第23話 平穏な昼休みは投げ飛ばされた
会社から少し離れた喫茶店で、俺たちは四人掛けのテーブルを囲んでいた。
俺の正面には水瀬さん。
隣には神代先輩。
そして、斜め向かいには篠崎さん。
どうしてこの組み合わせになったのかと聞かれれば、主な原因は神代先輩である。
「せっかくだし、昼はここにしないか」
と、珍しく自分から店を指定した。
普段の神代先輩なら、混雑を避けられる店をいくつか挙げて、その中から一番静かな場所を選ぶ。
そんな人が、迷いなくここへ向かった時点で、理由はなんとなく察していた。
「いらっしゃいませ」
俺たちの席へ注文を取りに来た森崎さんを見て、やっぱりなと思う。
薄い茶色のエプロンを身につけた森崎さんは、俺たちの顔を見ると、少し驚いたように目を見開いた。
「あ……神代さん。それに、灰谷さんに水瀬さんも」
「こんにちは、森崎さん」
神代先輩が、普段より少し柔らかい声で挨拶をする。
その変化に気づいたらしい水瀬さんが、ちらりと俺を見た。
目が合った。
俺たちは無言で視線を逸らす。
余計なことは言わない。
社会人として大切な処世術である。
「こちらの方は……」
森崎さんの視線が、篠崎さんへ向けられる。
「篠崎理央です。国際スキル研究チームへの参加を予定している研究者です」
「は、はあ……」
いきなり肩書きまで名乗られて、森崎さんが困惑した顔になる。
「俺たちの会社に、スキル関係の調査で来てるんです」
俺が補足すると、森崎さんは小さく頷いた。
「そうなんですね。ご注文はお決まりですか?」
「俺はナポリタンとアイスコーヒーで」
「私は、きのこのクリームパスタと紅茶をお願いします」
「俺は日替わりパスタと、いつものコーヒーを」
神代先輩がそう言うと、森崎さんの表情が少しだけ明るくなる。
「はい。鎮静効果をつけたコーヒーですね」
その一言に、篠崎さんが反応した。
「鎮静効果?」
顔を上げる速度が速い。
研究対象を見つけた時の篠崎さんは、だいたいこんな顔をする。
「神代さん。もしかしてそのコーヒーには、スキルによる効果が付与されているんですか?」
「ああ。森崎さんは、飲み物に効果を付与できるんだ」
「感覚過敏にも作用を?」
「かなり楽になる」
「なるほど」
篠崎さんの目が輝いた。
森崎さんが一歩後ずさる。
研究者に興味を持たれたスキル所有者の正しい反応だと思う。
「では、私も同じコーヒーをお願いします」
「は、はい」
「それと、可能なら効果を付与していない同一銘柄のコーヒーも比較用に――」
「篠崎さん」
神代先輩が遮る。
「今は昼食だ」
「分かっています。ですから、食事をしながら比較を」
「森崎さんが困っている」
言われて、篠崎さんはようやく森崎さんの表情を確認した。
「……失礼しました」
「い、いえ。大丈夫です」
たぶん大丈夫ではない。
「日替わりパスタと、鎮静効果付きのコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
森崎さんは注文を書き終えると、ほっとしたように厨房へ戻っていった。
「最初から飛ばしすぎですよ」
俺が言うと、篠崎さんは眼鏡の位置を直した。
「未知の効果を持つスキルを前にして、平静でいろという方が難しいんです」
「森崎さんのスキルは未知じゃないでしょう。神代先輩から聞いてたんですよね」
「概要だけです。発動条件も、持続時間も、付与できる飲料の種類も分かっていません」
「だからって、注文を取りに来た店員さんを尋問しないでください」
「尋問ではありません。聞き取りです」
「受ける側が怯えてたら、大差ないですよ」
篠崎さんは不服そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。
篠崎さんはカップを受け取ると、香りを確かめ、一口だけ口に含んだ。
ワインの試飲でもしているような真剣さである。
「……なるほど」
「何か分かるんですか?」
水瀬さんが聞く。
「味覚上の変化はほとんどありません。ですが、わずかに呼吸が深くなった気がします」
「気のせいじゃないですか?」
「その可能性もあります。だから比較用サンプルが必要なんです」
篠崎さんはカップを置くと、近くを通った森崎さんへ声をかけた。
「森崎さん」
「は、はい」
「このコーヒーを研究用のサンプルとして提供していただくことは可能ですか?」
森崎さんの顔が固まる。
「えっと……お店の商品なので、私だけでは……」
「もちろん、店長の許可を得たうえで正式に依頼します。費用も支払いますし、研究目的や保管方法についても書面を用意します」
今度は、さっきよりだいぶ丁寧だった。
「森崎さん自身が嫌なら、断ってもらって構いません」
「あ……それなら、店長に相談してみます」
「お願いします」
篠崎さんが頭を下げる。
どうやら研究対象を前にしても、最低限の手続きは守るらしい。
少し安心した。
少しだけだけど。
その後、注文したパスタが運ばれてきた。
「いただきます」
昼休みくらい、こうして平穏にパスタを食べていたい。
水瀬さんと篠崎さんは、クリームパスタと日替わりパスタの味について話している。
神代先輩は静かに食事をしながら、時々、店内を動き回る森崎さんの姿を目で追っていた。
見すぎだと思う。
ただ、本人が気づいていなさそうなので黙っておく。
俺だって、水瀬さんのことを見ている時に指摘されたら困る。
いや、見ているわけじゃないけど。
たまたま視界に入ることが多いだけだけど。
「灰谷くん、どうかした?」
「何もないです」
「そう?」
水瀬さんが首を傾げる。
危ない。
思考が顔に出ていたらしい。
俺がナポリタンへ意識を戻そうとした時、店内のテレビから速報音が流れた。
『続いて、速報です』
店内にいた何人かが顔を上げる。
『本日正午前、都内の市街地でイノシシが目撃されました。イノシシは近郊の山から迷い込んだとみられ、現在も警察などが行方を追っています』
画面には、スマートフォンで撮影されたらしい映像が映っていた。
道路を走る黒い影。
遠目でも大きいと分かる。
『目撃情報によりますと、イノシシは一般的な成獣よりも一回りほど大きく、非常に興奮した状態で暴れているということです。近隣住民の方は、外へ出ず――』
映像の中で、イノシシが道路脇の自転車を跳ね飛ばした。
軽い音を立てて、自転車が横倒しになる。
「ずいぶん力が強いな」
神代先輩がテレビを見つめる。
「スキル発現個体かもしれませんね」
篠崎さんは驚くでもなく、興味深そうに目を細めた。
「動物にもスキルって発現するんですか?」
水瀬さんが聞く。
「確認されています。人間ほど報告数は多くありませんが」
「初耳なんですけど」
「一般には、まだ積極的に公表されていませんから」
また守秘義務関係だろうか。
そういうニュースも目にした気がするから、隠すほどでもないのかもしれない。
「映像だけでは断定できませんが、通常のイノシシの出力ではありませんね」
篠崎さんが画面に身を乗り出す。
「筋力強化か、身体能力全般の強化か。直接観察できれば――」
どんっ、と店の外から大きな音がした。
続いて、悲鳴。
「逃げろ!」
「こっちに来るぞ!」
窓の外を、何人もの人が走っていく。
店内の空気が一変した。
「まさか」
神代先輩が立ち上がる。
俺たちは窓の外へ視線を向けた。
道路の向こうから、黒い塊が走ってくる。
テレビに映っていたイノシシだ。
体高は大人の腰より高く、太い四肢には盛り上がった筋肉が浮いている。
鼻息を荒くしながら、路上の看板へ体当たりした。
看板は簡単に倒れ、舗道を滑っていく。
「入口を閉めて!」
店長らしき男性が叫び、店員が慌てて扉を施錠する。
店内の客たちが窓から離れる。
俺も立ち上がりながら、イノシシを見た。
「アナ。鑑定できるか?」
『対象を確認します』
頭の中に、いつもの淡々とした声が響く。
一瞬、視界が揺れた。
イノシシの周囲に、半透明の情報が浮かび上がる。
『対象に、身体能力強化系スキルの発現を確認』
「やっぱりスキル持ちか」
『筋力、瞬発力、耐久力が通常個体を大幅に上回っています。接近は推奨しません』
「言われなくても近づかないよ」
イノシシは道路の中央で方向を変えた。
その先には、逃げ遅れた男性がいる。
転倒したらしく、舗道に尻もちをついたまま動けない。
「危ない!」
水瀬さんが叫ぶ。
イノシシが地面を蹴った。
その時だった。
「下がれぇっ!」
道路に怒声が響いた。
イノシシと男性の間へ、一人の男が飛び出す。
見覚えのある広い背中。
灰色のスーツ。
手には黒いビジネスバッグ。
「課長!?」
鬼頭課長だった。
取引先からの帰りなのか、普段より少しだけ身なりが整っている。
鬼頭課長は鞄を道路脇へ放り投げると、転倒した男性を振り返った。
「早く逃げろ!」
「は、はい!」
男性が這うようにその場を離れる。
イノシシは標的を鬼頭課長へ変えた。
前脚で地面をかき、首を低くする。
「課長、正面からは――」
俺の声は届かない。
イノシシが突進した。
舗装された道路を蹴る蹄の音が、店内まで響く。
鬼頭課長は逃げなかった。
腰を落とし、両手を構える。
「まさか、受け止める気?」
水瀬さんが息を呑む。
激突する。
そう思った瞬間、鬼頭課長の身体が動いた。
突進してきたイノシシの牙を紙一重でかわし、低く潜り込む。
片腕を前脚の付け根へ回し、もう片方の手で胴体を抱える。
「ふんっ!」
短い気合い。
次の瞬間、イノシシの巨体が宙を舞った。
「えっ」
水瀬さんの口から、間の抜けた声が漏れる。
俺も同じ気持ちだった。
百キロ近くありそうなイノシシが、きれいな弧を描いている。
鬼頭課長は突進の勢いをそのまま利用し、道路へ投げ落とした。
ずしん、と重い音が響く。
イノシシは背中から地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
決着まで数秒。
俺たちは店から出る暇すらなかった。
「課長って、本当に強かったんだ……」
水瀬さんが呆然と呟く。
「学生時代、柔道をしていたと聞いたことはあったが……」
神代先輩が冷静に答えた。
身体能力強化スキルを持っていることは知っていた。
バレンタインの日には俺を簡単に捕まえていたし、常人より力が強いのも分かっていた。
でも、まさかイノシシを投げ飛ばすほどとは思わなかった。
「すごい……」
森崎さんが胸の前で手を組んでいる。
一方、篠崎さんは別の意味で目を輝かせていた。
「行きましょう」
「どこへですか」
「イノシシのところです」
「行きませんよ」
「貴重な身体強化系の野生個体ですよ」
「さっきまで人を襲おうとしてたんですよ」
「今は気絶しています」
「起きるかもしれないでしょう」
篠崎さんは聞いていなかった。
店員が鍵を開けると同時に外へ出ていく。
俺たちも仕方なく後を追った。
鬼頭課長は、気絶したイノシシのそばに立っていた。
スーツの片膝が破れ、ネクタイも曲がっている。
それでも本人は気にしていないようだった。
「課長、大丈夫ですか?」
神代先輩が声をかける。
「問題ない! お前たちは何をしている!」
「昼食です」
いつもの大声だ。
鬼頭課長は俺たちの後ろにいる篠崎さんを見つけ、眉間にしわを寄せた。
「篠崎さんも一緒にいたのか?」
「それより、この個体を研究機関へ搬送できませんか?」
「話を聞け!」
篠崎さんはイノシシの周囲を歩きながら、興奮した様子で観察している。
「外傷は投げられた際のものだけ。呼吸も維持されています。素晴らしい。これほど状態の良いサンプルが――」
イノシシへ手を伸ばそうとした篠崎さんを、鬼頭課長が一喝する。
「警察と役所が来るまで近づくな! 起きたら危険だ!」
「ですが、体温や筋肉の状態だけでも――」
「近づくな!」
「はい」
篠崎さんが素直に一歩下がる。
鬼頭課長の大声が研究欲に勝った瞬間だった。
遠くからサイレンが聞こえてくる。
その時、地面に倒れていたイノシシの脚が動いた。
周囲にいた人たちが一斉に後ずさる。
「下がれ!」
鬼頭課長がイノシシの首元を押さえ込む。
意識は戻っていないようだが、呼吸が荒くなっていた。
「どうしましょう」
水瀬さんが不安そうに言う。
「このまま目を覚ましたら、また暴れますね」
篠崎さんは冷静だった。
「森崎さんのスキルを試せないでしょうか」
「え?」
突然名前を呼ばれ、森崎さんが肩を震わせる。
「鎮静効果を付与した飲み物です。人間以外にも作用する可能性があります」
「でも、コーヒーをイノシシに飲ませるのは……」
「水にも付与できますか?」
「たぶん、できます」
森崎さんは戸惑いながら答える。
「お店に戻れば、お水があります」
「無理にやらなくていいぞ」
神代先輩が言う。
「危険だ」
「でも、このまま目を覚ましたら、また誰かが怪我をするかもしれません」
森崎さんは不安そうにイノシシを見た。
それから、小さく息を吸う。
「やってみます」
店へ戻り、グラスに入れた水を持ってくる。
森崎さんは両手でグラスを包むように持ち、目を閉じた。
しばらくすると、水の表面が微かに揺れる。
「できました」
「俺が押さえている! 無理に近づくな!」
鬼頭課長がイノシシの頭部を固定する。
神代先輩が森崎さんの代わりにグラスを受け取り、少しずつイノシシの口元へ水を流した。
最初は反応がない。
やがて、イノシシの舌が動いた。
反射的に水を舐め、少しずつ飲み込んでいく。
全員が様子を見守る。
一分ほど経った頃、荒かった呼吸がゆっくりになった。
硬直していた脚から力が抜ける。
『対象の興奮状態が低下しています』
アナの声が響く。
「効いてる」
俺が呟くと、森崎さんが目を見開いた。
「本当ですか?」
「たぶん。さっきより落ち着いてます」
「動物にも作用する……ということですね」
篠崎さんが手帳を取り出し、ものすごい勢いで書き始める。
「飲料への鎮静効果付与。人間以外の哺乳類にも有効である可能性。経口摂取から効果発現まで約一分。身体強化スキルによる興奮状態にも――」
「篠崎さん」
「はい?」
「今すぐサンプルを取ろうとしないでくださいね」
「もちろんです。正式な手続きを踏みます」
返事は真面目だが、顔は笑っている。
「今日はサンプルが二つも手に入りました」
「イノシシはまだ篠崎さんのものじゃないですよ」
「分かっています。研究協力を申請するという意味です」
やがて警察と自治体の職員が到着し、眠ったままのイノシシは専用の檻へ収容された。
篠崎さんは担当者へ自分の所属を説明し、調査への参加を申し出ている。
森崎さんは、運ばれていくイノシシを見送りながら、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「私のスキル、動物にも効くんですね」
「助かりました、森崎さん」
神代先輩が言う。
「森崎さんが水を用意してくれなかったら、課長がずっと押さえていないといけなかった」
「俺は問題なかったがな!」
鬼頭課長が言い切る。
ただ、額には汗が浮いていた。
強がりだと思う。そう思いたい。
「課長も、ありがとうございました」
水瀬さんが頭を下げる。
「近くにいたから止めただけだ!」
鬼頭課長は道路脇に放り投げた鞄を拾い上げる。
側面に大きな擦り傷ができていた。
「取引先から戻る途中だったんですか?」
「ああ! それより、お前たち!」
嫌な予感がする。
「昼休みが終わるぞ! いつまで外にいるつもりだ!」
時計を見る。
確かに、残り時間はあまりなかった。
巨大イノシシを投げ飛ばした直後でも、気にするのは昼休みの終了時刻らしい。
社畜の鑑である。
褒めてはいない。
俺たちは店へ戻り、冷めかけたパスタを急いで食べることになった。
篠崎さんだけは食事を再開せず、手帳へ何かを書き続けている。
「食べないんですか?」
「今はそれどころではありません。身体強化系の野生個体と、動物にも作用する鎮静付与。確認することが山ほどあります」
「昼休みは残り十分ですよ」
「研究者に昼休みは関係ありません」
「そういうことを言う人がいるから、労働環境が改善しないんですよ」
窓の外には、倒れた看板と、イノシシが暴れた跡が残っている。
人間がスキルを持つだけでも、社会はまだ混乱している。
そこへ動物まで加わるとなれば、今後何が起きるのか分からない。
犬や猫なら、まだいい。
いや、身体強化された大型犬が暴れたら、たぶんよくないけど。
鳥が飛行能力を強化したり、虫が増殖能力を得たりしたら、もっとよくない。
考えれば考えるほど、冷めたナポリタンの味がしなくなる。
俺が暗い想像を膨らませている隣で、篠崎さんは楽しそうに笑っていた。
「今日は、とても良い昼休みになりました」
俺は皿に残ったナポリタンを見下ろす。
「俺にとっては、最悪に近い昼休みです」




