第33話 手を借りるということ
初仕事を終えた翌朝。
営業二課に着いた俺は、鬼頭課長の机の上を見て、思わず足を止めた。
「……なんですか、それ」
机の上に、見慣れない物が並んでいる。
やけに太いボールペン。
金属製の頑丈そうなマグカップ。
大きなクリップでまとめられた書類。
そして、妙に存在感のある黒いホッチキス。
「私とまめ助で用意したんだね」
答えたのは相沢先輩だった。
その足元では、まめ助が小さな胸を張っている。
「昨日、課長が帰ったあとに少し調べてみたんだ。なるべく壊れにくいものとか、強く握らなくても使えるものとか」
「なるほど……」
俺は太いボールペンを手に取った。
普通のものより二回りくらい太い。
表面には柔らかい素材が巻かれていて、軽く持つだけでも指に引っかかる。
「これなら課長でもいけるんじゃないですか?」
「子供用とか、握力が弱い人向けの道具も参考にしたんだね。力が強すぎる場合でも、使いやすいかなって」
なるほど。
発想としては逆だが、確かに理屈は同じなのかもしれない。
必要以上に握らなくても扱える道具なら、鬼頭課長がうっかり破壊する可能性も減る。
『合理的な対応です』
アナが淡々と評価する。
『まめ助ちゃん、頑張ったんだねぇ』
『あらぁ。愛よ、愛。こういう気遣い、大事よぉ?』
頭の中でも好評らしい。
「ホッチキスは?」
「業務用の丈夫なものだね。軽く押しても留められるタイプ」
「マグカップは?」
「落としても割れにくいやつ」
「クリップは?」
「課長、昨日書類を持っただけで端を破いちゃったから」
「なるほど……」
対鬼頭課長装備が充実している。
今の鬼頭課長には、割と切実な問題だから仕方ないな。
昨日、食品物流倉庫で害獣捕獲の初仕事を終えたあとも、課長の怪力は元に戻らなかった。
むしろ、以前より扱いに困っているように見える。
会社へ戻る途中、自動販売機で買ったペットボトルの蓋をねじ切っていたし。
帰社して報告書を書こうとして、ボールペンを一本折った。
最後には椅子を引こうとして、背もたれを掴んだまま固まっていた。
幸い、椅子に関しては壊さなかった。
たぶん、壊れる前に手を離したんだと思う。
「相沢」
低い声がした。
振り返ると、鬼頭課長が立っていた。
「おはようございます、課長」
「おう」
いつもの短い挨拶。
そして課長の視線が、机の上へ向く。
「これはなんだ」
「課長用に用意したんだね」
「俺用?」
「最近、普通の道具だと使いにくそうだから。壊れにくいものとか、あまり力を入れなくても使えるものを――」
「いらん」
即答だった。
相沢先輩が目を瞬く。
「でも」
「俺一人のために余計な仕事を増やすな」
鬼頭課長はそう言って、自分の席へ座った。
とはいえ、その動きは妙に慎重だ。
椅子の背もたれには触れない。
座面の端へ手を添えて、ほんの少しだけ位置を調整してから腰を下ろす。
以前の鬼頭課長なら、椅子なんて片手で豪快に引いていた。
申し訳ないけど、ガタイの良い課長がそんな慎重な仕草をしていると思うと、妙に笑いがこみあげてきてしまう。
「課長、これは余計な仕事じゃないよね」
「相沢」
「昨日の捕獲だって、課長一人じゃなかったでしょ?」
「…………」
「私も、最近やっと少し分かったんだ」
相沢先輩の声は穏やかだった。
足元のまめ助を見る。
まめ助も相沢先輩を見上げていた。
「できないことを手伝ってもらうのは、負けじゃないんだね」
その言葉は、鬼頭課長に向けたものだった。
でも同時に、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
少し前までの相沢先輩なら、きっと言えなかった言葉だ。
何でも自分でやろうとして。
まめ助にも全部やらせようとして。
それができなくなった自分を責めていた人だからこそ、出てきた言葉なんだと思う。
「…………」
鬼頭課長は何も答えなかった。
ただ、机の上に並んだ道具を見る。
まめ助が、ずいっと太いボールペンを差し出した。
「…………」
鬼頭課長が見る。
まめ助も見る。
「…………」
「…………」
無言の攻防が始まった。
「課長」
俺は思わず口を挟む。
「まめ助、たぶん引かないですよ」
「分かっている」
鬼頭課長は苦々しい顔をした。
まめ助は両手でボールペンを掲げたままだ。
根性がある。
というか、鬼頭課長相手に一歩も引かない辺り、営業二課で一番肝が据わってるんじゃないだろうか。
「置いておけ」
最終的に鬼頭課長が折れた。
まめ助が嬉しそうに机の上へボールペンを置く。
「使うとは言っていないからな」
誰に対する言い訳なんだろう。
相沢先輩は笑っていた。
俺も少しだけ笑った。
けれど。
その日の仕事を始めてから、俺は別のことにも気づいた。
「課長、これお願いします」
水瀬さんが書類を持って近づく。
すると鬼頭課長は、
「そこに置け」
机の端を指した。
「はい?」
「そこだ」
「あ、はい」
水瀬さんが書類を置く。
鬼頭課長は、水瀬さんが一歩離れてから書類を取った。
昼前には、神代先輩と廊下ですれ違いそうになった。
そのときも鬼頭課長は、わざわざ壁際まで寄って道を譲った。
「……課長?」
「早く行け」
「はい」
神代先輩が怪訝そうな顔で通り過ぎる。
偶然かと思った。
でも、どうやら違うらしい。
鬼頭課長は、人と距離を取っている。
書類の手渡しはしない。
狭い場所では先に相手を通す。
誰かが近づけば、自分から一歩下がる。
以前の鬼頭課長なら考えられない。
むしろ向こうから大股で近づいてきて、肩を叩きながら「もっと気合いを入れろ!」とか言う人だった。
『接触回避行動が増加しています』
アナも気づいていたらしい。
「だよな」
『眠太くんに触ったら、怪我させちゃうかもしれないもんねぇ……』
ヒーラの声が沈む。
『あの人、自分が怖いのねぇ』
チャーマが珍しく静かな声で言った。
「自分が?」
『自分の力よぉ。自分が誰かを傷つけるのが怖いの』
俺は鬼頭課長を見る。
課長は電話を取ろうとしていた。
だが一瞬、手を止める。
受話器をじっと見てから、壊れ物を扱うようにそっと持ち上げた。
「……もしもし。営業二課、鬼頭だ」
その声だけは、いつも通りだった。
大きくて。
よく響いて。
何も困っていないように聞こえる。
けれどたぶん。
あの人は今、何をするにも考えている。
どれくらいの力なら壊さないのか。
どこまで近づけば危険なのか。
誰かに触れてしまわないか。
強くなったはずなのに。
できないことばかりが増えているって感じだ。
「難しいな……」
『スキルの成長が必ずしも生活の利便性向上につながるとは限りません』
「身をもって証明してるな」
そんなことを考えていたときだった。
机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見ると、篠崎さんからのメッセージだった。
『灰谷さん、調査の準備が整いました』
心臓が少しだけ速くなる。
続けてメッセージが届く。
『以前お話しした大学病院の研究棟で実施できます。都合の良い日に来てもらえませんか?』
「来たか……」
『調査ですね』
アナが言う。
『大丈夫だよぉ、眠太くん。何かあったら私もいるからねぇ』
『そうよぉ。変なことされたらアタシが篠崎ちゃんをメロメロに――』
「それは絶対にやめろよ」
「灰谷君?」
顔を上げる。
隣の席から、水瀬さんが俺を見ていた。
「どうしたの?」
「ああ、いや。篠崎さんから」
「篠崎さん?」
俺はメッセージを見せる。
水瀬さんの表情が少し真面目になった。
「調査、受けるんだよね」
「一応、そのつもり」
「一人で行くの?」
「そのつもりだったけど」
「私も行く」
即答だった。
「え?」
「同席していいか聞いてみて」
「いや、水瀬さん仕事は」
「灰谷君だって仕事でしょ」
「そうなんだけど」
「それに」
水瀬さんが少し声を落とす。
「私のスキルのときのことも、調べるんでしょ?」
そうだった。
篠崎さんが俺を疑うきっかけになった一つが、チョコハザードのときの俺だ。
水瀬さんの魅了を受けながら、俺だけがある程度自分の意思で動けていた。
それを篠崎さんは、俺の『鑑定スキル』に何らかの意思が存在し、俺を守った可能性があると考えている。
本当は一体どころか三体いるんだけど。
「……分かった。聞いてみる」
返信を打とうとしたところで、
「なんの話だ」
背後から声がした。
「うわっ」
振り返ると鬼頭課長がいた。
ただし、いつもより少し遠い。
俺の椅子から一メートル以上離れたところで立っている。
「篠崎さんから、調査の準備ができたって連絡が来たんです」
「例の件か」
「はい」
以前、研究協力の話をしたとき、鬼頭課長にも概要は伝えてある。
もちろん、俺がアナたちの存在を隠していることまでは話していない。
鬼頭課長は少し考え、
「篠崎に電話しろ」
「え?」
「確認することがある」
嫌な予感がした。
でも逆らえる空気でもない。
俺は篠崎さんへ電話をかけた。
『はい、篠崎です』
「あ、灰谷です」
『メッセージ見てもらえました?』
「はい。それで、水瀬さんも同席したいと言ってるんですけど」
『もちろん構いません。むしろ当時の状況確認もできますので、私としては助かります』
「あと、鬼頭課長が話したいことがあるそうで」
『課長さんが?』
俺はスマートフォンをスピーカーに切り替え、鬼頭課長へ差し出した。
「篠崎」
『はい』
鬼頭課長の声が一段低くなる。
「灰谷の調査について、条件が二つある」
『聞きましょう』
「一つ。調査で知った情報を、灰谷本人の許可なく社外へ共有するな」
篠崎さんは黙らなかった。
『分かりました』
即答だった。
『灰谷さん本人の許可なく、調査結果を外部へ共有しません。研究チーム内についても同様に扱います』
「二つ目だ」
鬼頭課長が続ける。
「灰谷が中止を求めたら、その時点で調査を止めろ」
『それも受け入れます』
「理由を聞くために引き止めるのもなしだ」
『はい』
「本当だな」
『研究協力は本人の意思が最優先です。その二点は正式な条件として記録しておきます』
篠崎さんの声は、いつもの軽い調子ではなかった。
研究者としての声だった。
『他にはありますか?』
「今のところはない」
言いたいことを言い終えたのか、鬼頭課長が俺にスマホを返してくれる。
何はともあれ、俺のスマホが握りつぶされることが無くて安心した。
『では、灰谷さん』
「はい」
『安心して――と言い切るのも無責任ですね。でも、約束した条件は守ります』
「……分かりました」
『日程については、都合のいい日をメッセージで送っておいてください。水瀬さんもよろしくお願いします』
「はい」
水瀬さんが答える。
通話が切れた。
「課長」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
鬼頭課長はそれだけ言うと、自分の席へ戻ろうとした。
俺の横を通る。
――と思った瞬間。
課長は途中で進路を変えた。
俺の椅子から大きく離れ、遠回りして自席へ向かう。
「…………」
やっぱりだ。
気のせいじゃない。
鬼頭課長は、俺たちに触れないようにしている。
その背中を見送っていると、相沢先輩が用意した道具が目に入った。
太いボールペン。
頑丈なマグカップ。
軽い力で使えるホッチキス。
どれもまだ、机の端に置かれたままだった。
手を借りるのは、負けじゃない。
相沢先輩はそう言った。
たぶんそれは、今の鬼頭課長に一番必要な言葉なんだと思う。
そして。
俺にも、少しだけ必要な言葉なのかもしれない。
『眠太くん?』
「なんでもない」
俺は篠崎さんとのメッセージ画面を見る。
自分の中にいる三人のことを調べてもらう。
一人では分からないことを、誰かの力を借りて確かめる。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
そろそろ俺も、自分の中で起きていることから目を逸らしてばかりはいられない。
調査の日が、近づいていた。




