第30話 怪力課長、物を壊す
翌朝。
会社に着いた俺が最初に目撃したのは、鬼頭課長がドアノブを持って立ち尽くしている姿だった。
「…………」
「…………」
視線が合う。
鬼頭課長の右手には、銀色のドアノブ。
その向こうには、ぽっかり穴の空いた営業二課の扉。
俺は、とりあえず挨拶した。
「おはようございます」
「おう」
「それ、どうしたんですか?」
「取れた」
「それは、まぁ、見れば分かります」
問題は、どうして取れたのかだ。
鬼頭課長は手の中のドアノブを睨み、それから扉を見る。
「古くなっていたんだろう」
「そうですかね」
「そうだ」
「昨日まで普通に使えてましたけど」
「寿命というものは突然来る」
人間みたいなことを言い出した。
俺は課長の手に握られたドアノブを見る。
根元の金属部分が、きれいにねじ切れていた。
経年劣化というより、ゴリラによる犯行現場に見える。
『破断面を確認』
アナの声が頭の中に響く。
『金属疲労の蓄積は認められますが、今回の破損原因としては――』
「灰谷」
「はい」
「何か言いたそうだな」
「いいえ。ドアにも寿命はありますよね」
「そうだ」
俺はアナの鑑定結果を聞かないことにした。
社会人には、知らなくていい真実がある。
設備管理の人には申し訳ないが、これは経年劣化ということにしておこう。
「おはようございます」
そこへ水瀬さんがやって来た。
俺と鬼頭課長と、その手に握られたドアノブを順番に見る。
「……何してるの?」
「ドアノブが寿命を迎えたらしい」
「寿命」
「そうだ」
鬼頭課長が強く言う。
水瀬さんは一瞬だけ黙ったあと、
「そうなんですね」
と笑顔で答えた。
大人だ。
「総務には俺から言っておく。二人とも仕事を始めろ」
「はい」
「分かりました」
俺たちは何も見なかったことにして、営業二課へ入った。
このときの俺は、まだ思っていた。
まあ、たまたまだろう、と。
五分後。
鬼頭課長のボールペンが折れた。
ぱきん。
朝の静かな営業二課に、乾いた音が響く。
「…………」
「…………」
鬼頭課長の指の間で、黒いボールペンが真ん中からへし折れている。
課長はしばらくそれを見つめていた。
「……最近の文房具は脆いな」
来た。
二回目だ。
「百均のですか?」
神代先輩が聞く。
「備品だ」
「それ一本二百円くらいするやつですね」
「値段と耐久性は比例しない」
「なるほど」
神代先輩も引いた。
俺はパソコンへ視線を戻す。
関わらない。
今日の俺は朝イチから追加資料の確認がある。
余計な仕事を増やしている場合ではない。
『眠太くぅん』
ヒーラが遠慮がちに呼びかけてくる。
『あのぉ……課長さん、なんか変じゃなぁい?』
『変なのはいつものことでしょ』
チャーマが答えた。
『そういう意味じゃなくてぇ』
『分かってるわよ。アタシも思ってたところ』
嫌な予感がした。
俺はそっと鬼頭課長を見る。
課長は折れたボールペンをゴミ箱に捨て、新しいものを取り出した。
そして今度は、明らかに慎重な手つきで握っている。
気のせいか。
いや。
さっきドアノブを壊したときもそうだった。
力加減を間違えた?
「灰谷」
「はい」
「昨日送った資料はどうなっている」
「今確認してます。あと十分くらいで――」
「遅い。五分でやれ」
「無茶言わないでください」
「鑑定を使えばできるだろう」
「脳みそにも労働基準法を適用してほしいんですが」
「ないものを求めるな」
ひどい上司である。
ただ、いつも通りだ。
少し安心した。
その直後。
「まったく……」
鬼頭課長がマグカップを持ち上げた。
みしっ。
嫌な音がした。
「あ」
水瀬さんが声を上げる。
俺も見た。
鬼頭課長も見た。
課長の手の中で、白いマグカップに亀裂が走っている。
ぴし。
ぴしぴし。
そして。
ぱきん。
取っ手が落ちた。
机の上に。
「…………」
誰も喋らない。
鬼頭課長がゆっくり残ったカップを机に置く。
「不良品だ」
「それ、課長ずっと使ってませんでした?」
水瀬さんが言った。
「今日壊れたなら今日が寿命だ」
「便利ですね、寿命」
「何が言いたい」
「何も言ってません」
さすがに三回目となると、偶然では済まされない。
『鑑定を推奨します』
だよな。
俺は鬼頭課長へ意識を向ける。
情報が視界に浮かんだ。
名前。
体調。
スキル。
そこまでは、いつもと同じ。
だが。
「……え?」
思わず声が出た。
「どうした、灰谷」
「いえ」
俺は表示された情報を見直す。
鬼頭課長の身体能力強化スキルが、前よりもレベルアップしている。
いつの間に?
『対象の身体能力強化スキルに成長を確認』
アナが補足する。
『筋力上昇率の増加に加え、瞬発力、反射速度、動体視力、神経伝達速度にも上昇傾向を確認しました』
『えぇっ。課長さん、また強くなったのぉ?』
『ますます人間離れしていくわねぇ』
やめろチャーマ。
俺も同じことを考えたけど。
『一方、出力制御に遅延が確認されます』
「出力制御?」
思わず口にしてしまった。
「灰谷?」
「……課長。ちょっといいですか?」
「なんだ」
「鑑定していいですか?」
「もうしてるだろう」
ばれていた。
「すみません」
「で?」
「課長のスキル、レベルが上がってるみたいです」
営業二課が静かになる。
鬼頭課長が眉を寄せた。
「いつだ」
「分かりません。ただ、少なくとも前に見たときより身体能力が上がってます」
「どれくらいだ」
「単純な筋力だけじゃないみたいです。瞬発力とか、反射速度とか、そういう部分もまとめて」
「そうか」
鬼頭課長は自分の手を見る。
驚くでも、喜ぶでもなかった。
じっと手のひらを見つめている。
「それでドアノブやペンが壊れたのか?」
「たぶん」
「マグカップも?」
「たぶん」
しばらく沈黙が続いた。
神代先輩が口を開く。
「課長、今日ちょっと休んだほうがいいんじゃないですか?」
「なぜだ」
「だって力加減できてないんですよね?」
「慣れれば問題ない」
即答だった。
出た。
鬼頭課長の必殺技。
気合いで何とかする。
「いや、でも――」
「身体能力が上がっただけだ。動かしていればそのうち感覚も追いつく」
「そういうものなんですかね」
「そういうものだ」
根拠は……多分ない。
だが本人だけは自信満々だった。
「仕事を止める理由にはならん。全員、手を動かせ」
いつもの鬼頭課長だ。
俺たちは顔を見合わせ、それぞれの仕事へ戻った。
十分後。
鬼頭課長がホチキスを壊した。
がしゃん!
「うおっ」
神代先輩が振り返る。
見ると、ホチキスの下半分が机にめり込んでいた。
めり込んでいた。
大事なことなので二回言いたい。
書類を留めようとしただけで、机が負けたらしい。
「…………」
鬼頭課長がホチキスを見る。
机を見る。
周囲を見る。
「机が古い」
「課長」
俺は言った。
「なんだ」
「さすがに苦しいです」
「何がだ」
認めない。
この人、絶対に認めないぞ。
さらに十五分後。
キーボードからキーが飛んだ。
ぱちん、と軽快な音を立てて、Enterキーが俺の机まで飛んできた。
「…………」
俺は飛んできたキーを拾う。
鬼頭課長を見る。
課長は何も言わない。
「これは?」
「……強く押しすぎた」
ついに認めた。
俺はそっとEnterキーを返した。
「ありがとうございます」
「いらん」
「でもないと困りますよ」
「今日はマウスでやる」
そういう問題だろうか。
午前十時を過ぎる頃には、営業二課の全員が鬼頭課長の動きに敏感になっていた。
課長が何かを持つ。
見る。
何かに触れる。
見る。
椅子から立つ。
見る。
「お前ら」
鬼頭課長の額に青筋が浮かぶ。
「さっきから何を見ている」
「見てません」
「見てないです」
「何も」
「嘘をつけ!」
その怒鳴り声に、全員が肩を跳ねさせる。
『声量にも若干の上昇が確認されます』
いらない情報だ。
「いいか! 多少、力加減を間違えているだけだ! すぐ慣れる!」
鬼頭課長が勢いよく椅子にもたれかかる。
ばきっ。
背もたれが折れた。
課長の上半身が、そのまま後ろへ倒れる。
「課長!」
「危ない!」
俺たちが立ち上がるより早く。
鬼頭課長の身体が動いた。
右足を踏ん張り、腹筋だけで体勢を戻してみせる。
倒れかけた身体が、ほとんど反射的に起き上がった。
「……おお」
神代先輩が感心した声を上げる。
確かにすごい。
普通なら後頭部を床に打っている。
鬼頭課長は何事もなかったように立ち上がった。
「見たか」
「何をですか?」
「すでに慣れ始めている」
「椅子は壊れましたけど」
「……総務に連絡しておけ」
俺はため息をついた。
ドアノブ。
ボールペン。
マグカップ。
机。
ホチキス。
キーボード。
椅子。
午前中だけで被害総額はいくらになるんだろう。
イノシシを投げ飛ばした男が、今度は会社の備品を順番に破壊している。
これ、働いてるだけなんだよな?
暴れてるわけじゃないんだよな?
「課長」
水瀬さんが席を立った。
「予備の椅子、持ってきますね」
「ああ」
「そこ動かないでください」
「俺を子供扱いするな」
「また何か壊されたら困るので」
「壊さん!」
水瀬さんが苦笑する。
「じゃあ、すぐ戻ります」
「おう」
彼女が鬼頭課長の横を通り過ぎようとした。
その瞬間だった。
「水瀬」
「はい?」
鬼頭課長が右手を上げる。
たぶん。
肩を叩こうとしたんだと思う。
普段の課長なら、部下を呼び止めるときにそれくらいはする。
だが。
その手は、水瀬さんの肩へ触れる直前で止まった。
「……?」
水瀬さんが振り返る。
鬼頭課長は手を宙に浮かせたまま固まっていた。
俺も見ていた。
神代先輩も。
相沢先輩も。
課長の視線が、自分の右手へ落ちる。
ドアノブを引き抜いた手。
ボールペンを折った手。
マグカップを壊した手。
机にホチキスをめり込ませた手。
「……いや」
鬼頭課長は静かに腕を下ろした。
「なんでもない。行ってこい」
「……はい」
水瀬さんが離れていく。
それから。
鬼頭課長は誰にも触れなくなった。
資料を渡すときも机に置く。
神代先輩が書類を差し出せば、「そこに置け」と言う。
相沢先輩が新しいマグカップを持ってきても、直接受け取らない。
「課長、ここ置くね」
「ああ」
いつもなら気にも留めないような距離を、妙に慎重に取っている。
『出力制御に関する警戒行動と推測されます』
アナが告げる。
分かっている。
課長自身も気づいたんだ。
物なら壊しても買い替えればいい。
でも。
人間は違う。
今の課長がいつもの調子で肩を叩いたら、どうなる?
軽く背中を押したら?
握手したら?
本人にも分からない。
だから触らない。
「慣れれば問題ない、か」
俺は小さく呟いた。
『強がってるのねぇ』
チャーマの声がする。
『課長さん、大丈夫かなぁ……』
ヒーラが心配そうに続ける。
俺は返事をしなかった。
鬼頭課長はいつも通り仕事をしていた。
いつも通り怒鳴って。
いつも通り指示を出して。
いつも通り、誰よりも働いている。
ただ。
机の上に置かれた新しいボールペンを握る手だけは、ひどくゆっくりだった。
昼前。
鬼頭課長の内線が鳴った。
課長は電話機へ手を伸ばしかけ――一度止まった。
それから、壊さないように慎重に受話器を持ち上げる。
「鬼頭だ」
短い返事。
「……はい」
声の調子が変わった。
「分かりました」
受話器を置く。
今度は無事だった。
「どうしたんですか?」
神代先輩が聞く。
鬼頭課長は立ち上がる。
背もたれのない椅子が、少しだけ軋んだ。
「上から呼び出しだ」
「上?」
「役員室」
営業二課の空気が変わる。
「例のイノシシの件ですか?」
「知らん」
鬼頭課長は短く答えると、スーツの襟を整えた。
そして出口へ向かう。
ドアの前まで来て。
止まった。
「…………」
穴の空いた扉を見る。
朝、自分が引き抜いたドアノブは、まだ修理されていない。
鬼頭課長はしばらく黙ったあと、扉の端へそっと指を掛けた。
本当に。
恐る恐る。
壊れ物でも扱うみたいに。
扉を開ける。
「行ってくる」
「はい」
鬼頭課長が出ていく。
その背中を見送りながら、俺は思った。
世界中の人間がスキルを手に入れて。
便利になったことは、たくさんある。
できなかったことが、できるようになった人もいる。
強くなった人も。
救われた人も。
きっといる。
だけど。
強くなりすぎて、今まで普通にできていたことができなくなるなんて。
そんな話は、あまり聞いたことがなかった。
『眠太くん』
ヒーラが呼ぶ。
『課長さん……怒られちゃうのかなぁ』
「どうだろうな」
俺は答えた。
役員が、鬼頭課長を何のために呼び出したのか。
このときの俺たちは、まだ知らなかった。




