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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第4章 小さな手、大きな歪み

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第28話 相棒と秘密の名前

 相沢先輩が営業二課に戻ってきたのは、退院してから三日後のことだった。


「おはよう、みんな。心配をかけたね」


 いつもと変わらない穏やかな声。

 その腕の中には、まめ助が抱かれている。


 以前なら、会社に着くなり床へ下りて、掃除や資料整理を始めていたはずだ。

 だが今日は、相沢先輩の胸元にしがみついたまま動こうとしない。

 相沢先輩も、無理に下ろそうとはしていなかった。


「相沢!」


 鬼頭課長の声が、朝の営業二課に響き渡る。


「は、はい」

「退院したからといって、すぐに働けると思うな!」

「……おはようの前に怒られた」

「怒っているんじゃない! 注意しているんだ!」


 それを一般的には怒っていると言うんじゃないだろうか。

 相沢先輩は少し困ったように笑いながら、自分の席へ向かおうとした。

 だが、鬼頭課長がその前に立ちふさがる。


「今日は顔を出すだけでいい。引き継ぎの確認が終わったら帰れ」

「でも、入院中もずっと仕事のことが気になっていてですね」

「気にするな!」

「仕事のことを考えるのも禁止なのですか?」

「禁止だ!」

「課長にそんな権限があるのですか?」

「上司命令だ!」


 休めという上司命令を、俺は初めて聞いた。


 これまで鬼頭課長から受けた命令といえば、急げ、やり直せ、声が小さいの三種類が中心だったはずだ。


「相沢先輩、おかえりなさい」


 水瀬さんが席を立つ。

 その手には、小さな四角いクッションがあった。


 人間用ではない。

 まめ助が座るには、ちょうどよさそうな大きさだ。


「これ、休憩用に作ってみたんです。裁縫なんて久しぶりだったから、少し形が歪んじゃいましたけど」


 まめ助が相沢先輩の腕から身を乗り出す。

 水瀬さんが机の上に置いたクッションを見つめ、黒い点のような目を輝かせた。


「気に入ったみたいだね。ありがとう、水瀬さん」

「よかった」

「俺からはこれを」


 神代先輩が机の下から紙袋を取り出した。

 中には、リンゴやミカンが入っている。


「退院祝いです。まめ助が食べられるかは分かりませんが」

「ありがとうございます。二人で食べるね」

「菓子じゃなく果物にしておけと言ったのは俺だ」


 鬼頭課長が腕を組んだまま言う。


「病み上がりに甘い物ばかり持っていっても仕方ないからな」

「課長が選んでくれたんですか?」

「神代が選んだ!」


 鬼頭課長は即座に否定した。

 紙袋の隙間から、見慣れたレモン味ののど飴が一袋だけのぞいている。


 あれも神代先輩が選んだことにするつもりだろうか。


「それと、これを読め」


 鬼頭課長が相沢先輩の机に、数枚の紙を置いた。

 表紙には、大きな文字でこう書かれていた。


『生活補助スキル具現体・まめ助に関する業務運用規則』


 固い。

 題名が固すぎる。


「ずいぶん立派なものを作ったんですね」

「同じことを繰り返さないためだ」


 相沢先輩が一枚目をめくる。

 俺と水瀬さん、神代先輩も横からのぞき込んだ。


 一、まめ助に業務を依頼する場合、必ず相沢真帆を通すこと。

 二、他部署への貸し出しを禁止する。

 三、まめ助が拒否した業務を強制してはならない。

 四、一時間ごとに休憩を取らせること。

 五、相沢真帆の不在時は、原則として業務を行わせない。

 六、相沢真帆またはまめ助に異変が見られた場合、直ちに業務を中止する。


「社員の就業規則より分かりやすいですね」


 神代先輩が感心したように言った。


「当然だ。こいつは社員ではない。労働契約も結んでいないからな」


 鬼頭課長が胸を張る。

 そういう問題なのだろうか。

 ただ、一時間ごとの休憩という部分は気になる。


「課長」

「なんだ、灰谷」

「俺にも一時間ごとの休憩を認めてもらえませんか?」

「最初から認めている!」

「使った記憶がないんですが」

「お前が勝手に働いているだけだ!」

「じゃあ、今日から使います」

「仕事を遅らせるなよ!」


 認めているのか、認めていないのか。

 ブラック企業の休憩時間は、存在しているだけで使えるとは限らないらしい。


 相沢先輩は運用規則を最後まで読み終えると、まめ助へ見せた。


「まめ助。みんなが君のために作ってくれたんだよ」


 まめ助は文字を読めているのか分からない。

 それでも紙をじっと見つめたあと、鬼頭課長へ向かって頭を下げた。


「……礼などいらん」


 鬼頭課長は顔をそらす。


「当然のことをしただけだ」


 耳が少し赤くなっていた。


 午前中、相沢先輩は引き継ぎの確認だけをすることになった。

 その間、まめ助は水瀬さんが用意したクッションの上に座っている。


 ところが、俺が資料の束を抱えて通りかかると、まめ助が立ち上がった。

 短い足を動かし、俺のほうへ来ようとする。


「大丈夫だよ、まめ助」


 相沢先輩が声をかけた。

 まめ助が振り返る。


「これは灰谷くんの仕事だからね。全部、君が手伝わなくてもいいんだよ」


 まめ助は俺と資料を交互に見た。

 まだ手伝いたそうにしている。


 相沢先輩は少し考えたあと、机の上に置かれていた薄いファイルを手に取った。


「それじゃあ、まめ助。これを水瀬さんのところまで運ぶのを、手伝ってもらってもいいかい?」


 まめ助が大きく頷く。

 ファイルを両手で抱え、水瀬さんの席まで歩いていった。


「ありがとう、まめ助」


 相沢先輩が頭を撫でる。

 まめ助は嬉しそうに身体を揺らした。


 以前なら、まめ助が自分から働き始めても止めなかった。

 相沢先輩も、まめ助が手伝ってくれることを当然のように受け入れていた。


 だが今は違う。


 任せる仕事を選び、まめ助の意思を確かめている。

 しばらくすると、まめ助はクッションの上に座り込んだ。


「疲れたのかい?」


 相沢先輩が尋ねると、まめ助が小さく頷く。


「それじゃあ、休憩にしようか」


 相沢先輩も椅子から立ち上がった。


「相沢先輩も休むんですか?」


 俺が聞くと、相沢先輩は少し照れたように笑った。


「まめ助を休ませるときは、私も一緒に休むことにしたんだよ」


 それは、俺が病室で言ったことだった。


「この子ばかり働かせるのも違うし、私ばかり無理をするのも違うからね」


 相沢先輩がまめ助を抱き上げる。


「二人で、できる分だけやっていくよ」


 まめ助が相沢先輩を見上げる。

 相沢先輩も、まめ助を見つめ返す。


 まだ完全に安定したわけではない。

 入院中も、ときどき二人は入れ替わっていたらしい。


 それでも今の二人なら、以前とは違う関係を作っていける。

 少なくとも、俺にはそう見えた。


「皆さん、おそろいですね」


 昼休みを過ぎたころ、篠崎さんが営業二課へ姿を現した。

 その手には、見覚えのない封筒がある。


「相沢さん。体調はいかがですか?」

「今のところは大丈夫だね。まめ助とも、今日は一度も入れ替わっていないよ」

「それはよかったです」


 篠崎さんは安心したように微笑んだあと、封筒から書類を取り出した。


「実は、国際スキル研究チームから正式な協力要請が届きました」


 相沢先輩の表情が少し硬くなる。


「まめ助を、研究施設で一定期間観察させてほしいという内容です」

「まめ助だけを?」

「はい」


 篠崎さんは隠さず答えた。


「今回の入れ替わり現象は、世界でも前例がありません。原因や再発条件を調べる必要があります。相沢さんの安全のためにも、研究自体は必要だと私は考えています」


 正当な理由だ。


 まめ助が悪いわけではない。

 篠崎さんたちも、二人を引き離したいわけではないだろう。


 それでも、相沢先輩はすぐに返事をしなかった。


 腕の中のまめ助へ視線を落とす。


「まめ助は、どうしたい?」


 まめ助は相沢先輩の服を強くつかんだ。

 それから、首を横に振る。


「そうかい」


 相沢先輩はまめ助の背中を撫で、篠崎さんへ向き直った。


「申し訳ないけど、まめ助だけを預けることはできないね」

「相沢さん」

「この子は、私のスキルから生まれたのかもしれない」


 相沢先輩は迷わず続けた。


「でも、私の道具じゃない」


 その言葉を聞いて、まめ助が顔を上げる。


「私の相棒だからね」


 病室で俺が口にした言葉。

 あのときは、相沢先輩を納得させるため、必死に絞り出しただけだった。

 今はもう、相沢先輩自身の言葉になっている。


 篠崎さんは書類を見つめたあと、静かに頷いた。


「分かりました。では、まめ助だけを預かる案は取り下げます」

「いいのかい?」

「本人が嫌がっている以上、無理に進めるべきではありません。それに、相沢さんと離すことで状態が悪化する可能性もありますから」


 篠崎さんは書類を封筒へ戻す。


「必要な研究は、相沢さんも一緒に参加できる方法を考えます」

「それなら、まめ助と相談して決めるよ」

「はい。それでお願いします」

「話は決まったな」


 鬼頭課長が口を挟む。


「次から、まめ助だけを連れていくような話は持ってくるな」

「気をつけます」

「相沢もだ。役に立つからといって、何でも引き受けるんじゃない」

「分かっていますよ、課長」

「本当に分かっているのか!」

「復帰初日に怒鳴らなくてもいいじゃないですか」

「だから怒鳴っているんじゃない!」


 その声量で怒鳴ってないとは言えないですよ、課長。


 夕方。


 予定どおり、相沢先輩は早めに帰ることになった。

 まめ助は水瀬さんからもらったクッションを大事そうに抱えている。


「それじゃあ、みんな。また明日だね」

「明日も無理をするなよ!」

「分かっていますよ」

「返事が軽い!」


 鬼頭課長の声に送られながら、相沢先輩とまめ助は営業二課を出ていった。

 篠崎さんも一緒に帰ったと思っていた。


 だが、仕事を終えて会社を出ると、廊下の先に彼女が立っていた。


「灰谷さん」


 嫌な予感がした。


「少しだけ、お時間をいただけますか?」


 研究者が言う「少しだけ」は、営業マンが言う「ご挨拶だけ」と同じくらい信用できない。

 そう思うのは、俺だけだろうか?


「何でしょう」

「入院中の相沢さんについてです」


 篠崎さんの口調は穏やかだった。


「相沢さんは、入院中も何度かまめ助さんと入れ替わりました」

「聞いています」

「入れ替わっている間、私は相沢さんの身体になっていたまめ助さんにも聞き取りを行いました」


 あの姿で、まめ助本人と会話していたのか。

 想像すると、かなり不思議な光景だ。


「そのとき、まめ助さんから興味深い話を聞きました」


 嫌な予感が、確信に変わった。


「相沢さんの自宅に行ったあの日。灰谷さんは、相沢さんを調べる前に、こう言ったそうですね」


 篠崎さんが、俺の目を見る。


「――アナ、相沢先輩を鑑定できるか?」


 身体が固まった。


『発言記録との一致を確認しました』


 アナが淡々と告げる。


『アナちゃん、今それ言わなくてもいいよぉ……』

『あらぁ。眠太ちゃん、思いきり名前を呼んでいたのねぇ』


 チャーマまで楽しそうに言う。


「まめ助の聞き間違いじゃないですか?」


 どうにか声を絞り出した。


「私も、その可能性を考えました」


 篠崎さんはあっさり認めた。


「まめ助さんは、まだ言葉を覚え始めたばかりです。記憶の混同や聞き間違いも考えられます」

「そうですよね」

「ですから、相沢さんが元に戻ったあとにも確認しました」


 逃げ道が一つ塞がった。


「相沢さんは、確かにそんなことを言っていた気もすると答えました」

「気もする、ですよね」

「はい。彼女にとっても混乱の大きい一日でしたから、証言としての確度は高くありません」


 篠崎さんは断定しない。

 だからこそ怖い。

 証拠が足りないことを理解したうえで、それでも仮説を組み立てている。


「アナというのは、誰ですか?」

「誰というわけじゃありません。鑑定するときの掛け声みたいなものです。アナライズの略ですよ。俺のスキルが鑑定なのは、知っていますよね?」

「鑑定だったと認識してます」


 無理がある。

 自分で言っていても分かる。

 篠崎さんも、納得した顔はしていなかった。


「では、別の聞き方をします」


 空気が変わった。


「灰谷さんの鑑定スキルには、意思がありますか?」


 アナも、ヒーラも、チャーマも何も言わない。

 頭の中が不自然なほど静かになる。


「どうして、そう思うんですか?」

「水瀬さんの魅了スキルが暴走したとき、周囲にいた人間のほとんどが影響を受けました」


 篠崎さんが、一歩だけ近づく。


「身体強化スキルを持つ鬼頭課長も、感覚強化スキルを持つ神代さんもです」

「俺も影響は受けましたよ」

「ですが、完全には意思を失わなかった」


 否定できない。

 あのとき俺は、水瀬さんに近づきたいという感情に飲み込まれかけた。


 それでも、アナたちの声を聞くことができた。


「仮に、魅了の効果が灰谷さん本人の意識に作用しても、頭の中にいる別の意識には作用しなかったとしたら」


 篠崎さんは言葉を選びながら続ける。


「その意識が、魅了に囚われたあなたへ働きかけることができたとしたら」


 心臓が嫌な音を立てる。


「灰谷さんだけが、水瀬さんの魅了から抜け出せた理由にも説明がつきます」


 完全な正解ではない。

 俺が複数のスキルを持っていることまでは、まだ気づいていない。

 それでも、真相のすぐ近くまで来ている。


「もちろん、まだ仮説です」


 篠崎さんは一度、視線を和らげた。


「まめ助さんと相沢さんの記憶が、偶然一致しただけかもしれません。灰谷さんが無意識に独り言を口にした可能性もあります」


 逃げ道を用意された。

 ここで頷いてしまえば、誤魔化せるかもしれない。


「ですから、確かめたいんです」


 用意されたと思った逃げ道が、すぐに塞がる。

 篠崎さんは、まっすぐ俺を見た。


「灰谷さん」


 穏やかな口調だった。


「アナさんに、私のことを鑑定してもらえませんか?」

『対象、篠崎理央』


 沈黙していたアナが、いつもの声で告げる。


『警戒度の上昇を推奨します』

『この子、かなり鋭いわねぇ』

『眠太くん、どうするのぉ……?』


 俺は目の前の篠崎さんを見ながら、心の中でため息をついた。


 もう鑑定してるんだよな。

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