第35話 まだ、社会人として通用する
俺たちが食品物流倉庫でイノシシを捕獲してから、数日後。
世の中というのは、思っていた以上に分かりやすかった。
『スキル害獣に新たな対策――民間企業が捕獲支援』
『怪力サラリーマン、今度は倉庫でイノシシを制圧』
『投げない怪力課長、華麗なる押さえ込み』
「……最後の見出し、なんなんだよ」
昼休み。
スマホに表示されたニュース記事を見ながら、俺はため息をついた。
『眠太くん、有名人ねぇ』
チャーマが楽しそうに笑う。
「有名なのは俺じゃないぞ」
『画像の端に映り込んでいます』
アナが冷静に補足する。
言われて気づいたが、確かに映ってるな。
やだなぁ。
これもまた、チョコハザードの時みたいにオモチャにされるんだろうか。
『ちっちゃいねぇ』
「それがせめてもの救いだよ」
問題なのは、記事の中心だ。
倉庫の監視カメラ映像と、自治体が発表した現場写真。
そこには、硬化したイノシシの頭を両手で掴み、真正面から押さえ込んでいる鬼頭課長の姿がばっちり写っていた。
前回のイノシシ投げ飛ばし事件――いや、事件ではないのだが――に続いて、二度目である。
当然、会社も黙ってはいなかった。
「灰谷」
「はい」
呼ばれて顔を上げる。
鬼頭課長が、一枚の紙を持って俺の机の横に立っていた。
「午後の予定が変わった」
「またですか?」
「まただ」
渡された紙を見る。
害獣対策支援、現場予定表。
今日の午後。
明日の午前。
明後日の午後。
その翌日。
「……増えてません?」
「見ての通りだ」
「昨日見た時、明後日は空いてましたよね?」
「埋まった」
「その翌日は?」
「今朝埋まった。なんなら、まだ先まで埋まる可能性がある」
さらっと言われた。
俺は予定表を見直す。
都内の資材置き場に入り込んだ大型のアライグマ。
郊外の畑を荒らしているイノシシ。
倉庫街を走り回る、異常に素早い鹿。
住宅地のゴミ集積所を占拠している猿。
「課長」
「なんだ」
「俺たち、営業二課ですよね?」
「そうだ」
「営業する時間、あります?」
「移動中にしろ」
「新幹線の車内で仕事する出張族みたいなこと言わないでください」
そもそも都内だ。
移動時間なんて、せいぜい一時間程度しかない。
「すごいことになってるね」
相沢先輩が俺の手元を覗き込む。
その足元では、まめ助が予定表を見上げながら首を傾げていた。
「これ、全部受けるんですか?」
水瀬さんも近づいてくる。
「ああ」
「全部?」
「その予定だ」
「課長、明日なんて午前中が現場で、午後から普通に会議入ってますよ」
「問題ない」
「問題ありますよ」
即答したのは神代先輩だった。
珍しい。
普段なら、この手のやり取りを遠巻きに眺めていることが多い人なのに。
「俺たちも同行するんですよね?」
「当然だ」
「俺、昨日から動物の鳴き声が夢に出てくるんですけど」
「慣れろ」
「慣れたくないです」
神代先輩が真顔で言った。
その気持ちは分かる。
俺だって、イノシシを見るたびに「こいつも皮膚が硬くなるんじゃないか」と警戒する生活にはなりたくない。
「そもそも、なんで急にこんな増えたんですか?」
水瀬さんが聞く。
鬼頭課長は少しだけ眉を寄せた。
「上が乗り気になった」
「上?」
「役員だ」
嫌な予感がする。
最近、この会社で役員が乗り気になった結果、ろくなことが起きた記憶がない。
「今朝も呼ばれた。うちの実績として積極的に売り出したいらしい」
「売り出す……」
「『スキル社会に対応する新しい企業支援サービス』だそうだ」
そこまでは分かる。
会社として、新しい需要を事業にする。
それ自体は別におかしくない。
「それと」
鬼頭課長が続ける。
「俺を広報に使うそうだ」
「……はい?」
「『怪力課長』」
営業二課が静まり返った。
「今、なんて?」
「怪力課長だ」
聞き間違いであってほしかった。
「課長、それ受けたんですか?」
「広報部が勝手に考えただけだ」
「断りましょう」
「なぜだ」
「なぜって」
水瀬さんが困ったように笑う。
「課長、会社員ですよ?」
「分かっている」
「ヒーローじゃないんですよ?」
「分かっている」
「着ぐるみとか作られませんよね?」
「知らん」
まめ助がびくっとした。
たぶん着ぐるみという単語に反応したんだと思う。
俺も嫌な想像をしてしまった。
胸に会社のロゴが入った鬼頭課長の着ぐるみ。
子供が泣く。
絶対に泣くぞ。
もちろん、俺は笑うけど。
「ともかく」
鬼頭課長が話を戻す。
「依頼が来ている以上、できる限り対応する」
「できる限りって、この予定は限界を超えてません?」
「まだ空いている時間がある」
「それを休みって言うんですよ」
俺は予定表を机に置いた。
「課長は捕獲用の道具じゃありませんよね」
鬼頭課長の眉が動いた。
「なんだと?」
「会社が課長の力を当てにするのは分かります。でも、これじゃ課長が動けるだけ現場を入れてるじゃないですか」
「仕事だ」
「だからって――」
「灰谷くんの言う通りだね」
相沢先輩だった。
いつもの柔らかい声。
けれど、表情は笑っていない。
「課長、この予定は減らした方がいいと思う」
「相沢まで何を言っている」
「少し前の私と、同じに見えるからだね」
鬼頭課長が黙った。
まめ助が、相沢先輩の足元にぴたりと寄り添う。
「まめ助が何でもできるからって、私は仕事を受けすぎた。頼られるのが嬉しくて、役に立てるのが嬉しくて、断らなかった」
「…………」
「それで結局、まめ助を働かせすぎたんだね」
相沢先輩は、足元を見る。
まめ助が小さな手で、相沢先輩のズボンを掴んだ。
「私は、自分で選んでいるつもりだったよ。でも、振り返ってみたら、断らないことと自分で選ぶことを混同してた」
穏やかな言葉だった。
だからこそ重い。
実際、相沢先輩はまめ助と入れ替わるという、誰も予想していなかった事態にまでなったわけだし。
「今度は課長が同じことになったら、笑えないんだね」
「俺とお前は違う」
「そうかもしれない」
相沢先輩は否定しなかった。
「でも、使い潰された後で気づくのは、嫌なんだね」
しばらく誰も喋らなかった。
やがて鬼頭課長が、予定表を俺の机から取る。
「勘違いするな」
低い声だった。
「これは俺が選んでやっている仕事だ」
「課長」
「会社にやれと言われたからではない」
鬼頭課長は自分の右手を見る。
何度も物を壊してきた手だ。
ドアノブを引き抜き。
ボールペンを折り。
マグカップを潰し。
ホッチキスを机にめり込ませ。
椅子まで壊した。
今では、机の上に置かれた備品のほとんどが、相沢先輩とまめ助が選んだ頑丈なものに変わっている。
「この力は、普段の仕事には邪魔だ」
ぽつりと、鬼頭課長が言った。
俺は何も言えなかった。
「書類一枚扱うにも気を遣う。扉を開けるにも、椅子に座るにもだ。今まで普通にできていたことが、いちいち面倒になった」
鬼頭課長の口から、そんな言葉を聞いたのは初めてだった。
今まで課長は、壊した物を見ても「古かった」「脆かった」「元から壊れかけていた」と言い張っていた。
困っているなんて、一度も言わなかったのに。
「だが、現場では違う」
右手が握られる。
「必要とされる」
短い一言だった。
「俺が押さえなければ捕まえられない獣がいる。俺の力で守れる人間がいる。結果を出せば、仕事になる」
「…………」
「だったらやる。それだけだ」
そして鬼頭課長は、俺たちを見回した。
「この力を持て余して、物を壊すだけの人間になるつもりはない」
いつもの怒鳴り声ではなかった。
むしろ静かだ。
静かで、迫力がある。
「まだ俺は、社会人として通用する」
胸の奥に、何かが引っかかった。
鬼頭課長は、誰よりも仕事に厳しい。
部下にも厳しい。
自分には、たぶんもっと厳しい。
だからこそ。
できないことが増えた自分を、誰より許せていないのかもしれない。
『……不器用な人ねぇ』
チャーマが小さく呟く。
珍しく茶化さなかった。
「課長」
俺が口を開きかけた、その時だった。
内線電話が鳴った。
鬼頭課長が受話器を取る。
「営業二課、鬼頭だ」
数秒。
課長の表情が変わった。
「場所は」
さらに数秒。
「被害は」
俺たちは顔を見合わせる。
明らかに、さっきまでの予定調整とは違う。
「分かった。資料を送れ」
受話器が置かれる。
「新しい依頼ですか?」
水瀬さんが尋ねた。
「ああ」
「今度は何です?」
「熊だ」
誰も反応できなかった。
「……熊?」
「山間部の住宅地に出た。大型のツキノワグマらしい」
イノシシ。
鹿。
猿。
アライグマ。
ここまでは、なんとなく想像できた。
だが。
「熊って……俺たちが行くんですか?」
「まだ決まっていない」
鬼頭課長がパソコンを操作する。
すぐに新着メールが届いた。
添付された資料を開く。
住宅地を撮影した写真。
倒されたゴミ集積所の柵。
ひしゃげた物置。
そして、防犯カメラに映った黒い大きな影。
「でか……」
水瀬さんが息を呑む。
「普通の個体じゃないんですか?」
「違う可能性が高いそうだ」
鬼頭課長が資料を送ってくる。
俺も自分のパソコンで開いた。
自治体側の調査記録。
複数の専門家による所見。
そして最後に、一文。
――スキル保有個体の可能性あり。
「専門家からは?」
「接近そのものを危険視している」
「ですよね」
そりゃそうだ。
熊は、スキルなんてなくても危険だ。
そこに何かが上乗せされている。
「捕獲業者からも、通常手順での対応は難しいと連絡が来ている」
「じゃあ、なおさら――」
「だからこそ、うちに話が来た」
鬼頭課長は立ち上がった。
「現地の専門家と打ち合わせる。決行日の調整に入るぞ」
「行くんですか?」
俺が聞く。
鬼頭課長は、当然のことのように答えた。
「行く」
その横顔に、迷いはなかった。
さっき聞いた言葉が、頭の中に残っている。
――必要とされる。
――まだ俺は、社会人として通用する。
俺は画面に映った熊を見る。
暗い住宅街。
街灯の向こう。
二本足で立ち上がった黒い影は、写真越しでも十分すぎるほど大きい。
『眠太くん』
ヒーラが不安そうに呼びかける。
「分かってる」
今回は。
今までと同じつもりで行ったら、たぶん駄目だ。
俺は、画面の中の熊から目を離せなかった。




