第20話 退院初日から監査です
退院とは、病院から出ることであって、平穏に戻ることではないらしい。
それを俺は、身をもって学んだ。
「灰谷さん、本当に大丈夫ですか?」
退院手続きの前、看護師さんが心配そうに聞いてきた。
「はい。点滴のおかげで、だいぶ回復しました」
倒れた直後は、腹の中で胃袋が暴動を起こしているんじゃないかと思うくらい空腹だったが、点滴と食事のおかげで、どうにか普通に歩けるくらいには戻っていた。
『生体反応、安定。栄養状態も改善傾向です』
アナの淡々とした声が、頭の中に響く。
『でもぉ、無理はしちゃだめだよぉ。眠太くん、まだ完全回復じゃないからねぇ』
ヒーラの声はいつも通りおっとりしているが、内容は地味に怖い。
「完全回復じゃない人間を退院させて大丈夫なのか……?」
『社会復帰可能範囲と判断されます』
「その言い方、ブラック企業の人事評価みたいだからやめてくれ」
思わず小声で突っ込むと、看護師さんが首をかしげた。
「何か言いました?」
「いえ、何でもないです」
危ない。病院で独り言の多い患者として記録されるところだった。
退院手続きを済ませ、病院の外に出る。
冬の空気が頬に冷たかった。
昨日までの騒ぎが嘘のように、道には普通に人が歩き、車が走っている。
世界はちゃんと日常を続けているようだ。
それは少し冷たくもあり、ありがたくもあった。
ただし。
その日常の中に、俺の平穏が含まれているとは限らない。
翌朝。
俺はいつもより少し早めに家を出た。
体調が不安だったから、というのもある。
だが正直に言えば、人混みを避けたかった。
会社に向かう途中、何人かとすれ違う。
普通の通勤客。普通の学生。普通の近所の人。
そう思いたかった。
けれど、何となく視線を感じる。
俺の顔を見て、すぐにスマホへ目を落とす人。
俺の横を通り過ぎてから、小声で何かを話す人。
勘違いかもしれない。
自意識過剰かもしれない。
だが、自意識過剰になるだけの理由は、残念ながらある。
『周辺人物、灰谷眠太に対する注視率が通常より高い傾向にあります』
「やっぱりそうだよなぁ」
『目立ちたくないのぉ?』
「悪目立ちって言葉を知らないのか?」
俺はマフラーを少し上げ、顔の下半分を隠した。
今が冬でよかった。夏にマフラーなんか巻けないからな。
なるべく人目を避けながら会社に着いた。すでに少し疲れを感じてる。
『精神的疲労を確認。ヒーラによる軽度回復を提案します』
『治すぅ?』
「いや、いい。病み上がりのドーピングは怖いからな」
『妥当な判断です』
妥当な判断をしないと会社に行けない人生とは何なのか。
とはいえ、あとで森崎さんのコーヒーだけは買いに行きたいところだ。
そんなことを考えながら、会社のビルへ足を踏み入れる。
事務所の扉を開けた瞬間、少しだけ足が止まった。
机が並び、パソコンが起動し、書類が積まれている。
いつもの営業二課だ。
でも、いつもと違う。
俺が入ってきた瞬間、何人かの視線がこちらを向いた。
最初に立ち上がったのは、神代先輩だった。
「灰谷」
「あ、おはようございます」
反射的に頭を下げる。
「体は、もう大丈夫なのか」
「はい。点滴のおかげで、何とか」
「そうか」
神代先輩は一度目を伏せ、それから深く頭を下げた。
「悪かった」
「えっ」
思わず間抜けな声が出た。
神代先輩が、俺に頭を下げている。
その光景があまりにも予想外で、脳が処理を拒否した。
「昨日、俺はほとんど何もできなかった。感覚が乱されて、状況を把握するだけで精一杯だったとはいえ、お前に負担をかけた」
「いや、そんな、先輩が謝ることじゃないですよ」
「それでもだ。お前が倒れた時、かなり焦ったぞ」
「本当に大丈夫ですから。俺、倒れるのには慣れてませんけど、空腹には慣れてるので」
「そんなことに慣れるなよ」
ものすごく真っ当な注意をされた。
そこへ、低い声が割り込んでくる。
「灰谷」
鬼頭課長だった。
俺は反射的に背筋を伸ばす。
「はいっ」
怒鳴られる。
そう思った。
けれど鬼頭課長は、俺の前に立つと、いつものように眉間にしわを寄せたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「昨日は、その、すまなかったな」
世界が一瞬止まった。
いや、たぶん止まっていない。
ただ俺の脳だけが止まった。
「……はい?」
「管理職として、社員の安全管理ができていなかった。お前にも、水瀬にも、他の連中にも、負担をかけた。俺の責任だ」
鬼頭課長が謝っている。
あの鬼頭課長が。
普段、声量だけで会議室の空気を震わせる鬼頭課長が。
『鬼頭剛志の機嫌ポイント、判定不能』
「アナでも判定不能なのかよ……」
「何か言ったか」
「いえ、何でもありません」
慌てて首を振る。
鬼頭課長は顔を上げ、いつもの厳しい目で俺を見た。
「体調が戻っていないなら、今日は帰れ。出社したからには仕事をしてもらうが、倒れる前に言え」
「はい」
少しだけ、いつもの営業二課に戻った気がした。
自席へ向かうと、相沢先輩が心配そうにこちらを見ていた。
「灰谷くん、おかえりだね」
「ただいまです。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃないよ。無事でよかったね」
相沢先輩の足元では、まめ助がこちらを見上げていた。
膝丈くらいの、埴輪みたいな小人。
黒い点のような目が、じっと俺を見ている。
「まめ助も心配してたよ」
相沢先輩がそう言うと、まめ助は、よじよじと俺の机に這い上がる。
そして俺の机の上に置いてあった未整理の書類を、そっと端に寄せた。
「……それは心配というか、整理整頓ですね」
「まめ助なりのおかえりだね」
まめ助が、ふにゃっと笑ったように見えた。
その光景に、少しだけ肩の力が抜ける。
騒がしいし、変な職場だし、ブラック気味だし、スキルのせいで問題ばかり起きるけれど。
それでも、ここはいつもの営業二課だった。
俺は椅子に座り、パソコンの電源を入れる。
未読メールの数は見たくなかったが、見ないわけにもいかない。
「……まあ、仕事は溜まってるよな」
『未処理メール、通常比一七三パーセント』
俺はため息をつき、キーボードに手を置いた。
本当にいろいろあったな。
でも、今日からまた、いつもの仕事が始まる。
そう思った。
その瞬間だった。
「失礼します。こちらが営業二課ですね」
事務所の入口から、涼しげな声が聞こえた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、見覚えのある女性だった。
黒に近い落ち着いた髪。
整った顔立ち。
知的という言葉をそのまま人の形にしたような雰囲気。
テレビ画面越しに見た時よりも、ずっと存在感がある。
篠崎理央。
国際スキル研究チームに参加予定だと紹介されていた、あの鑑定・分析系スキルの専門家。
そして、宇宙人侵略仮説を全国放送でさらっと口にした人。
俺は無意識に椅子の背もたれへ体を引いた。
『警戒反応を確認』
「そりゃするだろ」
小声でつぶやいた俺を、篠崎理央はまっすぐ見た。
目が合う。
その瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「あなたが灰谷眠太さんですね」
「……はい」
「お会いできて光栄です」
「光栄?」
光栄と言われるようなことをした覚えはない。
俺はただ、倒れただけである。
篠崎は俺の机の前まで歩いてくると、鞄からタブレットを取り出した。
「昨日のチョコハザードにおいて、あなたは魅了スキルの影響下にありながら、一定の自律判断を維持していましたね」
「え、あ、まあ……たぶん」
「魅了の誘引効果に対して、どの段階で違和感を覚えましたか? 視覚刺激、発話内容、贈与行動、あるいは水瀬綾さん本人への認知変化。どれが最初ですか?」
「えっと」
「その時、身体症状は? 動悸、発汗、意識の浮遊感、判断力の低下、接近衝動。もしくは逆に、頭痛や空腹感の増大などの拒絶反応は?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「待ちます。では三秒後に続きを」
「短いな」
俺は助けを求めるように周囲を見た。
神代先輩は目をそらした。
相沢先輩は困ったように笑っている。
まめ助は俺の机の端を整えている。
誰も助けてくれない。
いや、一人いた。
「篠崎さん」
鬼頭課長が低い声を出した。
「うちの社員は退院したばかりです。事情聴取なら、会社を通して正式な手続きを踏んでいただきたい」
さすが課長。
こういう時だけは頼りになる。
俺は心の中で鬼頭課長に拍手を送った。
しかし、篠崎は鬼頭課長の方を見た瞬間、また目を輝かせた。
「鬼頭剛志さんですね。身体強化系。発現直後から筋出力と瞬発力に顕著な変化が出ているタイプですか?」
「……何?」
「怒鳴り声の音圧が通常より高いという記録がありますが、それは肺活量の強化によるものですか? それとも声帯周辺の筋制御精度の上昇ですか?」
「いや、俺はそういう話をしているんじゃない」
「握力は測定済みですか? 跳躍力は? 反射速度は? また、怒りや焦燥によって出力が変化する傾向はありますか?」
「待て。質問が多い」
「すみません。では優先順位をつけます。まず、怒鳴った時に机上の紙が揺れる現象は、スキル発現前からありましたか?」
「そんな現象はない!」
鬼頭課長の声で、近くの書類がわずかに揺れた。
篠崎がそれを見逃すはずがなかった。
「今、揺れました」
「揺れてない」
「揺れました」
「揺れてない!」
「二度目も揺れました」
鬼頭課長が言葉に詰まった。
あの鬼頭課長が、質問で押されている。
『鬼頭剛志、心理的圧迫状態。機嫌ポイント、四十二』
「下がってる……」
鬼頭課長はこめかみを押さえながら、俺の方を見た。
その目が言っていた。
灰谷、何とかしろ。
いや、無理です。
俺は目で返した。
その時、篠崎の視線が、ふっと横へ動いた。
相沢先輩の足元。
そこに立っている、まめ助へ。
空気が変わった。
篠崎理央の目が、これまでで一番輝いた。
「……これは」
彼女はゆっくりとしゃがみ込んだ。
まめ助が、こてんと首を傾げる。
「生活補助系スキルの外部具現化個体……?」
篠崎の声が、わずかに震えていた。
「相沢真帆さんですね」
「あ、はい。相沢です」
「この個体は、いつから発現しましたか? 自律行動の範囲は? 言語理解はどの程度? 作業優先順位の判断は誰の意思に基づきますか?」
「あ、えっと、一気に聞かれると困るね」
「すみません。興奮しています」
「正直だね」
篠崎はまめ助をじっと見つめたまま、タブレットに高速で何かを打ち込んでいる。
「生活補助系は、行動補正や効率化支援として発現する例が多いです。ですが、ここまで明確な形を持ち、周囲から視認可能で、物理的干渉まで行う個体は非常に珍しい。いえ、珍しいというより、貴重です。極めて貴重です」
まめ助は、篠崎の足元に落ちていた小さな紙くずを拾い、近くのゴミ箱へ入れた。
篠崎の呼吸が一瞬止まった。
「自律的な清掃行動……!」
「そこまで驚くことか?」
神代先輩がぼそりと言った。
「驚くべきことです!」
篠崎は即答した。
「皆さん、慣れすぎています。これは世界的に見ても、かなり特殊な事例です」
「いや、うちの職場、最近特殊なことが多すぎて……」
俺がそう言うと、篠崎は勢いよくこちらを向いた。
「そこです」
「どこですか」
「この職場には、身体強化、感覚強化、生活補助の外部具現化、魅了、そして魅了に対抗した灰谷さんがいる。これほど観察対象が密集している職場は、そうありません」
「観察対象って……」
「もちろん、倫理的配慮はします」
「配慮する人は、初対面で観察対象って言わないと思います」
篠崎は少しだけ考えた。
「では、協力者」
「まだ協力すると言ってません」
「では、将来的協力者」
「圧が強いなぁ」
朝の営業二課は、すでに仕事どころではなくなっていた。
篠崎は鬼頭課長に質問し、相沢先輩に質問し、まめ助の動きに感動し、神代先輩の感覚強化にも興味を示した。
鬼頭課長は正式な手続きだの業務時間だのと言っていたが、篠崎の質問の圧に押され、いつの間にか自分のスキル発現時の体調変化を説明していた。
相沢先輩は「まめ助、すごいって言われてるね」と少し嬉しそうだった。
まめ助は、その間も黙々と床のゴミを掃除してる。
騒がしい。
以前よりも、さらに騒がしい。
スキルに目覚めた朝から、俺の職場はずっと落ち着かなかった。
けれど今日は、その騒がしさの種類が少し違う。
篠崎の興奮と、謝罪の気まずさと、好奇心と、珍獣扱いと、まめ助の掃除音。
いろんなものが混ざって、営業二課の空気はすっかり変わってしまっていた。
その中で。
俺は、ふと気づく。
水瀬さんがいない。
昨日の事件の中心にいた彼女の席は、空いたままだった。
当然だ。
あれだけのことがあったのだから、すぐに出社できるわけがない。
事情聴取もあるだろうし、スキルの検査もあるだろうし、何より本人の精神状態だって心配だ。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥がざわついた。
彼女はどうしているんだろう。
ちゃんと眠れただろうか。
自分を責めていないだろうか。
昨日のことを、どこまで覚えているんだろう。
俺が倒れたことを、知っているんだろうか。
『灰谷眠太、心拍数上昇』
『不安かなぁ。大丈夫だよぉ、呼吸ゆっくりねぇ』
「……分かってる」
小さく息を吐く。
その様子に気づいたのか、篠崎がタブレットから顔を上げた。
「水瀬綾さんのことですか?」
俺は思わず肩を揺らした。
「え?」
「今、あなたは水瀬さんの席を見ていました」
「……見てましたか」
「見ていました」
篠崎は淡々と言った。
「水瀬さんなら、大丈夫です」
篠崎は言った。
その一言で、胸の奥のざわつきが少しだけ弱まった気がする。
「なぜそう言い切れるんですか?」
「少なくとも、身体的には問題ありません。魅了スキルの出力も、現在は安定しています。本人の精神面については継続的な観察が必要ですが、危険状態ではありません」
「そうなんですか」
俺は思わず息を吐いた。
どうやら篠崎は、水瀬が今どんな状況に置かれてるのか俺より詳しいらしい。
篠崎はタブレットを閉じる。
「私がこちらへ来た理由も、彼女に関係しています」
「水瀬さんの?」
「はい。水瀬綾さんの周辺人物の監査です」
監査。
その言葉に、空気が少し硬くなった。
鬼頭課長が眉をひそめる。
「周辺人物の監査とは、どういう意味ですか」
「水瀬さんの魅了スキルは、本人の意思と感情状態、周囲の期待、贈与行動、恋愛イベントの社会的圧力など、複数の要因で暴走したと考えられます。再発防止のためには、本人だけではなく、日常的に接する人物や職場環境も確認する必要があります」
篠崎の説明は淡々としていた。
けれど、その内容は重かった。
水瀬だけの問題ではない。
職場も、周囲も、俺たちも関係している。
そう言われているようだった。
「ただし」
篠崎は少しだけ表情を和らげた。
「現時点で、水瀬さんを長期的に隔離する必要はないと判断されています。近いうちに、彼女は日常生活へ戻る予定です」
「本当ですか?」
思わず聞き返していた。
「はい。ただし、しばらくは私の監視付きです」
「監視付き……」
「安全確認のためです」
篠崎はそう言って、にこりと笑った。
その笑顔は、テレビで見た時と同じように整っていた。
知的で、落ち着いていて、どこか頼もしい。
なのに、俺の胃は微妙に痛くなった。
水瀬が戻ってくる。
それはよかった。
本当によかった。
けれど。
水瀬が戻ってくる時、この篠崎理央も一緒についてくるらしい。
つまり、営業二課は今後さらに騒がしくなる。
俺の平穏は、また遠ざかりそうだ。
『胃粘膜に異常は確認できません』
「そういう問題じゃないんだよ」
『精神的負荷と推測されます。ヒーラによる回復を提案します』
『治すぅ?』
「いや……たぶん、治してもまたすぐ痛くなる気がする」
俺は水瀬の空席を見た。
そして、その隣でタブレットを開き直している篠崎理央を見た。
篠崎はすでに、まめ助の行動記録を取りながら、鬼頭課長へ追加の質問を投げている。
「鬼頭さん、先ほど怒鳴った際の音圧を再現していただけますか?」
「できるか!」
「では、通常業務中に自然発生した場合、測定します」
「するな!」
まめ助が、揺れた書類をそっと押さえた。
相沢先輩が「まめ助、えらいね」と笑う。
神代先輩は耳を押さえながら、深いため息をついている。
俺はパソコン画面に表示された未読メールの山を見た。
それから、もう一度、水瀬の席を見る。
水瀬は、近いうちに戻ってくる。
それは、よかった。
よかったはずなのに。
俺はなぜか、退院したばかりなのに、もう一度病院に戻りたくなっていた。




