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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第5章 持て余す、その力

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第29話 ただの同僚よりは

 会議室の扉が閉まる。

 篠崎さんの足音が遠ざかっていき、あとには俺だけが残された。


「行ったな」


 俺は、篠崎さんが座っていた椅子を見つめる。


 机の上には、彼女が置いていった研究協力に関する資料が残されていた。


 検査内容。

 想定される拘束時間。

 情報の取り扱い。

 研究への協力は任意であり、途中で拒否することも可能。


 ずいぶん丁寧に書かれている。

 だからといって、気軽に署名できるような内容ではなかった。


『眠太くん、大丈夫ぅ?』


 ヒーラの心配そうな声が頭の中に響く。


『心拍数の上昇を確認。精神的緊張が原因と推測されます』

『そりゃ緊張するわよぉ。あたしたちの存在を疑われてるんですもの』


 アナとチャーマも、いつもどおり頭の中にいる。

 篠崎さんが立てた仮説は、ほとんど正解だった。


 俺の鑑定スキルには意思がある。


 それどころか、意思のあるスキルは一つではない。

 さすがの彼女も、そこまでは推測できていなかったけどな。


 鑑定のアナ。

 治癒のヒーラ。

 魅了のチャーマ。


 今のところ確認できているだけでも三人いる。

 篠崎さんに話せば、研究者として強い興味を示すだろう。


 相沢先輩とまめ助の入れ替わりだけでも、大学病院の研究棟へ入院することになった。


 俺の場合は、どうなるんだろう。


 検査だけで済むのか。

 会社へ帰ってこられるのか。

 そもそも、俺の中にいる三人は、スキルと呼んでいいものなのか。


「灰谷くん」


 呼ばれて顔を上げる。


 どれほど考え込んでいたのか、扉が開く音にも気づかなかった。

 いつの間にか会議室へ入ってきていた水瀬さんが、机の向かい側から俺の顔を覗き込んでいる。


「大丈夫?」

「大丈夫に見えるか?」

「見えない」


 即答された。


「顔色、ちょっと悪いよ」

「それはたぶん、いつものことだ」

「いつもより悪いの」


 普段から顔色が悪い人間にも、程度というものがあるらしい。

 向かい側に立っていた水瀬さんは、俺の隣の椅子へ腰を下ろした。


 近い。

 四人掛けの机なのだから、わざわざ隣に座らなくても会話はできる。


 だが、それを指摘するのも妙に意識しているようで、俺は黙って資料へ目を落とした。


「篠崎さんの調査、受けるつもり?」

「まだ分からない」

「そっか」


 水瀬さんは、それ以上すぐには聞いてこなかった。

 急かすでもなく、説得するでもなく、俺と同じように机の上の資料を見る。


 紙をめくる音だけが、会議室に響いた。


「怖い?」


 しばらくして、水瀬さんが尋ねた。


「まあな」

「調べられることが?」

「それもある」


 俺は資料の端を指で押さえる。


「俺のスキルが、普通じゃないことは分かってた。そんな俺の状態を、仮説とはいえほとんど言い当てた篠崎さんなら、きっと答えを見つけ出せるんだろうな」


 隣で、水瀬さんの肩がわずかに動いた。

 俺が何を言おうとしているのか、察したのだろう。


「答え、知りたくないの?」

「……知りたくないわけじゃないけど、何て言うか、ろくでもない結果になりそうで」

「そっか」


 水瀬さんは、それ以上問い詰めてこなかった。

 気にはなっているのだろう。

 それでも、俺が続きを話すかどうかを待ってくれている。


 その態度がありがたくて、同時に申し訳なくもなった。


 水瀬さんには、俺が複数のスキルを持っていることも、頭の中で声が聞こえることも話している。


 ただし、あれから変化があったことまでは伝えていない。


 最初は二人だった声が、今は三人に増えていること。


 相沢先輩とまめ助の入れ替わりを見てから、自分の中にいる存在について考えるようになったこと。


 話さなければならないと思いながら、先延ばしにしていた。


「前に話しただろ。俺の頭の中で、スキルの声が聞こえるって」

「うん。鑑定と治癒の二つだよね」

「実は……今は、三つになってるんだ」

「え……増えたの?」

「ああ」


 水瀬さんが目を丸くする。

 その反応のほうが普通だ。


「いつから?」

「チョコハザードのあと。病院で目を覚ましたときには、もう一人いた」

「もしかして……」

「魅了スキルのチャーマだ」


 水瀬さんの表情が強張った。

 あの日、暴走した彼女の魅了を止めるため、俺は精神系スキルの力を使った。


 チャーマがいなければ、俺も駅前に集まった人たちと同じように、水瀬さんへ殺到していたかもしれない。


「もしかして……私のせい?」

「違う! ……と思う」


 口にした瞬間、自分でも驚くほど強い声が出た。


「水瀬さんのせいじゃない。あの状況で力を貸してくれたんだ。むしろ助けられたよ」

「でも、私が暴走しなかったら……」

「それを言ったら、俺が勝手に飛び込まなかったら、そいつが目を覚ますこともなかったかもしれない」

「勝手にって……灰谷くんは、私を助けようとしてくれたんでしょ」

「結果的にはな」

「結果的にじゃないよ」


 水瀬さんの声が、少しだけ低くなった。


「私、ちゃんと覚えてるから」


 何を、と尋ねる必要はなかった。

 駅前の交差点。

 魅了された人々に囲まれ、泣いていた水瀬さん。

 そして、俺が叫んだ言葉。


 魅了されなくたって、君のことを見ているから。


 今になって思い返すと、よくあんなことを大勢の前で叫べたものだと思う。

 命の危険が迫ると、人間は羞恥心を失うらしい。


『あらぁ。あれを事故で済ませるつもり?』


 チャーマが楽しそうに言う。


『発言時、眠太さんは魅了の影響を受けていません』

『それ、今言う必要あるぅ?』


 必要はない。

 そして俺は、聞こえなかったことにした。


「忘れてくれ」

「無理」

「即答だな」

「忘れられるわけないじゃん」


 水瀬さんは膝の上で両手を握った。

 頬が少し赤い。

 たぶん、俺も似たような顔をしている。


「私、あのときのこと、何度も思い出してるよ」

「思い出さなくていいって」

「灰谷くんに決められたくないなぁ」

「できれば、俺の精神の安定を優先してほしい」

「じゃあ、私の精神の安定も優先して」

「どういう意味だ?」


 尋ねると、水瀬さんは何かを言いかけ、口を閉じた。

 視線が俺の顔から机へ落ちる。


「……灰谷くんに何かあったら、困るってこと」

「会社の仕事的に?」

「どうしてそこで会社が出てくるの」

「一応、同じ部署だから」

「そうだけど、そうじゃなくて」


 水瀬さんが、俺の袖をつかんだ。

 強く引くわけでもない。


 逃げないように、そこにいることを確かめるようなつかみ方だった。


「相沢先輩とまめ助が入れ替わったとき、灰谷くんも考えたんじゃない?」

「何を?」

「自分も同じようになるかもしれないって」


 返事ができなかった。

 やはり、水瀬さんには気づかれていたらしい。


「頭の中に、自分とは違う意思がいるんでしょ」

「そうだね」

「それが三人に増えた」

「うん」

「これから、もっと増えるかもしれない?」

「分からない」


 俺自身、答えを持っていない。

 世界中の人間がスキルに目覚めてから、まだ数か月しか経っていない。


 前例がない。

 専門家にも分からない。

 分からないことばかりだ。


「だったら、ちゃんと調べてもらおう」


 水瀬さんが言った。


「篠崎さんに?」

「うん」


 袖をつかんでいた指に、少し力が入る。


「私もチョコハザードのあと、篠崎さんに何度も調べてもらったの。魅了の出力とか、精神状態とか、どんな条件で強くなるのかとか」

「それは聞いてる」

「検査は大変だったけど、無理なことはされなかったよ。嫌だって言ったら止めてくれたし、私の情報が勝手に外へ出ないようにもしてくれた」


 篠崎さんは、研究対象へ興味を持つ。

 だが、そのためなら何をしてもいいと考える人ではない。


 相沢先輩とまめ助を研究所へ連れていこうとしたときも、二人が拒否すると分かれば、すぐに方法を変えた。


 研究は自由だが、研究者は自由ではない。

 以前、篠崎さんはそう言っていた。


「全部話せとは言わないよ」


 水瀬さんが続ける。


「灰谷くんの中にいる人たちにも、話したくないことはあると思うから」

『水瀬ちゃん……』


 ヒーラが、感動したような声を漏らす。


『私たちを独立した意思として扱っています』

『いい子ねぇ。本当に眠太にはもったいないわぁ』


 誰がもったいないってんだよ。


「でも、何も分からないままにするのは嫌」


 水瀬さんが顔を上げる。


「ある日、灰谷くんが灰谷くんじゃなくなるかもしれないなんて、私は嫌だから」


 まっすぐな目だった。

 魅了の力など使っていない。

 それでも、目を逸らすことができなかった。


「それは、同僚として?」


 自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。

 いや。


 本当は分かっている。

 分かっているから、聞いたことを後悔した。


 水瀬さんの顔が、みるみる赤くなっていく。


「それを今、聞くの?」

「すまん。忘れてくれ」

「だから、忘れないってば」


 袖をつかんでいた手が離れる。

 代わりに、その手が俺の手の甲へ重なった。


 一瞬だけだった。

 触れたと思ったときには、もう離れていた。


「少なくとも、ただの同僚よりは心配してる」

「それは……」

「答えは保留」

「俺は何も聞いてないが」

「聞いたでしょ」

「同僚として、とは聞いた」

「同じことだから」


 何が同じなのかは分からない。

 だが、これ以上追及できるほど、俺の心臓は頑丈ではなかった。


『心拍数、毎分百十二回まで上昇』


 アナが余計な報告をする。


『治療するぅ?』


 ヒーラ、それは治療でどうにかなるものではない。


『若いわねぇ』


 チャーマ、お前は黙っていてくれ。

 俺は大きく息を吐き、机の上の資料を手に取った。


「調査を受ければ、俺の中にいる連中のことも話すことになる」

「うん」

「会社にも知られるかもしれない」

「篠崎さんに、どこまで秘密にできるか確認しよう」

「研究棟に泊まり込みになる可能性もある」

「お見舞いに行くよ」

「また果物とゼリーかな?」

「チョコも欲しい?」

「……欲しいです」

「うん。それと、おにぎりも持っていくね」


 俺が何を言っても、水瀬さんは引かなかった。

 俺がどれだけ不安材料を並べても、その隣に対策を置いていく。


 簡単に大丈夫とは言わない。

 一人で頑張れとも言わない。


 ただ、自分もいると伝えてくる。


 ずるいと思う。

 そんなことを言われたら、一人で悩み続けるのが馬鹿らしくなってしまう。


「分かった」


 俺は資料の最終ページを開いた。

 研究協力の意思を確認するための署名欄。


 まだ、そこへ名前を書くことはできない。

 だが、捨てるつもりもなくなった。


「篠崎さんに連絡するよ」

「うん」

「まずは詳しい条件を聞く。それから、俺の中にいる連中とも相談する」

「うん」

「そのうえで、調査を受けるか決める」

「それでいいと思う」


 水瀬さんが笑った。

 安堵したような、柔らかな笑顔だった。


 俺はスマートフォンを取り出し、篠崎さんとの連絡画面を開く。


 何と送るべきか考え、短い文章を打ち込んだ。


『先ほどのお話について、後日、詳しく伺いたいです』


 送信ボタンへ指を置く。


『眠太さん』


 アナが呼びかけた。


『調査には一定の危険が伴う可能性があります』


 分かっている。


『でもぉ、何も分からないままよりいいと思うよぉ』

『あたしたちとしても、篠崎って女がどこまで信用できるのか、見極める必要があるわねぇ』


 三人とも、不安なのだろう。

 俺だけではない。


「送らないの?」


 隣から水瀬さんが画面を覗き込んでくる。

 近づいた髪から、ほのかに甘い香りがした。

 俺は慌てて視線を画面へ戻す。


「送るよ」


 指を動かした。

 メッセージの横に、送信済みの印が表示される。


 数秒も経たないうちに、既読がついた。

 そして、すぐに返信が届く。


『ありがとうございます。こちらの調整もありますので、追って連絡しますね』

「返信、早いね」

「待ち構えてたんじゃないか?」

「篠崎さんならありそう」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 俺の中にいる三人が何者なのか。

 なぜ俺だけが、複数のスキルを持っているのか。

 答えが見つかる保証はない。


 むしろ、新しい疑問が増えるだけかもしれない。


 それでも、立ち止まったままでいることはできない。


「灰谷くん」

「何だ?」

「調査の日は、私も一緒に行くから」

「仕事は?」

「お休みを取るつもり」

「鬼頭課長に怒鳴られるぞ」

「正直に説明すれば大丈夫でしょ」

「うちの課長を信用しすぎじゃないか?」

「灰谷くんよりは信用してるかも」

「ひどいな」

「一人で行こうとする人よりはね」


 水瀬さんはそう言うと、机の下で俺の椅子を軽く蹴った。

 痛くはない。

 ただ、逃げるなと念を押されたような気がした。


「分かった。一緒に来てくれ」

「うん」


 水瀬さんが、もう一度笑う。

 篠崎さんに知られることよりも。

 研究対象として見られることよりも。


 今は、その笑顔を失うことのほうが、少しだけ怖いと思った。

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