第36話 強さが、通じない
蛇口が、折れた。
「…………」
朝。
洗面所で顔を洗おうとして、ほんの少し捻っただけだった。
少なくとも、俺としてはそのつもりだった。
右手に残った蛇口のレバーを見る。
銀色の部品。
その向こうでは、行き場を失った水が勢いよく噴き出している。
「……くそっ」
慌てて元栓を閉める。
床に散った水をタオルで拭きながら、俺は折れた部品を睨んだ。
古かったのかもしれない。
そう思おうとして、やめた。
会社のドアノブも古かった。
ボールペンも古かった。
マグカップも、ホッチキスも、椅子も。
全部が全部、同じタイミングで古くなるわけがない。
「…………」
俺は濡れたシャツを脱ぎ、寝室へ戻った。
今日は現場に出る。
着替えなければならない。
クローゼットから新しいワイシャツを取り出し、袖を通す。
そのまま一番下のボタンに指をかけた。
慎重に。
力を入れすぎないように。
つまんで、穴へ通す。
それだけだ。
今まで何千回とやってきた。
「……よし」
一つ目。
二つ目。
三つ目。
少しずつ指先を動かす。
以前なら、何も考えずにできていた。
テレビを見ながらでもできた。
会社の予定を考えながらでもできた。
今は違う。
指先に意識を集中させなければならない。
四つ目。
五つ目。
あと少し。
最後のボタンをつまんだ瞬間。
ぷちっ。
「…………」
糸が切れた。
白いボタンが床を跳ねる。
ころころと転がり、ベッドの下へ消えていった。
「……くそっ!」
思わず拳を握る。
その瞬間、掌の中で嫌な音がした。
見ると、さっきまで握っていたシャツの裾に皺が寄り、一部が裂けていた。
「…………」
俺は拳を開いた。
怒るな。
力を入れるな。
落ち着け。
それくらい、自分で分かっている。
分かっているからこそ、余計に腹が立つのだろう。
別のシャツに着替える。
今度はボタンを引きちぎらなかった。
その代わり、玄関で靴紐を結ぶのに時間がかかった。
細い紐を指先でつまむ。
引っ張りすぎれば切れる。
かといって、緩すぎればほどけてしまう。
「……こんなもの」
結ぶだけだ。
子供でもできる。
だが、今の俺には難しい。
指先へ神経を集中させ、どうにか蝶結びを作る。
歪んでいる。
締まりも悪い。
昔の俺なら、こんな簡単なこともできない部下がいれば、言っていたかもしれない。
やるならきちんとやれ。
できないなら練習しろ。
何度でもやれば、そのうちできる。
「…………」
立ち上がる。
靴紐を見下ろした。
何度でもやれば、そのうちできる。
俺は、ずっとそう思ってきた。
世の中は変わった。
俺が会社員になってからだけでも、随分と変わった。
働き方改革。
ハラスメント。
多様な価値観。
在宅勤務。
昔とは違う。
今の時代は違う。
そんな言葉を何度も聞いてきた。
そのたびに、新しい規則を覚えればいいと思っていた。
残業するなと言われれば、時間内に終わらせる。
怒鳴るなと言われれば、怒鳴らないよう気をつける。
部下ごとに事情が違うと言われれば、それぞれに合わせる。
やり方が変わっただけだ。
根本は変わらない。
会社員は、与えられた仕事をやり遂げる。
辛くてもやる。
苦しくても乗り越える。
足りないものがあるなら努力で補う。
体力が足りないなら鍛える。
知識が足りないなら勉強する。
経験が足りないなら数をこなす。
それさえできれば、時代が変わろうと通用する。
俺はそう思っていた。
スキルが現れてからも、最初は同じだった。
神代が音や光に苦しみ始めた時も。
そんなもの、慣れればいいだけ。
俺は心のどこかでそう考えていた。
感覚が鋭くなったのなら、その感覚に身体を慣らせばいい。
水瀬の魅了スキルが暴走した時も。
使い方を覚えればいい。
制御できるよう練習すればいい。
相沢とまめ助が入れ替わった時ですら。
時間が経てば慣れる。
本人たちが自分のスキルを理解し、適応していけばいい。
もちろん、口には出さなかった。
部下が苦しんでいる時に、そんなことを言うほど馬鹿ではない。
だが、心のどこかでは思っていた。
結局は本人次第だと。
「…………」
電車の吊り革を握る。
いや。
握らない。
俺は手を浮かせたまま、吊り革に軽く指を添えるだけにした。
引きちぎったら洒落にならん。
混雑した車内。
いつもなら、多少身体がぶつかろうと気にも留めなかった。
今日は違う。
誰かの足を踏まないように。
肩をぶつけないように。
押し返さないように。
一挙一動に神経を使う。
疲れる。
何もしていないのに疲れる。
俺はそこで、ようやく認めざるを得なかった。
慣れればいい。
努力すればいい。
そんな簡単な話ではない。
自分の身体なのに、自分の思い通りにならない。
弱くなったわけではない。
むしろ逆だ。
強くなった。
以前の何倍も。
だが、そのせいでできないことが増えた。
普通に蛇口を捻れない。
ボタンを留められない。
靴紐を結ぶだけで神経を使う。
人混みでは、誰かを傷つけないよう身体を縮こまらせる。
努力している。
以前よりずっと気をつけている。
それでも、油断すれば簡単に破壊してしまう。
場合によっては、頑張れば頑張るほど周りに迷惑をかける。
「…………」
俺は電車の窓に映った自分を見る。
こんなことは、部下には言えない。
言えるわけがない。
俺は課長だ。
五人しかいない営業二課の責任者だ。
神代が苦しんでいれば、働ける環境を考える。
水瀬がスキルを恐れていれば、仕事で使わせないようにする。
相沢とまめ助に問題が起きれば、無理をさせないよう規則を作る。
灰谷が何か妙なことに巻き込まれているなら――。
「……あいつは、まあ、篠崎に任せるしかないか」
俺にはよく分からん。
だが。
俺自身はどうする。
もし、この力に適応できなかったら。
会社員として、当たり前のことができなくなったら。
部下に備品を用意させ。
周りに気を遣わせ。
何かを触るたびに壊さないか心配される。
そんな人間が、いつまで課長として通用する。
いつまで会社に必要とされる。
「…………」
その考えを、頭から追い払う。
くだらん。
考えても仕方がない。
俺には仕事がある。
今日も現場だ。
スキル害獣対策。
皮膚を硬くするイノシシ。
異常な速度で走る鹿。
人の声を真似するカラス。
スキルを得た動物による被害は、少しずつ増えている。
そして、こういう仕事なら。
俺の力は役に立つ。
蛇口を壊す力でも。
ボタンを引きちぎる指でも。
獣を相手にするなら、欠点ではない。
むしろ武器になるだろう。
「そうだ」
俺は小さく呟いた。
「使える場所で使えばいい」
灰谷たちには聞こえない。
誰にも聞かせる必要はない。
今日の相手は熊だ。
自治体から連絡があった時、社員たちは随分と警戒していた。
当然だ。
熊は危険だ。
スキルなどなくても、人間より遥かに強い。
ましてや、どんな能力を持っているか分からない。
だからこそ。
俺の出番だ。
「熊だろうが何だろうが、押さえ込めば終わりだ」
口に出す。
自分自身に言い聞かせるように。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
現場は、山際にある資材置き場だった。
周囲には規制線が張られ、警察と自治体職員、それから猟友会の人間が待機している。
従業員はすでに避難済み。
残っているのは、俺たちと関係者だけだ。
「課長」
灰谷が隣に並ぶ。
ヘルメットを被り、周囲を見回している。
「熊は奥の方にいるようです」
「見えたのか?」
「いえ。神代先輩が」
少し離れた場所で、神代が片耳を押さえている。
「……金属が擦れる音がする。あっちだ。積んである資材の奥」
資材置き場には鉄パイプや木材、金属板が積まれていた。
熊が暴れれば危険だ。
前回の倉庫以上に、投げ飛ばすわけにはいかない。
「灰谷」
「はい」
「見つけたらすぐ鑑定しろ」
「分かってます」
「水瀬と相沢は下がっていろ」
「課長も無茶しないでくださいね」
水瀬が言う。
「無茶はせん」
俺は手袋を締める。
その留め具を壊さないよう、慎重に。
「仕事をするだけだ」
ゆっくり進む。
資材の山を回り込んだ、その先。
「……いた」
黒い塊が動いた。
でかい。
以前テレビで見た熊より、一回りは大きく見える。
四足で立っているだけで、こちらの腰より高い。
熊が鼻を鳴らす。
「グルルルル……」
低い唸り声。
こちらに気づいた。
「課長、待ってください! まだ鑑定が――」
「時間をかければ逃げられる」
熊が身を低くする。
来る。
「俺が止める!」
地面を蹴る。
熊も同時に走り出した。
正面からぶつかる。
「おおおおおっ!」
両手で熊の肩口を掴む。
凄まじい衝撃。
だが。
「――っ!」
止めた。
足元の土が抉れる。
熊が唸る。
俺も歯を食いしばる。
力比べなら負けん!
「この……!」
腕に力を込める。
押す。
地面へ押さえ込む。
前回のイノシシと同じだ。
投げる必要はない。
押さえ込んで、捕獲班が来るまで動きを封じれば――。
「……なんだ?」
動かない。
熊の身体が、ほとんど沈まない。
俺は力を込めている。
間違いなく込めている。
それなのに。
「課長! 離れてください!」
灰谷の声が飛ぶ。
「まだだ!」
もう一段階、力を込める。
熊の前脚がわずかに沈んだ。
「いける!」
そう思った瞬間だった。
「グオオオオオオオッ!」
熊が吠える。
「な――」
目の前で、熊の身体が膨れた。
錯覚ではない。
肩が盛り上がり、前脚が太くなる。
筋肉が、内側から押し広げられるように隆起した。
次の瞬間。
「ぐっ!」
身体が浮いた。
熊の一振り。
それだけで、俺は地面から引き剥がされた。
「課長!」
数メートル飛ばされ、背中から地面へ落ちる。
「がっ……!」
息が詰まる。
転がりながら、すぐに起き上がる。
痛みはある。
だが、まだ動ける。
そう言い聞かせ、視線を上げた俺は、思わず声を漏らした。
「どういうことだ……」
さっきより明らかに大きい。
いや。
大きくなったというより。
強くなっている。
熊が前脚で地面を掻く。
その爪が土を深く抉った。
「課長!」
灰谷が叫ぶ。
その顔が青ざめている。
「鑑定できました!」
「何だ!」
「その熊――」
熊が咆哮する。
灰谷の声が、その咆哮に負けないほど大きく響いた。
「受けた衝撃を、力に変えています!」
「……何?」
「殴るのも、押すのも駄目です! 受けた力が強いほど、一時的に身体能力が上がる!」
俺は熊を見る。
盛り上がった肩。
太くなった前脚。
地面へ食い込む爪。
そして。
さっき俺が全力で押さえ込もうとした、その身体。
「…………」
理解した。
俺が力を込めたからだ。
俺が押したから。
こいつは強くなった。
「グオオオオオッ!」
熊が立ち上がる。
さっきまでよりも、遥かに大きく見えた。
俺は拳を握った。
力で押さえ込めばいい。
熊だろうが何だろうが、それで終わる。
そう思っていた。
だが目の前にいるのは。
俺が力を使えば使うほど。
その力を喰って強くなる相手だった。




