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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第4章 小さな手、大きな歪み

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第25話 こーはいくん、わたしだよ

 玄関先で倒れたまめ助を抱き上げ、俺は鬼頭課長の後を追った。


「相沢! いるか!」


 返事を待つ気もないらしい。

 鬼頭課長は靴を脱ぐと、遠慮なく家の奥へ進んでいく。


 いや、入るんだな。

 ためらいとか、一切ないんだな。


 もっとも、連絡の取れない部下の自宅まで来て、玄関を開けてくれた小人が目の前で倒れたのだ。


 今さら「お邪魔します」と律儀に頭を下げている場合でもない。


「失礼します……」


 一応、俺だけは小声で断ってから上がった。


『眠太くん、まめ助ちゃん、大丈夫かなぁ……』


 ヒーラの心配そうな声が響く。


「分からない。相沢先輩のこともあるし、ひとまず中を確認しないと」

『それにしても、あの課長さん、迷いなく入っていくわねぇ。こういうときの行動力だけは立派だわぁ』


 チャーマの言い方には若干引っかかるところがあったが、否定はできなかった。


 相沢先輩の家に入るのは初めてだった。


 それほど広くない賃貸の一室。

 玄関に並んだ靴も、きちんと向きを揃えられている。


 開け放たれた居間も、床は磨かれ、クッションは寸分違わず並び、ローテーブルの上には物一つ散らかっていなかった。


 綺麗だ。

 綺麗すぎて、逆に落ち着かない。


 台所の流しには洗い物がなく、布巾まで角を揃えて掛けられている。


 その一方で、ダイニングテーブルの上には、ラップを掛けられたままの食事が置かれていた。

 湯気はなく、皿の横に置かれた箸にも触れた形跡がない。


『ご飯、食べてないのかなぁ』


 ヒーラの声が、さらに不安そうになる。


『部屋はこんなに綺麗なのに、暮らしてる人の気配が薄いわねぇ』


 チャーマの言葉に、俺も同じことを感じていた。


 部屋は整っている。

 なのに、ここで暮らしている人間の時間だけが止まっているようだった。


「相沢!」


 鬼頭課長の声が、奥の部屋から響いた。

 腕の中のまめ助が、びくりと震える。


「大丈夫か?」


 声を掛けると、まめ助は弱々しく顔を上げた。

 黒い点のような目が、奥の部屋を見つめている。


『ずいぶん心配そうな顔をしてるわねぇ』

「顔、ほとんど点しかないけどな」

『分かるものは分かるのよぉ』


 俺はその視線を追いながら、足を速めた。

 寝室と思われる部屋で、相沢先輩はすぐに見つかった。


 ベッドの上。


 寝巻姿のまま、掛け布団の上で膝を抱え、ぼんやりと座り込んでいる。


「相沢先輩……」


 ひとまず、意識はある。

 胸が上下していることを確認し、俺は小さく息を吐いた。


『よかったぁ。ちゃんと息はしてるねぇ』


 ヒーラも安堵したようだった。


 鬼頭課長はベッド脇まで歩み寄ると、いきなり怒鳴ることはしなかった。

 相沢先輩の顔を覗き込み、呼吸を確かめるように肩へ手を置く。


「相沢。俺が分かるか」


 返事はない。


「どこか痛むのか。気分が悪いなら頷け」


 相沢先輩は、瞬きすらほとんどしなかった。

 鬼頭課長の眉間に、深いしわが寄る。


 額に手を当て、それから肩や腕に目立ったけががないか確かめている。


『あらぁ。怒鳴るだけじゃなくて、ちゃんと様子も見てるじゃない』

「一応、上司だからな」

『一応ってつけるのはどうなのぉ?』


 ヒーラに注意されてしまった。


「熱はなさそうだな……。おい、相沢。起きてるなら返事をしろ」


 それでも反応は薄い。

 心配が焦りへ変わったのか、鬼頭課長の声が一段大きくなった。


「相沢! 電話にも出ず、何をしている! 起きてるなら返事くらいしろ!」


 その瞬間、俺の腕の中でまめ助が暴れた。


「うわっ」


 小さな身体が、するりと抜け落ちる。

 床に着地したまめ助は、一度よろめきながらも、鬼頭課長と相沢先輩の間へ駆け込んだ。


 そして、掛け布団の端を掴む。


「何を――」


 まめ助は必死に布団を持ち上げると、相沢先輩の頭からすっぽりとかぶせた。


 鬼頭課長から隠すように。


 布団の山になった相沢先輩の前で、まめ助は両腕を広げて立ちはだかる。


 小さい。

 とても小さい。


 だが、その態度だけは完全に「これ以上近づくな」と言っていた。


『あらあら。ずいぶん必死に守ってるわねぇ』

『さっき倒れたばっかりなのに、無理しちゃ駄目だよぉ』


「……お前、邪魔をするな」


 鬼頭課長が布団へ手を伸ばすと、まめ助は威嚇するように両手を振った。

 声が出ないせいで迫力は皆無だが、意思だけははっきり伝わってくる。


 鬼頭課長は納得できない顔をしたまま、しばらくまめ助を睨んでいた。


 やがて舌打ちを一つすると、ポケットからスマホを取り出す。


「総務に状況を報告してくる。必要なら救急も呼ぶ。灰谷、お前は相沢を見てろ」

「はい」

「勝手な判断で動かすなよ」


 それだけ言い残し、鬼頭課長は玄関の方へ戻っていった。


 足音が遠ざかってからも、まめ助はしばらく扉の方を警戒していた。

 俺はその場にしゃがみ込み、丸い頭をそっと撫でる。


「あの人、怖いよなぁ」


 まめ助が、大きく頷いた。


「……お前もそう思うんだ」

『迷いがないわねぇ』

『鬼頭さん、声が大きいもんねぇ』


 鬼頭課長には聞かせられないな。

 俺は苦笑しながら、布団の山へ視線を向けた。


「相沢先輩。俺です。灰谷です」


 反応はない。


「気分が悪いんですか? どこか痛みます?」


 布団の中からは、呼吸音すらほとんど聞こえない。


「返事が難しかったら、手だけでも出せますか」


 やはり動かない。


『身体が悪いのかなぁ。眠太くん、診てあげられない?』

「ああ。やってみる」


 このまま放っておくわけにもいかない。

 だが、無理に布団を剥がしていい状態なのかも分からない。


「アナ。相沢先輩を鑑定できるか?」

『実行します』


 視界の端に、淡い文字が浮かぶ。


『対象――相沢真帆。生命反応、安定。外傷および急性疾患に該当する兆候は確認できません』

『よかったぁ。すぐに治療が必要な状態じゃないんだねぇ』


 ひとまず、命に関わる状態ではないらしい。

 だが、続いた言葉は妙だった。


『精神反応に通常とは異なる揺らぎを確認。原因は特定できません』

「精神反応の揺らぎ?」

『既知の症例と一致しません』

『魅了や精神干渉とは違うの?』


 チャーマが食いついた。


『既知の精神・感情系スキルによる干渉反応とは一致しません』

『そう。じゃあ、アタシにも分からないわねぇ』


 精神や感情に詳しいチャーマにも心当たりがないらしい。

 俺は次に、足元のまめ助へ視線を落とした。


「こっちも頼む」

『解析を試行します』


 数秒の沈黙。


『対象の構造情報を正常に取得できません』

「またか」

『術者との接続状態に異常が発生しています。また、相沢真帆との間に通常とは異なる反応の相関を確認』

『二人の間に、何か起きてるってことかなぁ?』


 ヒーラの言葉に、アナは淡々と答えた。


『その可能性は高いと推測されます』

「相関って、どういう――」


 尋ねかけたところで、ズボンの裾が引っ張られた。

 見下ろすと、まめ助が俺の裾を掴んでいる。


「どうした?」


 まめ助は何度も引っ張り、それから部屋の外を指さした。

 ついてこい、ということらしい。


『何か伝えたいんじゃない?』

「たぶんな」


 まめ助は一度だけ布団の山を振り返り、俺の裾をさらに強く引いた。

 本当に何かを伝えたいみたいだ。


 俺は立ち上がり、引かれるまま後についていった。

 短い廊下を進み、連れてこられたのは洗面所だった。


 まめ助は浴室の扉を指さす。


「風呂?」


 頷く。

 よく分からないまま扉を開けると、まめ助は中へ入り、自分で扉を閉めようとした。


「待て待て。閉めるのか?」


 また頷く。


『あらぁ。二人きりになりたいみたいよぉ』

「その言い方やめろ」

『眠太くん、まめ助ちゃんは小人だよぉ?』

「分かってる」


 俺が浴室へ入ると、まめ助は扉をきっちり閉めた。

 続いて蛇口へ駆け寄り、背伸びをしてレバーへ手を伸ばす。

 届かない。


 二度ほど跳ねた後、こちらを振り向いた。


「お湯を出すのか?」


 激しく頷く。

 言われるままにレバーを操作すると、シャワーから勢いよくお湯が流れ始めた。


 狭い浴室に、白い湯気が広がっていく。


 まさか。


「お前、俺と一緒に風呂に入りたいのか?」

『まあ!』


 チャーマが楽しそうな声を上げた。


『眠太くん、それは違うと思うよぉ』


 まめ助は首が取れそうな勢いで横に振った。


「だよな。安心したよ」

『対象の意図は解析不能です』

『アナちゃん、そこはわざわざ解析しなくていいのよぉ』

『理解不能です』


 アナにも分からないらしい。

 まめ助は洗面台を指さし、自分を持ち上げるよう両手を伸ばした。


「そこに乗りたいのか?」


 頷く。

 俺は濡れないよう気をつけながら、まめ助を抱き上げ、洗面台の端へ乗せた。


 浴室の鏡は、湯気ですっかり白く曇っている。

 まめ助はそこへ手を伸ばした。


 小さな指が、曇りをゆっくりとなぞる。


 最初に現れたのは、歪んだ丸い文字だった。


『こーはいくん』

「……え?」

『後輩くん?』


 ヒーラが小さく呟く。

 俺をそう呼ぶ人間は、一人しかいない。


 まめ助は何度も指を滑らせる。


『わたしだよ』


 そこで一度、こちらを振り返った。

 黒い点の目が、必死に俺を見つめている。


 さらに、鏡へ向き直る。


『あいざわ』


 喉の奥が、ひゅっと鳴った。


「相沢……先輩?」


 まめ助が何度も頷いた。


『ええっ!?』


 ヒーラが驚きの声を上げる。


『ちょっと待って。じゃあ、この子の中に相沢ちゃんがいるってことぉ?』


 頭の中で、さっきのアナの言葉がつながる。


 相沢先輩の精神反応の揺らぎ。

 まめ助との接続異常。

 二人の間にある、通常とは異なる相関。


「まさか……」


 その時、浴室の外から大きな足音が近づいてきた。

 流し続けていたシャワーの音に気づいたらしい。


「灰谷ぃ! お前、人の家の風呂で何やってんだ!」


 鬼頭課長だった。

 いつもなら、その怒鳴り声に反射的に身を竦めていただろう。


 だが、今ばかりはそれどころではない。


「課長」

「何だ!」

「これを見てください」


 俺は洗面台の上のまめ助と、曇った鏡の文字を指さした。

 鬼頭課長の視線が、鏡の上を走る。


『こーはいくん わたしだよ あいざわ』


 数秒の沈黙。


「課長……もしかしたら、まめ助と相沢先輩が入れ替わってるかもしれません」

「なにぃ!?」

『やっぱりそういうことなのぉ!?』

『相沢さん、大変だよぉ!』


 鬼頭課長が、珍しく純粋な驚きの声を上げた。

 すぐに浴室の入り口から身を乗り出し、部屋の奥を振り返る。


 俺も、その視線を追った。

 廊下の向こうから、足音がする。


 ぺた、ぺた、と頼りない音。


 寝巻姿の相沢先輩が、壁に手をつきながら歩いてきた。


「相沢?」


 鬼頭課長が呼び掛ける。

 相沢先輩は顔を上げた。

 次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。


「えへへへぇ~」

「なっ――」


 相沢先輩は覚束ない足取りで駆け寄ると、そのまま鬼頭課長の腹へ抱きついた。


「お、おい! 相沢!?」

「えへへへぇ~」

「離れろ! どうしたお前!」

『あらあらあらぁ!』


 チャーマの声が一気に弾んだ。


『チャーマちゃん、楽しんでる場合じゃないよぉ』

『だって、あの課長さんの慌て方、貴重じゃなぁい?』


 鬼頭課長が慌てて引き剥がそうとする。

 洗面台の上にいたまめ助も、さらに慌てた様子で両手を振った。


 俺の腕を伝って床へ降りると、相沢先輩の足元へ走り寄り、必死に寝巻の裾を引っ張る。


『相沢ちゃん、必死ねぇ』

『自分の身体が勝手に抱きついてるんだもん。それは慌てちゃうよぉ』


 鬼頭課長に抱きつく相沢先輩。

 その身体を引き離そうとする、まめ助。


 いや。


 相沢先輩の身体に入った、まめ助。

 まめ助の身体に入った、相沢先輩。


「えへへへぇ~」


 子供のように笑いながら、相沢先輩は鬼頭課長へ頬をすり寄せる。


『まめ助ちゃん、鬼頭さんのことが大好きなんだねぇ』

『趣味が渋いわねぇ』


 それを見て、俺は確信した。

 どうやら本当に、二人は入れ替わっているらしい。


 そして今、相沢先輩の身体に入っているまめ助は、鬼頭課長のことが大好きらしかった。

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