第25話 こーはいくん、わたしだよ
玄関先で倒れたまめ助を抱き上げ、俺は鬼頭課長の後を追った。
「相沢! いるか!」
返事を待つ気もないらしい。
鬼頭課長は靴を脱ぐと、遠慮なく家の奥へ進んでいく。
いや、入るんだな。
ためらいとか、一切ないんだな。
もっとも、連絡の取れない部下の自宅まで来て、玄関を開けてくれた小人が目の前で倒れたのだ。
今さら「お邪魔します」と律儀に頭を下げている場合でもない。
「失礼します……」
一応、俺だけは小声で断ってから上がった。
『眠太くん、まめ助ちゃん、大丈夫かなぁ……』
ヒーラの心配そうな声が響く。
「分からない。相沢先輩のこともあるし、ひとまず中を確認しないと」
『それにしても、あの課長さん、迷いなく入っていくわねぇ。こういうときの行動力だけは立派だわぁ』
チャーマの言い方には若干引っかかるところがあったが、否定はできなかった。
相沢先輩の家に入るのは初めてだった。
それほど広くない賃貸の一室。
玄関に並んだ靴も、きちんと向きを揃えられている。
開け放たれた居間も、床は磨かれ、クッションは寸分違わず並び、ローテーブルの上には物一つ散らかっていなかった。
綺麗だ。
綺麗すぎて、逆に落ち着かない。
台所の流しには洗い物がなく、布巾まで角を揃えて掛けられている。
その一方で、ダイニングテーブルの上には、ラップを掛けられたままの食事が置かれていた。
湯気はなく、皿の横に置かれた箸にも触れた形跡がない。
『ご飯、食べてないのかなぁ』
ヒーラの声が、さらに不安そうになる。
『部屋はこんなに綺麗なのに、暮らしてる人の気配が薄いわねぇ』
チャーマの言葉に、俺も同じことを感じていた。
部屋は整っている。
なのに、ここで暮らしている人間の時間だけが止まっているようだった。
「相沢!」
鬼頭課長の声が、奥の部屋から響いた。
腕の中のまめ助が、びくりと震える。
「大丈夫か?」
声を掛けると、まめ助は弱々しく顔を上げた。
黒い点のような目が、奥の部屋を見つめている。
『ずいぶん心配そうな顔をしてるわねぇ』
「顔、ほとんど点しかないけどな」
『分かるものは分かるのよぉ』
俺はその視線を追いながら、足を速めた。
寝室と思われる部屋で、相沢先輩はすぐに見つかった。
ベッドの上。
寝巻姿のまま、掛け布団の上で膝を抱え、ぼんやりと座り込んでいる。
「相沢先輩……」
ひとまず、意識はある。
胸が上下していることを確認し、俺は小さく息を吐いた。
『よかったぁ。ちゃんと息はしてるねぇ』
ヒーラも安堵したようだった。
鬼頭課長はベッド脇まで歩み寄ると、いきなり怒鳴ることはしなかった。
相沢先輩の顔を覗き込み、呼吸を確かめるように肩へ手を置く。
「相沢。俺が分かるか」
返事はない。
「どこか痛むのか。気分が悪いなら頷け」
相沢先輩は、瞬きすらほとんどしなかった。
鬼頭課長の眉間に、深いしわが寄る。
額に手を当て、それから肩や腕に目立ったけががないか確かめている。
『あらぁ。怒鳴るだけじゃなくて、ちゃんと様子も見てるじゃない』
「一応、上司だからな」
『一応ってつけるのはどうなのぉ?』
ヒーラに注意されてしまった。
「熱はなさそうだな……。おい、相沢。起きてるなら返事をしろ」
それでも反応は薄い。
心配が焦りへ変わったのか、鬼頭課長の声が一段大きくなった。
「相沢! 電話にも出ず、何をしている! 起きてるなら返事くらいしろ!」
その瞬間、俺の腕の中でまめ助が暴れた。
「うわっ」
小さな身体が、するりと抜け落ちる。
床に着地したまめ助は、一度よろめきながらも、鬼頭課長と相沢先輩の間へ駆け込んだ。
そして、掛け布団の端を掴む。
「何を――」
まめ助は必死に布団を持ち上げると、相沢先輩の頭からすっぽりとかぶせた。
鬼頭課長から隠すように。
布団の山になった相沢先輩の前で、まめ助は両腕を広げて立ちはだかる。
小さい。
とても小さい。
だが、その態度だけは完全に「これ以上近づくな」と言っていた。
『あらあら。ずいぶん必死に守ってるわねぇ』
『さっき倒れたばっかりなのに、無理しちゃ駄目だよぉ』
「……お前、邪魔をするな」
鬼頭課長が布団へ手を伸ばすと、まめ助は威嚇するように両手を振った。
声が出ないせいで迫力は皆無だが、意思だけははっきり伝わってくる。
鬼頭課長は納得できない顔をしたまま、しばらくまめ助を睨んでいた。
やがて舌打ちを一つすると、ポケットからスマホを取り出す。
「総務に状況を報告してくる。必要なら救急も呼ぶ。灰谷、お前は相沢を見てろ」
「はい」
「勝手な判断で動かすなよ」
それだけ言い残し、鬼頭課長は玄関の方へ戻っていった。
足音が遠ざかってからも、まめ助はしばらく扉の方を警戒していた。
俺はその場にしゃがみ込み、丸い頭をそっと撫でる。
「あの人、怖いよなぁ」
まめ助が、大きく頷いた。
「……お前もそう思うんだ」
『迷いがないわねぇ』
『鬼頭さん、声が大きいもんねぇ』
鬼頭課長には聞かせられないな。
俺は苦笑しながら、布団の山へ視線を向けた。
「相沢先輩。俺です。灰谷です」
反応はない。
「気分が悪いんですか? どこか痛みます?」
布団の中からは、呼吸音すらほとんど聞こえない。
「返事が難しかったら、手だけでも出せますか」
やはり動かない。
『身体が悪いのかなぁ。眠太くん、診てあげられない?』
「ああ。やってみる」
このまま放っておくわけにもいかない。
だが、無理に布団を剥がしていい状態なのかも分からない。
「アナ。相沢先輩を鑑定できるか?」
『実行します』
視界の端に、淡い文字が浮かぶ。
『対象――相沢真帆。生命反応、安定。外傷および急性疾患に該当する兆候は確認できません』
『よかったぁ。すぐに治療が必要な状態じゃないんだねぇ』
ひとまず、命に関わる状態ではないらしい。
だが、続いた言葉は妙だった。
『精神反応に通常とは異なる揺らぎを確認。原因は特定できません』
「精神反応の揺らぎ?」
『既知の症例と一致しません』
『魅了や精神干渉とは違うの?』
チャーマが食いついた。
『既知の精神・感情系スキルによる干渉反応とは一致しません』
『そう。じゃあ、アタシにも分からないわねぇ』
精神や感情に詳しいチャーマにも心当たりがないらしい。
俺は次に、足元のまめ助へ視線を落とした。
「こっちも頼む」
『解析を試行します』
数秒の沈黙。
『対象の構造情報を正常に取得できません』
「またか」
『術者との接続状態に異常が発生しています。また、相沢真帆との間に通常とは異なる反応の相関を確認』
『二人の間に、何か起きてるってことかなぁ?』
ヒーラの言葉に、アナは淡々と答えた。
『その可能性は高いと推測されます』
「相関って、どういう――」
尋ねかけたところで、ズボンの裾が引っ張られた。
見下ろすと、まめ助が俺の裾を掴んでいる。
「どうした?」
まめ助は何度も引っ張り、それから部屋の外を指さした。
ついてこい、ということらしい。
『何か伝えたいんじゃない?』
「たぶんな」
まめ助は一度だけ布団の山を振り返り、俺の裾をさらに強く引いた。
本当に何かを伝えたいみたいだ。
俺は立ち上がり、引かれるまま後についていった。
短い廊下を進み、連れてこられたのは洗面所だった。
まめ助は浴室の扉を指さす。
「風呂?」
頷く。
よく分からないまま扉を開けると、まめ助は中へ入り、自分で扉を閉めようとした。
「待て待て。閉めるのか?」
また頷く。
『あらぁ。二人きりになりたいみたいよぉ』
「その言い方やめろ」
『眠太くん、まめ助ちゃんは小人だよぉ?』
「分かってる」
俺が浴室へ入ると、まめ助は扉をきっちり閉めた。
続いて蛇口へ駆け寄り、背伸びをしてレバーへ手を伸ばす。
届かない。
二度ほど跳ねた後、こちらを振り向いた。
「お湯を出すのか?」
激しく頷く。
言われるままにレバーを操作すると、シャワーから勢いよくお湯が流れ始めた。
狭い浴室に、白い湯気が広がっていく。
まさか。
「お前、俺と一緒に風呂に入りたいのか?」
『まあ!』
チャーマが楽しそうな声を上げた。
『眠太くん、それは違うと思うよぉ』
まめ助は首が取れそうな勢いで横に振った。
「だよな。安心したよ」
『対象の意図は解析不能です』
『アナちゃん、そこはわざわざ解析しなくていいのよぉ』
『理解不能です』
アナにも分からないらしい。
まめ助は洗面台を指さし、自分を持ち上げるよう両手を伸ばした。
「そこに乗りたいのか?」
頷く。
俺は濡れないよう気をつけながら、まめ助を抱き上げ、洗面台の端へ乗せた。
浴室の鏡は、湯気ですっかり白く曇っている。
まめ助はそこへ手を伸ばした。
小さな指が、曇りをゆっくりとなぞる。
最初に現れたのは、歪んだ丸い文字だった。
『こーはいくん』
「……え?」
『後輩くん?』
ヒーラが小さく呟く。
俺をそう呼ぶ人間は、一人しかいない。
まめ助は何度も指を滑らせる。
『わたしだよ』
そこで一度、こちらを振り返った。
黒い点の目が、必死に俺を見つめている。
さらに、鏡へ向き直る。
『あいざわ』
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
「相沢……先輩?」
まめ助が何度も頷いた。
『ええっ!?』
ヒーラが驚きの声を上げる。
『ちょっと待って。じゃあ、この子の中に相沢ちゃんがいるってことぉ?』
頭の中で、さっきのアナの言葉がつながる。
相沢先輩の精神反応の揺らぎ。
まめ助との接続異常。
二人の間にある、通常とは異なる相関。
「まさか……」
その時、浴室の外から大きな足音が近づいてきた。
流し続けていたシャワーの音に気づいたらしい。
「灰谷ぃ! お前、人の家の風呂で何やってんだ!」
鬼頭課長だった。
いつもなら、その怒鳴り声に反射的に身を竦めていただろう。
だが、今ばかりはそれどころではない。
「課長」
「何だ!」
「これを見てください」
俺は洗面台の上のまめ助と、曇った鏡の文字を指さした。
鬼頭課長の視線が、鏡の上を走る。
『こーはいくん わたしだよ あいざわ』
数秒の沈黙。
「課長……もしかしたら、まめ助と相沢先輩が入れ替わってるかもしれません」
「なにぃ!?」
『やっぱりそういうことなのぉ!?』
『相沢さん、大変だよぉ!』
鬼頭課長が、珍しく純粋な驚きの声を上げた。
すぐに浴室の入り口から身を乗り出し、部屋の奥を振り返る。
俺も、その視線を追った。
廊下の向こうから、足音がする。
ぺた、ぺた、と頼りない音。
寝巻姿の相沢先輩が、壁に手をつきながら歩いてきた。
「相沢?」
鬼頭課長が呼び掛ける。
相沢先輩は顔を上げた。
次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。
「えへへへぇ~」
「なっ――」
相沢先輩は覚束ない足取りで駆け寄ると、そのまま鬼頭課長の腹へ抱きついた。
「お、おい! 相沢!?」
「えへへへぇ~」
「離れろ! どうしたお前!」
『あらあらあらぁ!』
チャーマの声が一気に弾んだ。
『チャーマちゃん、楽しんでる場合じゃないよぉ』
『だって、あの課長さんの慌て方、貴重じゃなぁい?』
鬼頭課長が慌てて引き剥がそうとする。
洗面台の上にいたまめ助も、さらに慌てた様子で両手を振った。
俺の腕を伝って床へ降りると、相沢先輩の足元へ走り寄り、必死に寝巻の裾を引っ張る。
『相沢ちゃん、必死ねぇ』
『自分の身体が勝手に抱きついてるんだもん。それは慌てちゃうよぉ』
鬼頭課長に抱きつく相沢先輩。
その身体を引き離そうとする、まめ助。
いや。
相沢先輩の身体に入った、まめ助。
まめ助の身体に入った、相沢先輩。
「えへへへぇ~」
子供のように笑いながら、相沢先輩は鬼頭課長へ頬をすり寄せる。
『まめ助ちゃん、鬼頭さんのことが大好きなんだねぇ』
『趣味が渋いわねぇ』
それを見て、俺は確信した。
どうやら本当に、二人は入れ替わっているらしい。
そして今、相沢先輩の身体に入っているまめ助は、鬼頭課長のことが大好きらしかった。




