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俺の脳内、変なスキルに間借りされてます  作者: 内村一樹
第5章 持て余す、その力

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第37話 何も壊さない力

 四本の脚が地面を踏みしめるたび、砂利が散る。

 肩回りの筋肉は膨れ上がり、呼吸も荒い。


 そして何より――速かった。

 つい数十秒前までとは、別の生き物みたいに。


『対象の身体能力、急激に上昇しています』


 アナの声が頭の中に響く。


「やっぱり……」


 視界の端に、情報が浮かんでいる。


 対象、ツキノワグマ。

 成獣。

 そして、保持スキル。


 受けた衝撃の一部を吸収し、一時的に筋力と運動能力へ転換する。

 外部から加えられた衝撃が強ければ強いほど、強化される。


 つまり――。


「課長が力を使えば使うほど、あいつは強くなります!」

「……ならば」


 鬼頭課長が一歩前へ出る。


「もっと強い力で、一撃で仕留めればいい」

「駄目です!」


 思わず怒鳴った。

 鬼頭課長の足が止まる。


「何?」

「今の課長が思い切り殴って、もし倒しきれなかったら、もっと強くなります。投げても同じです」

「なら、押さえ込む」

「暴れたら衝撃が加わります!」

「だが、このまま放っておくわけにはいかんだろう!」

「だからって!」


 熊が動いた。


「課長!」


 鬼頭課長が身構える。

 だが熊は、こちらには来なかった。


 横へ走った熊は、道路脇に設置されていた防護柵へ体当たりした。


 ガァンッ、と金属音が響いた。

 仮設の柵が大きく揺れ、固定されていた支柱の一本が傾く。


「まずい!」


 自治体の職員が叫んだ。


「あそこを抜けたら住宅側です!」


 その言葉に、鬼頭課長が走り出そうとする。

 俺は腕を掴んだ。


「待ってください!」

「離せ、灰谷!」

「課長の力じゃ、今回は解決できません!」


 言ってから。

 しまった、と思った。


 けれど、取り消せなかった。


「…………」


 鬼頭課長が、俺を見る。

 怒鳴られると思った。

 何を偉そうに、と。


 俺だってそう思う。


 身体能力強化スキルなんて持っていない。

 熊と正面から組み合えるわけでもない。


 そんな俺が、鬼頭課長に向かって。

 あなたの力では無理だと。

 だが、鬼頭課長は何も言わなかった。


 ただ一度、熊へ視線を向ける。


「……そうか」


 短い言葉だった。

 その声の方が、怒鳴られるよりずっと苦しく感じた。


「灰谷!」


 神代先輩の声に我に返る。


「熊が、また動くぞ!」


 熊は壊れかけた柵の前を行ったり来たりしていた。

 こっちを見ている。

 けれど、襲ってこない。


「……あれ?」


 俺は眉をひそめた。


 おかしい。

 さっき鬼頭課長を振り払ったときもそうだ。


 追いかけてこなかった。


 鬼頭課長が吹き飛ばされたあと、熊は俺たちではなく、道路の端へ向かおうとしていた。


「人を狙ってない……?」

「俺もそう見える」


 神代先輩が耳を澄ませながら答えた。


「威嚇はしてる。でも、こっちに向かってくるより、離れようとしてる感じだ」


 同行していた獣医師も熊を観察し、ゆっくり頷く。


「最初から人を襲うつもりで住宅地に下りてきたわけではなさそうですね」

「じゃあ、なんでこんなところに?」


 水瀬さんが聞く。


「スキルの影響かもしれません」


 獣医師が慎重に答える。


「突然、自分の身体能力が変わった。走る速度も、力も、これまでと違う。本人……いや、この場合は本熊ですかね」

「今、それ言います?」

「すみません」


 緊張しているらしい。

 気持ちは分かる。


「身体感覚が変化したことで普段の行動圏を外れ、山から迷い出た可能性はあります。今は人間を襲いたいというより、知らない場所と、自分の身体の変化に混乱しているように見えます」

「なら、戦う必要はない?」


 水瀬さんの言葉に、獣医師が頷いた。


「可能なら、刺激せず鎮静させたいです」


 刺激しない。

 それなら。


「……やり方を変えましょう」


 全員が俺を見る。


 一瞬、胃が縮んだ。

 なんで俺を見るんだ。

 いや、言い出したの俺だけど。


「神代先輩。熊の動き、追えますか?」

「ああ。この距離なら足音と呼吸で分かる」

「お願いします。死角に入ったら教えてください」

「了解」

「相沢先輩」

「うん」

「捕獲用の網、すぐ使えます?」

「まめ助」


 相沢先輩が呼ぶ。

 足元にいたまめ助が、ぴしっと片手を上げた。


 そのまま自治体職員たちが用意していた資材置き場へ走っていく。


「準備できるよ。誘導用のポールも持ってくるね」

「お願いします」


 次。


「水瀬さん」

「うん」

「魅了、使える?」


 水瀬さんの表情がわずかに強張った。

 当然だ。


 あのバレンタイン以来、彼女はスキルの使用にずっと慎重になっている。


「全力じゃなくていい。興奮を少し弱めるだけ。できそう?」

「……やってみる。熊に効くかは分かんないけど」

「危ないと思ったらすぐ切って」

「分かってる」


 水瀬さんが息を吐く。


「もう、あのときみたいにはしないから」

「うん」


 俺は熊へ目を戻した。


「俺はスキルの状態を見ます。強化が弱まったら伝えます」

「私は?」


 獣医師が聞く。


「鎮静をお願いします。撃てる状態になったら、俺が合図します」

「分かりました」


 これで。


「灰谷」


 低い声がした。


 鬼頭課長だった。


「俺は何をする」

「…………」


 言葉に詰まる。


 俺は鬼頭課長と熊、そして防護柵を見比べた。


 防護柵の支柱が一本、大きく傾いていた。

 次の体当たりで抜けるかもしれない。


 その向こうには住宅がある。


「……課長」

「なんだ」

「あの柵を、支えてください」

「柵?」

「熊が住宅側に抜けないように」


 鬼頭課長が壊れかけた防護柵を見る。


「それだけか?」

「大事なことですよ」


 沈黙。


「熊には手を出さないでください」

「…………」

「殴らない。投げない。押さえ込まない。熊が近づいてきてもです」

「目の前まで来てもか?」

「来てもです」

「襲われても?」

「避けられるなら避けてください」


 鬼頭課長の眉間に、深い皺が刻まれる。

 たぶんこの人にとっては、熊と殴り合えと言われる方が簡単なんだろう。


「あと」

「まだあるのか」

「力を入れすぎないでください」

「……何?」

「柵を壊したら意味ないんで」

「…………」

「一定の力でお願いします」


 鬼頭課長が黙る。

 俺はちょっとだけ後悔した。

 注文が多すぎたかもしれない。


 だが。


「分かった」


 鬼頭課長はそれだけ言うと、防護柵へ向かった。

 曲がった支柱を両手で掴む。

 ぎ、と金属が鳴った。


「課長」

「分かっている!」


 鬼頭課長が手を止める。

 危ない。

 今ので少し曲がった。


「……これくらいか」


 慎重に。

 本当に慎重に。

 鬼頭課長が支柱を支える。


 たぶん今日一番難しい顔をしていた。


「熊が動くぞ!」


 神代先輩の声。

 全員が緊張する。


 熊が走った。

 速い。

 強化が残っている。


「右! 柵沿いに来る!」

「水瀬さん!」

「うん!」


 水瀬さんが熊へ向き直る。

 胸元で手を握り、一度深呼吸した。


「大丈夫」


 静かな声だった。


「怖くないよ」


 熊の耳が動く。


「誰も、あなたを追いかけないから」


 空気が、わずかに変わった気がした。

 俺には水瀬さんのスキルが見えるわけじゃない。

 けれど。


『対象の心拍数、低下傾向』


 アナが告げる。


「効いてる……!」


 熊の速度が落ちた。

 唸り声も、少し小さくなる。


「そのまま!」


 熊が柵へ近づく。

 鬼頭課長の目の前だ。


「課長、動かないで!」

「分かっている!」


 熊が走る。


 距離、十メートル。

 五メートル。


 鬼頭課長が支柱を握る腕に力を込める。

 でも、前には出ない。


 熊が目の前を通過した。

 一瞬だけ、鬼頭課長と熊の視線がぶつかる。


「…………」


 鬼頭課長は動かなかった。

 拳も握らない。

 ただ、支柱を支えている。


 その支柱に、熊が身体をぶつけた。


 ガァンッ!


 柵が大きくしなる。

 鬼頭課長の靴が砂利の上を数センチ滑る。


 それでも、押し返さない。

 熊へ余計な衝撃を返さないように、ただ受け流す。


『強化率、微増。直前の上昇量と比較して軽微です』

「課長!」

「問題ない!」


 熊の情報を追う。


 上昇していた身体能力。

 その数値が、少しずつ落ちている。


 新しい衝撃が加わらなければ、強化は永続しないようだ。

 時間とともに減衰している。


「もう少し!」

「網、準備できたよ!」


 相沢先輩が叫ぶ。

 まめ助が網の端を抱えている。


 というか、ほとんど網に埋もれていた。


「まめ助、前見えてる?」

「…………!」


 網の中から片手だけ出た。

 たぶん大丈夫らしい。


「左へ動くぞ!」


 神代先輩。


「誘導します!」


 自治体職員と相沢先輩がポールを構える。


 熊に触れることなく、進路だけを狭めていく。

 水瀬さんが声をかけ続ける。


「大丈夫……そのまま、そのまま」


 熊の歩みが遅くなり、荒かった呼吸が落ち着いていく。


『身体能力の強化率、基準値付近まで低下』

「今です!」


 獣医師が麻酔銃を構える。

 乾いた音。


 熊の脇腹に、注射筒が刺さった。


「命中!」

「下がって!」


 全員が距離を取る。

 熊が振り返る。


 一瞬、また暴れるかと思った。

 だが。


「水瀬さん」

「うん」


 水瀬さんが声をかけ続ける。

 熊は数歩歩き。

 止まり。


 ふらついた。


「効いてきました!」


 獣医師が叫ぶ。

 熊の巨体が、ゆっくりと地面へ伏せる。

 完全に動かなくなるまで、誰も近づかなかった。


 数分後。


「鎮静を確認しました」


 獣医師の言葉と同時に。


「……はぁぁぁ」


 俺はその場に座り込みそうになった。


「終わった……」

「まだだよ、灰谷くん」


 相沢先輩が笑う。


「固定しないとね」

「あ、はい」


 まめ助が網を引っ張っていく。

 自治体職員たちも加わり、眠った熊へ網を被せていく。


 今回は誰も投げ飛ばしていない。

 地面にも亀裂は入っていない。


 防護柵は。


「…………」


 俺は鬼頭課長を見る。

 まだ支えていた。


「課長」

「なんだ」

「もう大丈夫ですよ」

「そうか」


 鬼頭課長が手を離すと、支柱はちゃんと立っていた。

 壊れてもいない。


「……壊しませんでしたね」

「当たり前だ!」


 久しぶりに怒鳴られた。

 ちょっと安心した。


 鬼頭課長が眠っている熊を見る。


「結局」


 ぽつりと呟く。


「俺は、何もできなかったな」

「え?」

「熊を止めたのは水瀬だ。位置を把握したのは神代。相沢とまめ助が捕獲を手伝い、お前がスキルを見た。最後に眠らせたのは先生だ」


 鬼頭課長は自分の両手を見る。


「俺一人では、どうにもできなかった」


 否定しようとして。

 やめた。


 たしかにそうだ。

 今回、鬼頭課長一人だったら。

 力で押さえようとして。

 力を使えば使うほど熊を強くして。

 どうなっていたか分からない。


「そうですね」


 俺が答えると、鬼頭課長の眉が動いた。


「お前、こういうときは普通、否定するものじゃないのか?」

「でも、一人じゃ無理だったのは本当なので」

「貴様……」

「ただ」


 俺は防護柵を見る。


「課長がいなかったら、あの柵を誰が支えれるって言うんですか?」

「…………」

「俺じゃ支えられないし、水瀬さんも無理です。神代先輩も相沢先輩も、別の仕事があった」


 鬼頭課長は黙っている。


「課長、何もしてなかったわけじゃないですよ」

「柵を支えていただけだ」

「それが必要だったんです」


 少し考えて。


「課長が支えてなかったら、あの一発で柵を抜かれてたかもしれませんし」

「……だが、熊を制圧できなかったぞ」

「でも、捕獲は成功しましたよ」


 鬼頭課長が俺を見る。


「そういう使い方も、ありなんじゃないですか?」


 しばらく返事はなかった。

 遠くで自治体職員たちが熊を運ぶ準備をしている。


 神代先輩が耳を押さえながら息を吐き、水瀬さんは緊張が解けたのか、その場にしゃがみ込んでいる。


 相沢先輩とまめ助は網の固定を手伝っていた。


 誰か一人が、全部やったわけじゃない。

 誰か一人が、全部できたわけでもない。

 鬼頭課長は、もう一度自分の手を見る。


 それから。


「……力の使い方、か」


 小さく呟いた。


「何か言いました?」

「何でもない!」

「なんで怒鳴るんですか」

「うるさい! 片付けるぞ!」

「はいはい」

「返事は一回!」

「はい!」


 いつもの鬼頭課長が歩き出す。


 ただ。

 壊れかけた防護柵の横を通るとき。

 ほんの一瞬だけ足を止めて。


 自分が支えていた支柱を確かめるように、軽く手を添えた。


 今度は。

 何も壊れなかった。


 そんな事実を確かめるような、手つきに見えた。

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