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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第4章 小さな手、大きな歪み

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第24話 今日の分が終わったら

 鬼頭課長がイノシシを投げ飛ばした動画は、翌日には社内だけでなく、ネット上でも広く拡散されていた。


『サラリーマン、素手でイノシシを撃退』

『スキル持ちの怪力サラリーマン、住宅街を救う』

『捕獲されたイノシシ、宙を舞う』


 見出しだけを見れば、どこかの格闘家か猟師の話にしか思えない。

 だが、動画に映っているのは、どう見ても鬼頭課長だった。


 首元まできっちり締めたワイシャツ。

 肩幅の広い体。

 イノシシを持ち上げる直前まで、会社名の入った社員証までぶら下げている。


 隠す気がなさすぎる。


「これはもう、特定してくださいと言っているようなものでは?」

『顔、服装、社員証の一部が映り込んでいます。特定を回避するには不十分です』


 アナの冷静な分析が頭の中に響く。


「別に特定されたくて投げたわけじゃないだろうけどな」


 俺はパソコンの画面を眺めながら、ため息をついた。

 問題は、鬼頭課長の身元だけではなかった。


 動画を見た一部の人間が、鬼頭課長の顔に見覚えがあると言い出したのだ。


 比較対象として持ち出されたのは、チョコハザード事件の映像だった。


 スクランブル交差点で、魅了された社員たちが俺を追い回していたときの動画。

 その中に、俺の襟首を掴んでいた鬼頭課長の顔が、はっきりと映っていたらしい。


『イノシシ投げた人、チョコハザードの怪力上司じゃない?』

『社員を捕まえ、イノシシも捕まえる男』

『同じ会社で事件起きすぎだろ』


 そこから先は早かった。


 鬼頭課長と俺が同じ会社に勤めていることが知られ、さらに水瀬さんの所属まで掘り返された。


 チョコハザードの中心人物。

 魅了に抵抗した男。

 イノシシを投げ飛ばした上司。


 その三人が、同じ会社の同じ部署で働いている。

 客観的に見れば、とんでもない部署だった。


「客観的に見なくても、とんでもない部署だね」


 隣の席で、相沢先輩が困ったように笑う。


「否定できません」

「まだ、まめ助のことまでは広まってないみたいだけどね」


 相沢先輩の足元では、まめ助が書類の束を抱えて歩いていた。

 ぺたぺたと床を歩き、机の脇まで来ると、両手をいっぱいに伸ばして書類を差し出してくる。


 たしかに、まめ助の存在まで広まったら、ネットはお祭り騒ぎかもしれない。


「ありがとう、まめ助」


 俺が書類を受け取ると、まめ助は小さく両手を上げた。

 今日はまだ元気そうだ。


 ネット上での騒ぎは、すぐに会社の業務にも影響を与えた始めた。

 朝から電話が鳴りっぱなしだ。


「はい、かんばり支援サービス株式会社でございます。……取材のご依頼でしょうか」

「申し訳ありませんが、鬼頭はイノシシ退治の派遣業務は行っておりません」

「魅了スキルへの耐性講習ですか? そういったサービスは現在提供しておりません」


 真面目な問い合わせだけなら、まだよかった。


 実際、スキルが当たり前になりつつある時代に合わせて、職場環境を見直したいという企業からの相談は増えていた。


 スキルを業務へどう活用するか。

 スキル持ちの社員をどう管理するか。

 スキルによって生じる社内格差や負担をどう扱うか。


 働き方改革を掲げる会社としては、確かに大きな商機だった。

 ただし、その中には冷やかしも山ほど混ざっている。


「イノシシを投げた感想を聞きたい?」


 電話を取った鬼頭課長の眉間に、深い皺が寄る。


「業務に関係のない質問には答えられん!」


 受話器を置く音が、いつもより少し大きかった。


「課長、相手はどこからでした?」

「動画配信者だそうだ。うちの前で待っていれば、また何か投げるのかと聞いてきた」

「投げませんよね?」

「当たり前だ!」


 鬼頭課長は机を叩き、営業二課の全員を見回した。


「いいか。会社からも通達が来ている」


 鬼頭課長の声に、全員が手を止める。


「取材については、広報と上層部を通せ。勝手な受け答えはするな。特に灰谷と水瀬は注意しろ」

「はい」

「分かりました」


 俺と水瀬さんが揃って答える。


「その一方で、新規の問い合わせは増えている。これは会社の知名度と信用を上げる機会でもある」


 鬼頭課長は腕を組み、力強く続けた。


「無理はするな。各自、自分の体調には十分気を配れ」


 おお。

 ずいぶんまともなことを言っている。

 珍しいこともあるんだなぁ――


「だが、業績アップにつながる状況だ! 気合を入れて取り掛かれ!」


 やはり最後は気合ですか。


「無理をするなと気合を入れろが、同じ指示の中に共存してるんですが」

「気合を入れたうえで無理をするな!」

「難易度が高いですね」

「口を動かす暇があるなら、手を動かせ!」

「はい」


 俺はおとなしくパソコンへ向き直った。

 ちなみに篠崎さんは、ここ数日会社へ来ていない。


 鬼頭課長が捕まえたイノシシを、調査対象として研究機関へ引き取るため、警察や自治体との手続きを進めているらしい。


 捕まえたイノシシの引き取り手続き。

 人生で二度と聞くことのなさそうな言葉だった。


 篠崎さんがいない間にも、営業二課の忙しさは増していった。


 通常業務。

 新規問い合わせ。

 取材依頼の整理。

 上層部へ提出する報告書。

 新規顧客向けの資料作成。


 仕事は減るどころか、一日ごとに増えていく。


 鬼頭課長は会議と調整で席を外すことが多くなった。


 神代先輩は鳴り続ける電話に眉をひそめながらも、感覚強化を使って処理を続けている。


 水瀬さんも、事件について聞きたがる相手をかわしながら、問い合わせ対応に追われていた。


 俺も鑑定スキルを使い、送られてきた資料や案件の優先度を確認し続けた。


『情報処理負荷が上昇しています。休憩を推奨します』

「時間があれば、喜んで休憩するよ」

『現在の業務状況では、確保困難と推測されます』

「だよな」


 そんな中で、一番動き回っていたのが、相沢先輩とまめ助だった。


「灰谷くん、その資料、先方ごとに分けておいたからね」

「ありがとうございます。でも、相沢先輩の分は大丈夫ですか?」

「これくらいなら平気かな」


 相沢先輩はそう言って、すぐに神代先輩の机へ向かう。


「神代くん、会議資料の印刷、やっておくね」

「悪い。助かる」

「水瀬さん、取材依頼の一覧もまとめておいたよ」

「えっ、もう? 相沢先輩、早すぎません?」

「形式を揃えただけだね」


 形式を揃えただけ。

 その言葉で済ませるには、相沢先輩の引き受けている仕事は多すぎた。


 まめ助も、ずっと動き続けていた。


 資料を運ぶ。

 机を片付ける。

 コピー用紙を補充する。

 空になったカップを給湯室へ持っていく。

 誰かが落としたペンを拾う。


 誰かに頼まれなくても、忙しそうな人を見つければ、自分から駆け寄っていく。

 最初は、みんなその姿に助けられていた。


 俺も例外ではない。


「まめ助、このファイル、相沢先輩に渡してくれるか?」


 まめ助は両手を上げ、ファイルを受け取った。


「頼んでから言うのもなんだけど、重くないか?」


 まめ助は小さく首を横に振ると、ファイルを抱えて歩き出した。

 その足取りが、以前より少し遅い気がした。


 ぺた。


 ぺた。


 途中で一度、まめ助が立ち止まる。


「まめ助?」


 声をかけると、まめ助は振り返った。

 そして何事もなかったように、また歩き出す。


 気のせいだと思った。

 そう思いたかったのかもしれない。


 数日後。


 机の下で、まめ助が座り込んでいるのを見つけた。

 壁に背中を預け、足を投げ出している。


「どうした?」


 俺がしゃがみ込むと、まめ助は慌てたように立ち上がった。

 だが、立ち上がった直後に身体が揺れる。


「おい」


 手を伸ばすと、まめ助はそれを避けるように一歩下がり、床に落ちていたクリップを拾い上げた。


 まだ働くつもりらしい。


「相沢先輩」

「どうしたの?」

「まめ助、少し休ませた方がいいんじゃないですか」


 相沢先輩は、まめ助へ目を向けた。

 ほんの一瞬だけ、心配そうに眉を下げる。


「最近ちょっと忙しいから、疲れてるのかもしれないね」

「だったら、なおさら」

「今日の分が終わったら、ちゃんと休ませるね」


 今日の分。


 その言葉を聞いたとき、俺は机の上を見回した。


 新しい書類が積まれている。

 未処理のメールが増えている。

 電話は今も鳴り続けている。


 今日の分が終わるようには見えなかった。


「相沢先輩も休んだ方がいいですよ」

「私は大丈夫だね」

「目の下、少し黒くなってますけど」

「寝不足なだけだね」

「それを大丈夫じゃないって言うんですよ」


 相沢先輩は困ったように笑った。


「でも、みんな大変だからね」


 そう言って、また仕事へ戻っていく。

 昼休みになっても、相沢先輩は席を立たなかった。


「相沢先輩、ご飯行きません?」


 水瀬さんが声をかけても、相沢先輩はパソコンから目を離さない。


「先にこれだけ終わらせるね」

「さっきも同じこと言ってませんでした?」

「まぁ、でもあと少しだからね」


 その足元で、まめ助が資料を抱えて歩いている。

 相沢先輩が無理をするほど、まめ助が補おうとする。

 まめ助が疲れるほど、相沢先輩は自分が頑張らなければと思う。


 二人で支え合っているように見えて、実際には互いの無理を増やしているんじゃないか?


 その日の夜。

 俺が帰ろうとしたときも、相沢先輩は席に残っていた。


「相沢先輩、まだ帰らないんですか?」

「この資料だけ片付けておくね」

「明日でいいんじゃないですか?」

「明日のみんなが少し楽になるからね」


 相沢先輩は笑っていた。

 その隣で、まめ助がふらつきながら書類を運んでいる。


「まめ助も限界じゃないですか」

「大丈夫。家に帰ったら休ませるから」

「相沢先輩もですよ」

「分かってる」


 本当に分かっている人の返事には聞こえなかった。

 それでも俺は、それ以上強く言えなかった。


 自分の仕事も残っていたし、頭も痛かった。

 明日になれば、少しは落ち着くかもしれない。

 そんな都合のいい期待をして、会社を出た。


 翌朝。

 相沢先輩は出社してこなかった。


「珍しいですね」


 水瀬さんが時計を見る。

 始業時間を五分過ぎている。


「連絡は?」

「来てないです」


 神代先輩も首を横に振った。

 相沢先輩が連絡もなく遅刻することは、ほとんどない。


 それに、相沢先輩がいないということは、まめ助もいない。


 鬼頭課長がスマートフォンを取り出し、電話をかける。

 しばらく待ったあと、険しい顔で切った。


「出ないな」

「寝てるんじゃないですか?」

「相沢がこの時間まで寝坊するか?」


 誰も答えなかった。


 鬼頭課長は社内チャットにも連絡を入れた。

 水瀬さんも個人的にメッセージを送る。


 だが、既読はつかない。


 一時間が過ぎた。

 さらに一時間が過ぎた。


 相沢先輩からの連絡はなかった。


「体調を崩して寝ているだけならいいんだが」


 神代先輩が低い声で言う。


「課長」

「なんだ」

「相沢先輩の様子を見に行った方がいいんじゃないですか?」


 鬼頭課長が俺を見る。


「……そうだな」


 鬼頭課長は時計を確認した。


「昼まで待つ。それでも連絡がなければ、直接確認に行くぞ」


 昼になっても、相沢先輩からの返事はなかった。


「灰谷、行くぞ」

「え? 俺もですか?」

「お前の鑑定スキルが必要になるかもしれないからな」

「あの、私も行きます」


 水瀬さんが立ち上がる。

 鬼頭課長は少し考え、首を横に振った。


「いや、お前と神代は残れ。ここを空にはできん」

「でも」

「相沢から連絡が来たら、すぐに知らせろ」

「……分かりました」


 俺と鬼頭課長は会社を出た。

 移動中、鬼頭課長は何度も相沢先輩へ電話をかけた。


 だが、一度もつながらない。


「無理をするなと言ったはずだ」


 鬼頭課長が低い声で呟く。


「報告もせずに休むとは何事だ」


 怒っているような口調だった。

 けれど、その声にはいつもの勢いがなかった。


 俺も、まめ助の異変に気づいていた。


 相沢先輩の顔色が悪いことも。

 昼食を抜いていたことも。

 遅くまで残っていたことも。


 全部見ていた。


 見ていたのに、仕事が忙しいからと深く踏み込まなかった。


 俺たちが相沢先輩の家に着いたとき、玄関の前に目立った異常はなかった。

 鬼頭課長がインターホンを押す。

 反応はない。


「相沢!」


 鬼頭課長が扉を叩く。


「いるなら返事をしろ!」


 室内は静かなままだった。

 俺も電話をかけてみる。

 扉の向こうから、かすかに着信音が聞こえた。


「スマホは中にあるみたいですね」


 鬼頭課長の表情が変わる。


「相沢! 開けろ!」


 強く扉を叩く。

 それでも返事はない。


 しばらくして。

 扉の向こうから、小さな音が聞こえた。


 ぺた。


 ぺた。


 弱々しい足音が、ゆっくりと近づいてくる。


「まめ助?」


 俺が呼びかけると、扉の向こうで何かを引きずる音がした。

 しばらくして、かちゃり、と小さな音が続く。


 鍵が開き、扉がほんの少しだけ開く。

 隙間から、まめ助が姿を現した。


 身体は汚れていた。

 丸い顔には、いつもの愛嬌がない。


 左右にふらつきながら、俺たちを見上げている。


「まめ助!」


 俺がしゃがみ込む。

 まめ助は手を振らなかった。


 ただ、助けを求めるように、俺へ向かって一歩踏み出した。


 その直後。

 まめ助の身体から、力が抜けた。


「おい!」


 俺は倒れ込んできた身体を、慌てて両手で受け止める。

 軽い。

 驚くほど軽いはずなのに、その重さが腕に食い込んだ。


「相沢!」


 鬼頭課長が扉を押し開け、部屋の奥へ向かって叫ぶ。

 返事はない。

 俺の腕の中で、まめ助はぴくりとも動かなかった。

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