第39話 前より、少しだけ
最近、灰谷くんのことを見ている時間が増えた。
……いや。
増えた、という言い方は少し違うかもしれない。
前から同じ営業二課で働いているんだから、視界に入ること自体は多かった。
席だってそんなに離れていないし、同期だから話す機会もある。
ただ最近は――。
「…………」
パソコンの向こう側で、灰谷くんが資料を読んでいる。
眠そうな顔。
少し猫背。
机の端には飲みかけのコーヒー。
いつも通りだ。
いつも通りなのに、気づくと見ている。
「……何やってるんだろ、私」
小さく呟いて、慌てて自分のパソコンへ視線を戻した。
画面には作りかけの資料。
三分前から一行も進んでいない。
まずい。
仕事しよう。
私は仕事をしに会社へ来ている。
同期の男の人を観察するために出社しているわけじゃない。
当たり前だ。
「水瀬」
「はいっ!」
突然名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びた。
鬼頭課長がこちらを見ている。
「どうした」
「い、いえ。なんでもありません」
「そうか。この見積もり、先方へ送る前に確認しておけ」
「分かりました」
渡された書類を受け取る。
鬼頭課長は少し怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は何も言わず自分の席へ戻っていった。
危なかった。
変な声が出た。
「水瀬さん、大丈夫?」
今度は別の方向から声が飛んでくる。
灰谷くんだった。
「大丈夫!」
「……そう?」
「うん。全然大丈夫」
「ならいいけど」
灰谷くんは首を傾げると、また自分の仕事へ戻った。
「…………」
だから。
どうしてこうなるの。
私は手元の書類で口元を隠した。
たぶん、少し顔が熱い。
以前なら、こんなことはなかった。
少なくとも、自分をごまかすことくらいできてたのに。
灰谷くんは同期。
同じ日に入社して、同じ営業二課に配属された人。
疲れているときは愚痴を言い合って、鬼頭課長に怒鳴られた日は休憩室でため息をついて、仕事で分からないことがあれば普通に聞く。
そういう相手だった。
もちろん、ちょっと前から好意はあったよ。
でも。
今みたいに、声をかけられただけで顔が熱くなったりはしなかった。
いつからだろう。
そう考えると、どうしても思い浮かぶ日がある。
二月十四日。
できれば、しばらく思い出したくない日。
世間ではバレンタインデー。
私にとっては――チョコハザード。
「……名前まで定着しちゃったし」
思わず机に額をつけたくなる。
あの日。
私の魅了スキルは、自分でもどうにもできないほど強くなった。
人が集まって。
騒ぎになって。
大勢を巻き込んで。
怖かった。
自分が何をしているのか分かっているのに、止められないことが。
自分の言葉や仕草ひとつで、周りの人がおかしくなっていくことが。
何より――。
そんな私のところまで、灰谷くんが来てくれた。
あのときのことを思い出すと、今でも胸の奥が少し苦しくなる。
私のスキルがおかしくなって。
灰谷くんまで巻き込んで。
最後には倒れさせてしまった。
目の前で灰谷くんが意識を失ったとき。
本当に、怖かった。
自分のせいで取り返しのつかないことをしたんじゃないかと思った。
病院へ運ばれてからも落ち着かなかった。
目を覚ましたと聞いたときは、安心しすぎて力が抜けた。
そこからだろうか。
灰谷くんのことを、以前より気にするようになったのは。
「…………」
いや。
だからって。
「それだけで、こうなる……?」
また視線が向きそうになって、無理やりパソコンへ戻す。
それだけじゃない。
篠崎さんの調査。
灰谷くんが、自分の頭の中にいる三人――アナさん、ヒーラさん、チャーマさんについて調べてもらうことになった日。
私も研究棟まで付き添った。
最初は単純に、灰谷くん一人で行かせるのが心配だったから。
私も篠崎さんに調べてもらったことがあったし、危ないことをする人じゃないと知っていた。
だから付いていった。
それだけ。
……の、はずだった。
調査の途中。
灰谷くんが不安そうにしているのを見て。
私は――。
「…………っ」
両手で顔を覆う。
握った。
手。
私から。
何も言わずに。
普通、握る?
同期の手。
しかも男の人の。
「いや、あれは仕方なかったから……」
誰にも聞こえないくらいの声で、自分に言い訳する。
不安そうだったし。
私にできることなんて、それくらいしかなかったし。
別に変な意味じゃなくて。
励ますためで。
「…………」
本当に?
自分で自分に聞いてしまった。
答えが返ってこない。
代わりに、あのとき握った手の感触を思い出してしまう。
「忘れよう」
仕事しよう。
本当に。
私は見積書を開いた。
三十秒後。
「…………」
また、灰谷くんを見ていた。
「重症かも……」
「何が?」
「ひゃっ!?」
今度こそ本当に変な声が出た。
顔を上げると、神代先輩がすぐそばに立っている。
「先輩!?」
「これ、さっきの案件の資料だ。灰谷にも渡しておいてくれ」
「わ、わかりました」
資料を受け取る。
1部は自分用に机に置いて、私は席を立った。
そして、資料を渡すために彼の元に。
近い。
いや、普通だ。
資料を渡すんだから、このくらいの距離にはなる。
会社だ。
職場だ。
仕事中だ。
何を意識しているの、私は。
「水瀬さん? 大丈夫ですか?」
「え?」
「今日なんか変じゃない?」
「変じゃない!」
「そ、そう?」
まただ。
声が大きい。
灰谷くんが若干引いている。
「……ごめん」
「いや、いいですけど」
釈然としない顔の灰谷くんを置いて、急いで自分の席へ戻る。
駄目だ。
完全に駄目だ。
これじゃ、意識してますって自分から言っているようなものじゃない。
……意識。
してるのかな。
私は。
灰谷くんを。
そういう意味で。
前より、ずっと。
「…………」
好き。
頭の中で、言ってみる。
途端に心臓が跳ねた。
「無理無理無理」
小声で即座に取り消した。
いや、待って。
何が無理なの。
好きなら好きでいいじゃない。
二十代の女が同期の男の人を好きになったところで、別に犯罪でもなんでもない。
おかしいことじゃない。
もっと普通に考えればいい。
灰谷くんは一緒にいて楽だし。
優しいし。
ちょっと頼りないところはあるけど、いざというときは誰かのために動ける人だ。
それに最近は――。
「……だから、なんで長所を数え始めてるのよ」
自分で自分に呆れる。
でも。
私の場合。
普通に考えようとすると、どうしても一つだけ引っかかる。
自分の手を見る。
何もない。
当然だ。
私のスキルは目に見えない。
精神・感情系。
魅了。
人の感情に影響する力。
あの日以来、ずっと考えることがある。
人の気持ちを変えてしまう力を持っている私の気持ちは、本当に私だけのものなんだろうか。
馬鹿な考えかもしれない。
篠崎さんから、自分のスキルが自分自身の感情を書き換えるなんて説明を受けたことはない。
少なくとも、今のところそんな兆候もない。
それでも。
一度、自分の感情も、周りの感情も、ぐちゃぐちゃになった経験がある。
だから考えてしまう。
灰谷くんを以前より気にするようになったのは、チョコハザードのあと。
私のスキルが大きく変化したのも、あの頃。
もし。
ほんの少しでも。
この気持ちにスキルが関係していたら?
「…………」
嫌だな。
そう思った。
灰谷くんへの気持ちが嘘だから、ではない。
むしろ逆だ。
今、自分の中にあるものを。
何か別のもののせいにしたくない。
朝、灰谷くんがちゃんと出社していると安心すること。
疲れていたら気になること。
仕事で無茶をしていないか心配になること。
話しかけられると少し嬉しいこと。
たまに笑っていると、こっちまで気が緩むこと。
そういう小さなものまで全部。
スキルの影響かもしれない、なんて疑いたくない。
「……何考えてるんだろ、私」
小さく笑ってしまった。
そもそも。
付き合ってもいないのに。
告白されたわけでもない。
私から告白する予定だってない。
それなのに一人で、
この気持ちは本物なのか。
灰谷くんはどう思っているのか。
これからどうなるのか。
なんて考えている。
「順番飛ばしすぎでしょ……」
「何が?」
「だから、聞かないで!」
「ご、ごめん」
また灰谷くんだった。
今日はどうしてこんなに話しかけてくるの。
いや。
普段からこのくらい話していた気もする。
変わったのは灰谷くんじゃない。
たぶん、私だ。
「水瀬さん?」
「……何?」
「いや、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「ならいいけど」
灰谷くんが困ったように笑う。
その顔を見て。
胸の奥が、また少しだけ動いた。
ああ。
もうっ。
面倒くさい。
自分の気持ちが。
でも――。
少なくとも嫌じゃない。
灰谷くんを気にしてしまうことも。
こうして話すことも。
以前より近くなったことも。
全部。
嫌じゃない。
だったら今は、それでいいのかもしれない。
好きかどうか。
恋人になりたいのか。
灰谷くんが私をどう思っているのか。
今すぐ全部に答えを出さなくても。
「……うん」
「?」
「なんでもない」
私は少しだけ笑った。
灰谷くんはますます不思議そうな顔をしている。
そのまま午後の仕事は、驚くほど普通に過ぎていった。
電話をして。
資料を作って。
取引先からのメールを返して。
途中、鬼頭課長がボールペンを握りすぎて嫌な音を立てたけれど、今日は折れなかった。
相沢先輩が「今のは上手だったんだね」と褒めると、鬼頭課長はものすごく嫌そうな顔をしていた。
まめ助はその横で拍手していた。
神代先輩は何度かスマホを確認している。
相手が誰なのかは、なんとなく想像がつく。
そんな、いつもの営業二課。
少し前まで。
スキルが現れて。
事件が続いて。
毎日のように何かがおかしくなって。
こんな普通の日が戻ってくるなんて思っていなかった。
定時を少し過ぎた頃。
今日の仕事を終え、私は鞄に荷物を入れていた。
「水瀬さん」
声をかけられる。
「ん?」
顔を上げる。
灰谷くんだった。
今日だけで何回目だろう。
でも今度は、手に資料を持っていない。
仕事の話でもなさそうだ。
「どうしたの?」
「あー……ちょっと聞きたいんだけど」
「うん」
灰谷くんが、ほんの少しだけ言いづらそうに視線を逸らした。
何?
珍しい。
「今度の休み、空いてる?」
「…………え?」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
頭の中が真っ白になった。
今度の休み。
空いてる?
それって。
え。
もしかして。
デート?
「空いてるけど」
答えるまでが早すぎた。
もう少し考えればよかった。
暇です待ってましたみたいじゃない、これ。
「よかった」
灰谷くんが安心したように言う。
心臓がうるさい。
待って。
落ち着いて。
まだ何も決まってない。
「神代先輩がさ」
「うん」
「森崎さんと出かけるらしくて」
「……うん」
「それで、俺たちも一緒にどうかって」
「…………」
なるほど。
そういうことか。
一瞬だけ膨らんだ何かが、しゅるしゅると小さくなる。
私だけじゃないんだ。
神代先輩と森崎さん。
それに、私と灰谷くん。
つまり。
「それって……」
ダブルデートじゃない?
という言葉は、ぎりぎり飲み込んだ。
「何?」
「なんでもない」
「行けそう?」
「うん。行く」
「よかった。神代先輩にも伝えとく」
灰谷くんが笑う。
私はその顔を見ながら、鞄の持ち手を少しだけ握った。
期待したものとは、ちょっと違った。
でも。
嫌じゃない。
むしろ、楽しみだと思っている。
「灰谷くん」
「ん?」
「誘ってくれて、ありがと」
「いや、言い出したの神代先輩だけど」
「……そこは普通に受け取ってよ」
「え?」
「なんでもない」
本当に。
こういうところなんだから。
私はため息をつきながら、それでも少し笑った。
私と灰谷くんが、どういう関係なのか。
まだ分からない。
同期。
同僚。
友達。
たぶん、どれも間違ってはいない。
でも、それだけと言い切るには。
前より少しだけ、灰谷くんのことが気になる。
前より少しだけ、一緒にいることが嬉しい。
前より少しだけ――次に会う時間を楽しみにしている。
名前なんて、まだなくてもいいのかもしれない。
少なくとも。
何かが変わり始めている。
今は、それくらいで。
たぶん、ちょうどいい。




