第38話 頑張ってはいけない仕事
熊を捕まえてから、俺たちの仕事は――驚くほど普通になった。
「灰谷、この資料、今日中に確認しておけ」
「はい」
パソコンに向かう。
メールを返す。
資料を作る。
取引先に電話をかける。
時々、鬼頭課長の机から嫌な音がする。
ばきっ。
「…………」
見ると、ボールペンの軸に亀裂が入っていた。
「課長」
「なんだ」
「またやりました?」
「まだ使える」
「そういう問題ですかね」
以前と違うのは、鬼頭課長が壊れたボールペンを無理に使おうとせず、机の引き出しから相沢先輩たちが用意した太いペンを取り出したことくらいだ。
それ以外は、本当に普通だった。
普通すぎるくらいだった。
『平和ねぇ』
チャーマが退屈そうに呟く。
「いいことだろ」
『そうだけどぉ。この前まで熊と追いかけっこしてたじゃない?』
「追いかけっこって言うな。死ぬかと思ったんだから」
『対象の最高速度を考慮した場合、灰谷が追跡された時間は――』
「アナ、それ以上はいい」
思い出したくない。
あの日。
外から与えられた衝撃を力に変える熊を相手に、俺たちはずいぶん苦労した。
鬼頭課長が殴れば強くなる。
押さえつけようとしても強くなる。
普通なら頼りになるはずの怪力が、むしろ状況を悪化させかねない相手だった。
最後は全員で動いて、どうにか捕獲できた。
怪我人も出なかった。
結果だけを見れば、大成功だったらしい。
実際、翌日から会社には問い合わせが殺到したと聞いている。
『スキル害獣への対応実績あり』
『専門能力を持つ社員による現場支援』
『新時代の害獣対策を民間から』
広報部がそんな文句を使った宣伝案を作っている――なんて話まで耳に入っていた。
だから当然、次の仕事もすぐに来ると思っていた。
俺たちもそう思っていた。
ところが。
一週間が経っても、何もなかった。
「……来ませんね」
昼休み。
俺が何気なく口にすると、水瀬さんが弁当箱から顔を上げた。
「何が?」
「害獣の仕事です。熊のあと、一件も来てないじゃないですか」
「ああ……」
水瀬さんも不思議そうに首を傾げる。
「問い合わせ自体は来てるって聞いたけど」
「ですよね」
「仕事がないなら、それでいいんじゃないかね」
相沢先輩がのんびり言う。
その足元では、まめ助が小さな両手で相沢先輩の空になった弁当箱を運んでいた。
「相沢先輩は気にならないんですか?」
「私は少し安心してるね。熊のときは、さすがに怖かったから」
それは俺も同じだった。
イノシシと熊。
文字にしただけでも、順調に危険度が上がっている。
この調子で次は何が来るんだ。
虎か。
ワニか。
それともスキルを持った象か。
『野生のトラもワニもゾウも、国内で遭遇する可能性は極めて低いです』
「分かってるよ」
「灰谷くん?」
「独り言です」
最近、水瀬さんは俺が突然喋り出してもあまり驚かなくなった。
慣れというのは怖い。
そんな話をしていた翌日。
理由は、意外なところから耳に入ってきた。
「聞いたか?」
廊下ですれ違った営業一課の人が、妙に声を潜めて言った。
「何をですか?」
「鬼頭課長だよ」
俺は反射的に営業二課の方を見る。
「また何か壊しました?」
「そっちじゃねえよ」
そっちじゃないらしい。
「役員と揉めたんだって」
「……はい?」
思わず聞き返した。
「鬼頭課長が?」
「ああ」
「役員と?」
「そう」
「うちの鬼頭課長が?」
「他にどの鬼頭課長がいるんだよ」
それもそうだ。
だが、信じられなかった。
鬼頭課長は怖い。
声が大きい。
顔も怖い。
仕事には厳しい。
今ではドアノブを引き抜けるくらい腕力も強い。
けれど、上に逆らうタイプではない。
むしろ逆だ。
会社から求められれば、できる限り応えようとする。
無茶な目標でも。
厳しい納期でも。
人手が足りなくても。
頑張れば何とかなる。
頑張って何とかする。
そういう人だった。
「何があったんですか?」
「俺も又聞きだから詳しくは知らないけどさ。熊を捕まえただろ? 上はあれを大々的に宣伝するつもりだったらしい」
それは聞いたことがある。
「それで、もう次の出動の調整まで始めてたとか」
「え」
初耳だった。
「どこですか?」
「そこまでは知らん。でも結構危ない案件も候補に入ってたとか何とか。それを知った鬼頭課長が、役員に止めろって言ったらしい」
「止めろって……」
「事業そのものを一旦止めろ、ってな」
思っていた以上に大きな話だった。
その日の午後には、噂は営業二課にも届いていた。
しかも、尾ひれまでついて。
「課長が役員会議に乗り込んだらしいよ」
水瀬さんが小声で言う。
「乗り込んだ?」
「机を叩き割ったって」
「それは絶対嘘ですよ」
「じゃあ、壁に穴を開けたとか」
「それもたぶん嘘です」
ただし、今の鬼頭課長なら物理的には可能なのが困るところだ。
『事実確認を推奨します』
「本人に聞けって?」
『最も確実です』
簡単に言ってくれる。
俺はそっと鬼頭課長を見る。
いつも通り仕事をしている。
頑丈なマグカップを両手で慎重に持ち上げ、コーヒーを飲んでいた。
聞きづらい。
「俺が聞いてこようか?」
神代先輩が言った。
「いえ、神代先輩まで巻き込まなくても」
「何をこそこそ話している!」
「うわっ」
先に見つかった。
鬼頭課長がこちらを睨んでいる。
「仕事中だぞ!」
「すみません!」
反射的に謝ってから、俺は思い切って聞いた。
「あの、課長」
「なんだ」
「害獣対策の仕事って、今どうなってるんですか?」
鬼頭課長の眉が動いた。
営業二課が静かになる。
鬼頭課長はしばらく俺を見ていたが、やがて腕を組んだ。
「止めている」
本当だった。
「やっぱり……役員と揉めたんですか?」
「揉めてはいない」
「机は壊してません?」
「壊してない」
「壁も?」
「壊してない!」
水瀬さんが目を逸らした。
噂の出所は知らないが、とりあえずそこは濡れ衣だったらしい。
「ただし、条件を整えるまでは新しい依頼を受けるべきではないと伝えた」
「条件?」
「ああ」
鬼頭課長は指を折りながら言った。
「専門家を必ず同行させる。対象となる動物の危険度によって依頼を選別する。出動回数と勤務時間に上限を設ける。俺一人の力を前提にした計画は作らない」
一度言葉を区切る。
「営業二課の全員に拒否権を持たせる。捕獲した動物がその後どう扱われるかまで確認する。それと、装備、保険、安全教育の整備だ」
「……ずいぶん多いですね」
「必要なものを挙げただけだ」
鬼頭課長は当然のように言った。
でも。
たぶん、そのどれも今までなかった。
俺たちはヘルメットを被って、手袋をして、安全靴を履いた。
自治体の職員や捕獲業者とも一緒に動いた。
それでも、根本のところでは。
鬼頭課長なら何とかできる。
俺たちのスキルなら何とかできる。
そんな考えがあったのだと思う。
「上は何て?」
神代先輩が聞いた。
「今まで受けていた仕事を断るのか、と聞かれた」
「それで?」
鬼頭課長は一瞬だけ黙った。
何かを思い返すように。
そして言った。
「頑張れば何とかなる仕事と、頑張ってはいけない仕事がある」
俺は鬼頭課長を見る。
「それを区別するのも、会社の仕事です、と答えた」
「…………」
誰も何も言わなかった。
たぶん。
俺だけじゃない。
水瀬さんも。
神代先輩も。
相沢先輩も。
同じことを思ったんじゃないだろうか。
鬼頭課長が。
あの鬼頭課長が、そんなことを言った。
以前だったら、たぶん逆だった。
頑張ればできる。
できないなら頑張りが足りない。
難しいなら、もっと努力すればいい。
鬼頭課長はずっと、そうやって働いてきた人だった。
でも。
どうやら課長も、考え方が変わったらしい。
正確に言うなら、スキル発現によって考えを変えざるを得なかった、というところだろう。
神代先輩は、スキルのせいで普通の音に苦しんだ。
水瀬さんは、自分の意思とは関係なく人を魅了した。
相沢先輩は、まめ助と入れ替わった。
そして鬼頭課長自身も。
強くなりすぎた力を、持て余している。
努力すれば全部うまくいくわけじゃない。
頑張り方を間違えれば、自分だけじゃなく誰かを傷つけることもある。
鬼頭課長は、それを認めたのかもしれない。
「何だ」
視線に気づいた鬼頭課長が睨んでくる。
「いや……」
「言いたいことがあるなら言え」
「課長、変わりましたね」
口に出した瞬間。
しまったと思った。
「…………」
鬼頭課長のこめかみが動いた。
「灰谷」
「はい」
「今日中に例の資料を仕上げろ」
「さっき明日の午前中までって言ってませんでした?」
「今日中だ!」
「それは横暴です!」
「うるさい!」
営業二課に怒鳴り声が響く。
水瀬さんが吹き出した。
神代先輩も笑っている。
相沢先輩は「そこは変わらないね」と呟いた。
うん。
全部が変わったわけじゃないらしい。
でも、それでいい気もした。
それから数日。
害獣対策事業について、新しい依頼が俺たちに回ってくることはなかった。
会社と自治体、それから専門家を交えて、運用そのものを見直しているらしい。
いつ再開されるかは分からない。
正直に言えば。
ほっとした。
俺は普通の会社員だ。
鑑定はできる。
治療もできる。
人の精神に干渉する力まで頭の中にいる。
それでも、熊と命懸けで戦うことを本業にした覚えはない。
『正しい自己認識です』
アナが言う。
『眠太くん、熊さんに追いかけられてから、筋肉痛だったものねぇ』
ヒーラが心配そうに続ける。
『でもぉ、ちょっと格好よかったわよ?』
「もう行かないからな」
『あら残念』
そんな、久しぶりに平和な日々を過ごしていたある日のことだった。
仕事を終えて帰ろうとしていると、神代先輩に呼び止められた。
「灰谷」
「はい?」
「今日、予定あるか?」
「今日ですか?」
珍しい。
神代先輩から仕事以外で誘われることは、ほとんどない。
「特にないですけど」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれ」
「どこにです?」
「飲みだ」
さらに珍しい。
断る理由もなかったので、一度帰りかけた鞄を机の横に置き直した。
「分かりました」
それから三十分後。
俺は会社近くの居酒屋で、神代先輩と向かい合っていた。
「乾杯」
「お疲れさまです」
ジョッキを軽く合わせる。
神代先輩はビールを一口飲んだ。
俺も飲む。
そして。
沈黙。
「…………」
「…………」
何だこれ。
神代先輩は普段から口数が多い人じゃない。
だから二人きりになると、ものすごく静かだ。
『お見合いみたいねぇ』
「やめろ」
「ん?」
「いえ、何でもないです」
しばらくして、神代先輩が枝豆に手を伸ばした。
「灰谷」
「はい」
「お前、水瀬と最近どうなんだ?」
「ぶっ!」
危うくビールを吹き出しかけた。
「いきなり何ですか!」
「いや。別に」
「別にって聞き方じゃないですよ」
水瀬さんとは。
まあ。
以前より話すことは増えた。
篠崎さんの調査にも付き添ってくれた。
あのときは、手まで握られた。
思い出すと、なんとなく落ち着かなくなる。
『心拍数上昇』
「報告しなくていい」
「灰谷?」
「何でもないです!」
神代先輩が怪訝そうな顔をする。
俺はごまかすように枝豆を口へ放り込んだ。
「それより神代先輩こそ、どうなんですか」
「何が?」
「森崎さんですよ」
今度は神代先輩が黙った。
「…………」
分かりやすい。
「何ですか、その間」
「いや」
「何かあったんですか?」
「何もない」
「じゃあ、何で俺を飲みに誘ったんです?」
「…………」
また黙る。
やがて神代先輩は、覚悟を決めたようにジョッキを置いた。
「灰谷」
「はい」
「今度の休み、空いてるか?」
「今度の休み?」
「ああ」
嫌な予感がする。
いや。
嫌というより。
妙な予感だ。
「たぶん空いてますけど」
「水瀬も誘ってくれ」
「……はい?」
「俺は森崎さんを誘う」
「…………」
四人。
俺。
水瀬さん。
神代先輩。
森崎さん。
その組み合わせが何を意味するのか。
いくら俺でも分かる。
「それって……」
「ああ」
神代先輩は俺から視線を逸らした。
「ダブルデートだ」
『きゃあああああ!』
頭の中でチャーマの歓声が響いた。
うるさい。
ものすごくうるさい。
『心拍数、急上昇』
『眠太くん、大丈夫ぅ?』
「全然大丈夫じゃない……」
「何?」
「こっちの話です」
熊より厄介な仕事が。
どうやら俺の休日に入ってきたらしい。




