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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第4章 小さな手、大きな歪み

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第21話 おかえり水瀬さん、こんにちは監査官

 退院とは、病院から出ることであって、平穏に戻ることではない。

 これは、俺が退院当日に学んだ人生の教訓である。


 そして今日、俺は新たな教訓を得ようとしていた。

 会社に戻ることは、別の病棟に移ることと、だいたい同じである。


「……行きたくない」

『出社時刻まで、残り四十二分です』


 アナの冷静な声が、頭の中に響いた。


「そういう現実的な数字を出すの、やめてくれないか」

『現実逃避による遅刻リスクを検知しました』

『眠太くん、無理しないでねぇ。まだ体、完全じゃないんだからぁ』


 ヒーラの声は優しい。

 優しいが、俺の会社は優しくない。


『まぁまぁ、今日くらい遅れちゃってもいいんじゃなぁい?』


 チャーマが、どこか他人事で楽しそうだ。

 他人事じゃないんだけどな。


「楽しむな。お前も当事者だろ?」


 支度を整え、職場に向かいながらスマホを開くと、ニュースアプリの見出しが目に入った。


『通称“チョコハザード”が各界に影響、スキル規制を望む声多数』

『精神干渉系スキル、規制強化の議論へ』

『生活補助系スキルを活用した家事代行サービス、予約殺到』

『動物にもスキル発現か。各地で異常行動の報告』


 俺が点滴を受けている間に、世間は順調に面倒くさくなっているようだ。


「チョコハザードか……」

『ネット上で定着しつつある俗称です』

「定着しないでほしい」

『でも、ちょっと語感はいいわよねぇ』

「よくない」


 俺はスマホをポケットにしまい、深く息を吐いた。


 水瀬さんは、今日から会社に復帰する予定だ。

 正直、どういう顔をして会えばいいのか分からない。


 倒れたのは俺だが、暴走したのは水瀬さんだ。けれど、水瀬さんが悪いと言い切れるほど単純な話でもない。

 スキル社会というやつは、責任の所在まで妙にふわふわしている。


 会社のビルに着くころには、胃が重くなっていた。


『胃粘膜に異常は確認できません』

「だから、そういう意味じゃないんだよ」


 営業二課に入ると、そこにはいつもの空気があった。


 鬼頭課長はパソコンに向かって眉間にしわを寄せている。

 神代先輩は耳栓を片耳だけ外し、資料を確認している。

 相沢さんは机の上の書類を整えながら、こちらに気づいて微笑んだ。


「灰谷くん、おはようだね」

「おはようございます」


 その足元で、膝丈くらいの小人がぺこりと頭を下げた。

 まめ助だ。


 相沢さんの生活補助スキルが具現化した、埴輪みたいな顔の小さな相棒である。

 以前、鬼頭課長に提案した社員証付き帽子を被ってる。


 俺が入院している間に、営業二課には膝丈の福利厚生が完全導入されていたらしい。

 まめ助は俺の机に歩いてくると、小さな湯飲みを置いた。

 中身は白湯らしい。病み上がり仕様か。


「ありがとう、まめ助」


 まめ助はこくりと頷く。


「灰谷、体調はどうだ」


 鬼頭課長が顔を上げた。

 いつもなら一声で蛍光灯が震えそうな声量だが、今日はやや控えめだった。


「大丈夫です。空腹以外は」

「それはいつもだろう」

「はい」


 神代先輩が耳栓を外しながら言った。


「課長、今日の声量は助かります」

「俺は病み上がりに配慮しているだけだ」

「その配慮、ぜひ常設してください」

「検討する」


 検討するんだ。

 チョコハザードの影響が鬼頭課長にも出てるのかもしれないな。


 俺が席に着いた直後、入口のほうで小さく足音が止まった。

 水瀬さんだった。


 淡い色のブラウスに、いつもより少し硬い表情。両手でバッグの持ち手を握りしめている。営業二課の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……おはようございます」


 水瀬さんは小さく頭を下げた。


「皆さん、今回は、本当に――」

「謝罪はあとでいい」


 鬼頭課長が遮った。

 ただし、怒鳴ってはいない。


「まず座れ。体調はどうなんだ」


 水瀬さんは一瞬、驚いたように目を丸くした。


「……はい。大丈夫です」

「なら、座れ。倒れられると困る」

「はい」


 相沢さんが柔らかく笑った。


「水瀬さん、おかえりだね」


 まめ助も、水瀬さんに向かってぺこりと頭を下げる。

 水瀬さんの目元が、少しだけ揺れた。


「……ただいま、です」


 それだけ言って、自分の席に向かう。

 俺の隣を通るとき、水瀬さんは少しだけ足を止めた。


「灰谷くん、その……体、大丈夫?」

「はい。空腹以外は」

「それ、いつもじゃない?」

「まぁ、そうですね」


 水瀬さんは少し笑った。


 いつもの会話に戻ったような気がした。けれど、そのあとに妙な沈黙が落ちる。

 水瀬さんは視線を落とし、小さく言った。


「本当に、ごめんね」

「それはもう聞きました」

「でも、何回言っても足りないっていうか……」

「じゃあ、俺も何回でも言いますけど、もう大丈夫です」


 水瀬さんが顔を上げる。

 目が合った。

 なにか反応したほうが良い気がして、とりあえず肩を竦めてみる。

 その瞬間、なぜかこっちまで少し気まずくなった。


『心拍数、軽度上昇』

「報告しなくていい」

「え?」

「いえ、こっちの話です」


 水瀬さんは怪訝そうに首を傾げたあと、ふと思い出したように言った。


「……チョコ、しばらく見たくないよね」

「ははは、非常食としても距離を置きたいです」

「そこまで?」

「ニュース見ましたよね? チョコハザード」

「……たしかに、当分見たくないわね」


 少しだけ、空気が緩んだ。

 そのとき、営業二課の入口から別部署の社員が顔を出した。


「あの、相沢さん。まめ助くんって、資料整理もできます?」


 相沢さんが振り返る。


「資料整理?」

「会議室、ちょっと散らかってて。五分だけでいいんで、借りてもいいですか?」


 借りる。

 その言葉が、妙に引っかかった。


 まめ助は相沢さんのスキルだ。なのに今の言い方は、備品の貸し出しに近い。

 相沢さんも、一瞬だけまめ助を見た。

 けれどすぐ、いつものように柔らかく笑う。


「大丈夫。まめ助、お願いできる?」


 まめ助はこくりと頷き、ぺたぺたと他部署の社員についていった。

 俺はその小さな背中を見送る。


『生活補助スキル体“まめ助”、補助対象を一時的に拡大した模様』


 アナが淡々と言った。


「補助対象って、相沢さん以外にも広がるのか?」

『現時点では限定的と推測されます』

『でもぉ、まめ助くん、頑張り屋さんだねぇ』


 ヒーラの声は心配そうだった。

 まめ助が戻ってきたのは、十分ほど後だった。


 小さな体で資料を抱えていたわけではないが、歩き方がほんの少しだけ遅いように見えた。


「お疲れさまだね」


 相沢さんがそう言うと、まめ助はぺこりと頭を下げた。


 相沢さんは微笑んでいる。

 けれど、その表情の奥に、薄い影のようなものが見えた。


「頼られるのは、いいことなんだけどね」


 ぽつりと、相沢さんが呟いた。

 その言葉は誰に向けたものでもないように聞こえた。


 俺は何か言おうとして、やめた。

 聞いていいことなのか、分からなかったからだ。


 そして、そういうときに無理に踏み込むほど、俺は勇敢ではない。


 昼前になって、営業二課に新たな来客が現れた。

 篠崎理央。


 テレビで「宇宙人侵略仮説」を語っていた、国際スキル研究チーム参加予定者であり、今はうちの会社にも出入りしている、距離感が独特な監査官である。


「おはようございます。水瀬さん、復帰初日の心理状態を確認してもいいですか」

「ここ、職場なんですけど」

「はい。職場復帰時の反応なので、むしろ重要です」

「そう、なんですね……」


 水瀬さんが早速押されている。

 俺は思わず口を挟んだ。


「篠崎さん、復帰初日に圧をかけるのはやめた方がいいと思います」

「圧ですか?」

「はい。研究者の圧です」

「なるほど」


 篠崎さんは一歩下がった。


「では、一メートル離れます」

「物理的な話じゃないんですよ」


 篠崎さんは真顔でメモを取った。


「精神的圧迫は、距離だけでは軽減しない。参考になります」

「研究しなくても分かることでは?」


 篠崎さんの興味は、すぐ俺にも向いた。


「灰谷さんにも確認したいことがあります」

「俺ですか」

「事件当時、水瀬さんの近くにいた関係者なので」

「関係者って言われると、急に刑事ドラマ感が出ますね」

「実際、調査対象ではあります」

「もっと嫌な言い方になったな」


 質問自体は、意外と普通だった。


 当時の体調。水瀬さんの様子。魅了にかかった感覚。倒れる前後の記憶。復帰後の体調。

 俺は答えられる範囲で答えた。


 アナやヒーラやチャーマのことは、当然隠したままだ。


「灰谷さんは、当時の感覚をかなり具体的に覚えているんですね」

「嫌な記憶ほど残るタイプなので」

「なるほど」


 篠崎さんはそれ以上、深くは追及しなかった。


 ただ、俺を見る目は、何かを探しているようだった。

 やめてほしい。


 その後、篠崎さんはまめ助にも興味を示した。


「自律行動型の生活補助スキル体……興味深いですね」

「スキル体って言い方、まめ助がちょっとかわいそうだね」


 相沢さんがやんわり言う。

 篠崎さんは少し考えた。


「個体名をまめ助というのでしたね、見た目の似た豆があるのでしょうか?」

「どんな着眼点ですか……」


 俺の独り言に、まめ助がこくりと頷いた気がした。

 どうでもいいけど、篠崎さんってアナみたいな言葉選びをするよなぁ。


 終業間際、また別部署から声がかかった。


「ごめん、まめ助くん、これだけお願い!」


 相沢さんは少し迷ってる。

 ほんの少しだけ。


 でも、すぐに笑った。


「あ、うん……大丈夫だね」


 まめ助はこくりと頷き、また歩き出した。

 さっきよりも、ほんの少しだけ足取りが重い。


『生活補助スキル出力、通常より微弱低下』


 アナの声が響く。


『補助対象の拡散傾向を確認。継続観察を推奨』

「……面倒な予感しかしない」

『同感よぉ。小さい子に無理させる大人って、だいたい碌でもないのよねぇ』


 チャーマが珍しく低い声で言った。

 相沢さんは、まめ助の背中をじっと見つめていた。


 そして、何かを言いたそうに唇を動かしたが、結局、何も言わなかった。


 仕事が終わるころ、俺はとにかく帰りたかった。


 水瀬さんも復帰初日で疲れているはずだ。今日はこのまま解散。それが一番平和で健康的な選択である。


 しかし、平和と健康は俺の人生にあまり定着しない。


「では、場所を変えて聞き取りを続けましょう」


 篠崎さんが言った。


「続けなくていいです」

「親睦も兼ねます」

「聞き取りと親睦を兼ねないでください」


 水瀬さんが苦笑する。


「でも、篠崎さんにもいろいろお世話になりましたし……少しだけなら」

「水瀬さん」

「うん?」

「その“少しだけ”は、社畜にとって危険な言葉ですよ」

「灰谷くんが言うと説得力あるね」


 説得力がある人生を送りたくなかった。

 結局、俺たちは三人で会社近くの居酒屋に入った。


 木目調のテーブル、壁に貼られたおすすめメニュー、店内に漂う揚げ物の匂い。


 こういう場所に来ると、少しだけ普通の社会人になった気がする。

 ただし同席者が、魅了事件の当事者と査察官でなければの話だ。


「水瀬さん、復帰初日の精神的負荷は十段階でどの程度ですか」

「居酒屋で聞くことですか?」

「環境が変わると回答も変わります」

「変わるというか、飲みにくいです」


 篠崎さんは生ビールを一口飲んだ。

 その目が、少しだけ鋭くなった。

 いや、違う。

 鋭いというより、口が軽くなった。


「では質問を変えます」

「はい?」

「お二人は付き合っているんですか?」


 俺は枝豆を落とした。

 水瀬さんはビールにむせた。


「つ、付き合ってません!」

「反応速度が非常に速いですね。事前に想定していた質問ですか?」

「してません!」

「灰谷さんは?」

「してません」

「回答が一致しました。事前打ち合わせの可能性があります」

「ありません」


 篠崎さんは真顔で頷く。


「ですが、ニュースやネットでは、お二人の関係はほぼ周知の事実扱いです」

「どういう事実ですか」

「魅了チョコ事件の中心人物と、それを止めようとして倒れた男性社員」

「言い方」

「世間は、そういう関係性を好意的に消費します」

「消費しないでください!」


 水瀬さんの顔がどんどん赤くなっていく。


『水瀬綾の心拍数、上昇。灰谷眠太の発汗量、増加』

「報告しなくていい」

「え、灰谷くん?」

「こっちの話です」

『あらぁ、青春ねぇ』

「黙っててくれ」


 篠崎さんはさらにビールを飲んだ。


「この際、素直になってしまえばいいのでは?」

「何にですか」

「お互いへの好意に」

「篠崎さん!?」


 水瀬さんが叫ぶ。

 店員さんが一瞬こちらを見た。


 やめてほしい。居酒屋で悪目立ちしたくない。俺はただ、唐揚げを静かに食べたいだけの男だ。


「灰谷さんは、水瀬さんをどう思っていますか?」

「同僚です」

「即答ですね」

「事実なので」

「水瀬さん、今の回答についてどう感じましたか?」

「どうって……!」


 水瀬さんが言葉に詰まる。

 俺も何か助け舟を出そうとしたが、何を言っても沈没しそうだった。


 篠崎さんは酔っているのに、質問だけは的確に急所を突いてくる。


 この人、酔わせたら駄目なタイプだな。


 水瀬さんは、しばらく俯いていた。

 そして、ゆっくりとジョッキを両手で持ち上げる。


「ちょ、水瀬さん?」


 止める間もなく、琥珀色の液体がみるみる減っていく。

 数秒後。

 水瀬さんは空になったジョッキを、ことん、とテーブルに置いた。


 頬が赤い。

 目が据わっている。


『警告。水瀬綾の感情出力、上昇傾向』


 やめてくれ。

 今日はもう、上昇という言葉を聞きたくない。


「篠崎さん」


 水瀬さんが、にっこり笑った。


「今度は、私が質問してもいいですか?」


 退院して、会社に戻って、水瀬さんも復帰した。

 それでも俺の平穏は、どうやら居酒屋の一杯目で終わったらしい。

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