て!」
鳩へ向かって駆け出そうとしたところで、俺は声を上げる。
ぐっとリードが張った。
だが、力では止めない。
コタロウが進んだ分だけ自分も一歩踏み出し、腕を曲げて衝撃を逃がす。
それから、ゆっくりと引き戻す。
「駄目だ」
コタロウが不満そうにこちらを見る。
「追いかけても捕まらん」
それでも前へ行こうとする。
「駄目だ」
今度は止まった。
「よし」
頭を撫でる。
手のひらを乗せるだけ。
指にはほとんど力を入れない。
コタロウは気持ちよさそうに目を細めた。
「…………」
少し前まで、この程度のことにも神経を使っていた。
いや。
今だって使っている。
力を込めれば、たぶん簡単に傷つけてしまうから。
首輪を引きちぎることもできるだろう。
だからこそ、力を入れない。
押さえるのではなく、合わせる。
止めるのではなく、待たせる。
「難しい奴だな」
コタロウが俺の手に鼻先を押しつけてきた。
「分かったから行くぞ」
再び歩き出す。
会社では熊を押さえ込んだ。
イノシシも止めた。
だが休日になると、俺は十キロにも満たない犬一匹を相手に苦戦している。
世の中というのは、よく分からん。
「お父さん、また負けたの?」
家に戻るなり、娘の美咲に言われた。
「負けていない」
「でも帰ってくるの遅かったよ」
「途中でこいつが動かなかっただけだ」
「それを負けたって言うんじゃない?」
「違う」
妻が台所から顔を出す。
「コタロウ相手に勝とうとしないでよ」
「勝とうとしていない!」
足元でコタロウが尻尾を振っている。
俺だけが納得していないような空気になった。
「それより、買い物に行くんだろう」
「あ、うん。そろそろ行こうか」
妻が答える。
「冷蔵庫、ほとんど空だから」
「何を買う」
「色々。牛乳とか卵とか豆腐とか」
「分かった」
俺は頷く。
そして。
「…………卵か」
「何、その反応」
「いや」
何でもない。
何でもないはずだ。
卵くらい、今まで何度も買っている。
ただ、最近は少し事情が違う。
「お父さん、卵持てる?」
「馬鹿にするな」
「前にペットボトル潰したじゃん」
「あれは薄かったんだ」
「マグカップも壊したって言ってなかった?」
「…………」
「ホッチキスも」
「誰から聞いた」
「お母さん」
妻を見る。
「会社の人から」
「誰だ」
「そこまでは言えないなあ」
相沢か。
いや、水瀬かもしれん。
灰谷の可能性もある。
全員あとで問い詰めるとしよう。
「会社で怒らないでよ」
「怒らん」
「今の顔、絶対怒る顔だったよ」
「怒らんと言っている!」
「声!」
「……すまん」
コタロウがびくりとしたので、すぐに声を落とした。
俺は最近、こういうことが増えた気がする。
近所のスーパーは、休日ということもあって混んでいた。
入口で買い物用のカートを取る。
取っ手に手を置く。
「…………」
ゆっくりと押す。
よし、このくらいの加減でいいみたいだ。
「お父さん」
「なんだ」
「カート押すだけなのに顔怖いよ」
「集中しているんだ」
「何に?」
「壊さないようにだ」
「普通、カート押すのにそんな集中しないよ」
知っている。
俺だって以前はしなかった。
少し前なら、取っ手を握った瞬間に軋ませていたかもしれない。
だから今は、握らない。
手を添える。
押すというより、体重を軽く預ける。
「……よし」
「何が?」
「何でもない」
野菜売り場を抜ける。
肉。
魚。
牛乳。
問題ない。
袋入りの商品なら、それほど神経を使わなくてもいい。
問題はここからだ。
「豆腐」
妻が言った。
「俺が取る」
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
棚へ手を伸ばし、豆腐のパックに触れる。
こういうのにはコツがある。
パックの端を持つ。そこなら指が食い込まない。
俺の脳裏に、豆腐のパックのフィルムを突き破ったときの指の感覚がよぎった。
「…………」
「お父さん、豆腐と睨み合ってる」
「黙ってろ」
ゆっくりカゴへ入れる。
よし、無傷。
「おお」
美咲が小さく拍手した。
「馬鹿にしているのか」
「褒めてるの」
「そうか」
「お父さん、最近うまくなったね」
何がだ。
そう言い返そうとして、やめた。
「……そうか」
「うん。この前より全然普通」
普通。
それは、今の俺にとって意外と悪くない言葉だった。
次は卵だ。
十個入りのパックを手に取る。
「…………」
「また怖い顔になってる」
「黙っていろ」
今度はただカゴへ入れるだけではない。
上に物を載せない。
つまり、バランスよく置く必要がある。
帰りに袋の中で潰さないことも考慮しなければならん。
家まで無傷で運ばなければ意味がないからな。
「私持とうか?」
美咲が言った。
「必要ない」
「でもお父さん、ずっと気にするでしょ」
「問題ない」
「じゃあ、私が持つ」
「だから――」
「持たせてあげれば?」
妻に言われた。
「…………」
「全部自分でやらなくてもいいでしょ」
俺は美咲を見る。
美咲は両手を出して待っている。
「落とすなよ」
「お父さんより信用ない?」
「そういう意味ではない」
卵のパックを渡す。
「はい」
美咲は簡単にカゴへ入れた。
何事も起こらない。
「…………」
「何?」
「いや」
俺より雑に見えるのに、なぜ壊れない。
納得がいかん。
だが。
全部自分でやらなくてもいい。
妻の言葉が、どこかで聞いたものと重なった。
できないことを手伝ってもらうのは当たり前。
相沢が以前、そんなことを言っていた。
俺はカートを押す。
以前の俺なら、余計なことをするなと言っていたかもしれない。
自分の問題は自分で処理する。
それでいいと思っていた。
だが、できないことまで無理に自分でやって、周囲に迷惑をかけるなら意味がない。
「次は?」
「お菓子」
美咲が即答した。
「必要なのか」
「必要」
「何に使う」
「食べる」
「……そうか」
それ以上の用途は確かにない。
会計を終え、買った物を袋へ詰める。
牛乳。
野菜。
肉。
菓子。
卵は別だ。
「それ、私が持つよ」
美咲が卵の入った袋を取る。
「俺が――」
言いかけて止めた。
「頼む」
「うん」
妻が少し笑った。
「何だ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「最近、素直になったなと思って」
「誰がだ」
「あなた」
「変わっていない」
「そういうことにしておく」
納得はいかない。
だが、反論するほどでもなかった。
俺は残った袋を持つ。
以前なら全部持った。
重い物を持つのは俺の役目だと思っていた。
今でも、重さだけなら問題ではない。
だが、今日は妻も一袋持っている。
美咲は卵。
俺は残り。
それでいいらしい。
家へ戻って買った物を片づけていると、美咲が冷蔵庫の前で声を上げた。
「あっ」
卵のパックが手から滑った。
「危ない!」
身体が先に動いた。
落ちる寸前のパックを右手で受け止める。
「…………」
俺も。
妻も。
娘も。
全員が止まった。
手の中を見る。
透明なパック。
その中に、十個の卵。
割れていない。
一つも。
「……お父さん」
「なんだ」
「すごい」
「これくらい普通だ」
「前だったら絶対そのまま握り潰してたよ」
「そんなことはない!」
「会社でコップ潰したんでしょ?」
「コップと卵を一緒にするな!」
「声大きい」
「……すまん」
妻が笑っている。
娘も笑っている。
俺は卵のパックを冷蔵庫へ置いた。
そっと。
何も壊れない。
それだけのことだ。
熊を押さえ込んだときよりも。
イノシシの突進を止めたときよりも。
妙な達成感があった。
「よし」
「卵置いただけで?」
「うるさい」
リビングへ戻る。
コタロウが待っていた。
俺を見つけるなり立ち上がり、近寄ってくる。
「なんだ」
尻尾を振る。
「散歩なら行っただろう」
鼻先で俺の手を押す。
「……撫でろということか」
頭に手を置く。
ゆっくり撫でる。
柔らかい毛の感触が手のひらに伝わってくる。
少し強くなりすぎた程度なら、そのうち慣れると思っていた。
初めはそう考えていた。
だが、そう簡単なものではなかった。
ドアを開ける。
ペンを持つ。
コップを掴む。
椅子に座る。
コタロウのリードを持つ。
卵を運ぶ。
以前なら何も考えずにできたことを、一つずつやり直す必要があった。
面倒だ。
今でもそう思う。
だが。
「…………」
コタロウが俺の手に頭を押しつける。
俺はもう一度、ゆっくり撫でた。
力が元に戻らないなら。
この力で壊さずに済むやり方を覚えるしかない。
全部一人で覚える必要もない。
会社にも。
家にも。
余計な世話を焼く奴はいくらでもいる。
「お父さん」
「なんだ」
「コタロウ、気持ちよさそう」
「そうか」
見ると、目を細めている。
俺は少しだけ手を動かした。
するとコタロウが突然立ち上がり、玄関へ走っていった。
「…………」
振り返る。
玄関。
コタロウ。
その横に掛かっているリード。
「駄目だ」
尻尾が振られる。
「さっき行っただろう」
尻尾がさらに速くなる。
「行かん」
コタロウが一声吠えた。
「行かんと言っている!」
「お父さん」
「なんだ!」
「たぶんまた負けるよ」
「負けん!」
十分後。
俺は再びリードを握って、住宅街を歩いていた。
「引っ張るな!」
休日というのは。
会社より疲れるのかもしれない。




