第19話 白い天井と、三つ目の声
最初に聞こえたのは、声だった。
『生体反応、安定傾向。意識レベルの回復を確認』
淡々とした声。
『よかったぁ……眠太くん、目が覚めそうだよぉ』
いつもの声。
『あらぁ、思ったよりしぶといじゃなぁい。いいわよぉ、その根性。嫌いじゃないわぁ』
そして、知らない声。
「……誰だ、お前」
かすれた声が出た。
まぶたを開けると、白い天井が見えた。
会社でも、自宅でも、駅前広場でもない。
清潔で、金がかかっていそうな部屋の天井だった。
「……ここ、どこだ」
『病院です』
アナが即答した。
『現在、灰谷眠太は医療機関の病室内にいます。右腕に点滴。容体は安定傾向。ただし――』
「ただし?」
『極度の栄養失調状態です』
「……栄養失調」
『ごめんねぇ……ヒール、たくさん使わせちゃったからぁ……』
ヒーラの声が沈む。
いや、ヒーラのせいじゃない。
俺が使うように言ったんだから。
魅了でおかしくなった人たち。
水瀬さん。
人混み。
伸びてくる手。
頭の中を焼くような感情の波。
次々に断片的な記憶が戻ってくる。
そして最後に思い出したのは、自分の声だった。
――魅了されなくたって、君のこと見てるから!
「…………」
俺は無言で目を閉じた。
今ならもう一度、意識を失える気がした。
『再睡眠を希望しているものと推測』
「できれば永眠に近いやつで頼む」
『却下します』
『だめだよぉ、眠太くん。まだご飯食べてないんだからぁ』
『そうよぉ。せっかく命拾いしたんだから、もっと自分を大事にしなさぁい』
「だから誰なんだよ、お前は」
返事はなかった。
俺は顔だけを横に向けた。
ベッドが一つ。窓際に椅子。小さな棚。壁にはテレビ。
そして、妙に余裕のある空間。
個室だった。
「……個室?」
『はい』
「俺、そんな金ないぞ」
『第一声に近い懸念が入院費。社畜としての適応が見られます』
「死活問題なんだよ」
『費用負担者は不明です。医療機関側、警察、勤務先、または関係機関による判断の可能性があります』
「関係機関って何だ。怖い単語を混ぜるな」
『本件において灰谷眠太は重要参考人である可能性があります』
「何の?」
『集団魅了事件』
言葉にされると、思っていた以上に重かった。
「水瀬さんは……」
『現時点では不明です。外部情報へのアクセスが必要です』
『心配なら、確認した方がいいわよぉ。情報を見ないで悶々とするの、心に悪いんだからぁ』
「だからお前は誰なんだよ」
代わりに、俺の腹が鳴った。
『空腹状態です』
「知ってる。点滴じゃなくて白米が欲しい」
『医学的に推奨されません』
俺は左手を伸ばし、枕元のリモコンを探した。
指先が触れるだけで腕が重い。
体が鉛みたいだった。
いや、せいぜい月曜朝の出社前の体くらいだ。
そう考えると、慣れたもんか。
テレビの電源を入れる。
『続いては、昨日、都内のスクランブル交差点で発生した大規模な混乱についてです』
昼のニュース番組だった。
『バレンタインデー当日に発生したこの騒動は、精神・感情系スキルの暴走が原因とみられており、インターネット上では、通称“チョコハザード”とも呼ばれています』
「…………」
俺は無言でテレビを消そうとした。
『視聴継続を推奨します』
「推奨するな」
『情報収集は必要です』
「俺の精神衛生も必要だろ」
画面には、交差点の映像が流れていた。
人の群れ。警察官。救急車の赤い光。
映像で見ると、別の世界の出来事みたいだった。
『警察によりますと、現場では一時、数十人が特定の女性に向かって殺到する状態となり、複数名が軽傷を負いました。警察は、精神干渉系スキルの影響があった可能性が高いとみて、当時現場にいた女性から事情を聞いています』
画面に、ぼかしの入った映像が出た。
警察官に囲まれて、どこかへ誘導されている水瀬さんらしき人物。
ぼかされていても分かった。
「……取り調べ、受けてるのか」
『報道表現では“事情を聞いている”です』
「同じようなもんだろ」
『厳密には異なります』
「そういうもんか」
水瀬さんは自分のスキルを怖がっていた。
止めてほしいと言っていた。
それでも、暴走した。
そんな彼女もまた被害者だと思うけど。
世間一般はそう思わないかもしれないな。
『なお、警察は故意による犯行か、スキル暴走による事故かを慎重に調べており、専門機関とも連携して確認を進めています』
少しだけ息が抜けた。
『また、この騒動を止めようとした男性にも注目が集まっています』
「ん?」
嫌な予感がした。
『現場に居合わせた男性が、精神干渉の影響を受けずに女性へ呼びかける様子が撮影されており、SNS上で急速に拡散されています』
「マジか」
画面が切り替わる。
スマホで撮影されたらしい縦長の映像。揺れる画面。ざわめく人々。
そして、画面の端から大勢の男に連行されてくる、スーツ姿の男。
おそらく、俺だ。
次の瞬間、テレビの中の俺が叫んだ。
『魅了されなくたって、君のこと見てるから!』
病室の俺は、毛布をかぶった。
「消せ! アナ、消してくれ!」
『私はテレビのリモコン操作権限を有していません』
「まめ助が欲しいな」
『手動操作を推奨します』
毛布の中から左手だけを伸ばす。
けれど、リモコンに届かない。
その間にも、テレビは無慈悲に俺の人生を焼いていく。
『この動画には、“魅了無効ニキかっこよすぎる”“これもう告白だろ”といった反応が寄せられており――』
「やめろおおおおお!」
叫んだつもりだったが、声は弱々しかった。
社会的に死にかけているのに、肉体的にも声量が足りない。
『現在、SNSでは“魅了無効ニキ”という呼称が広がっており、他にも“チョコハザード唯一の生存者”“無効化告白マン”など――』
「勘弁してくれよ!」
『“○○されなくたって、君のこと見てるから”など、男性の発言をもじった投稿も相次いでいます』
「会社員で遊ぶな!」
俺はようやくリモコンを掴み、電源ボタンを押した。
テレビが消えた。
静寂が戻る。
それでも、俺の心に平穏は戻らなかった。
『心拍数上昇。顔面温度上昇。羞恥反応と推定』
「推定じゃなくて確定だよ」
『眠太くん、大丈夫ぅ?』
「大丈夫に見えるか」
『見えないわねぇ。でも、良いじゃなぁ~い。素敵だと思うわよぉ~』
「どこがだよ!」
『魅了されてないのに見てるって言ったんでしょう? なかなか言えないわよぉ。心がまっすぐじゃないと出てこない言葉よぉ』
「俺は必死だっただけだ!」
『必死な時に出る言葉ほど、本音って言うじゃなぁい』
「言わない。少なくとも俺は言わない」
『でも言ったわよぉ』
「過去を変える方法ってないのかな」
『過去改変は困難です』
「分かってる」
俺は毛布から顔だけ出して、天井を見た。
俺の社会的な未来も、燃え尽きて白い灰になったのかもしれない。
『でもぉ、悪い意味ばかりじゃないと思うわよぉ』
知らない声が、少しだけ柔らかくなった。
『あの子はたぶん、救われたわよぉ』
俺は口を閉じた。
『魅了の波ってねぇ、強くなればなるほど、自分でも自分の気持ちが分からなくなるのよぉ。好きなのか、好きにさせたいのか。渡したいのか、受け取らせたいのか。境目がぐちゃぐちゃになるの』
茶化してるってわけじゃないらしい。
『その中で、アンタの声は届いたのよぉ。魅了じゃなくても見てるって。スキルじゃなくても、ちゃんと見てるって』
「……」
『だから、恥ずかしいのは分かるけどぉ、なかったことにしなくていいんじゃないかしらぁ』
俺は毛布を鼻のあたりまで引き上げた。
「……お前、本当に誰なんだ」
『識別情報なし。精神・感情系スキルの新規覚醒に伴う変化と推測』
アナが答えた。
『昨日の高濃度精神干渉環境下において、休眠状態だったスキルが覚醒した可能性があります』
『つまり、新しいお友達だねぇ』
『お友達っていいわねぇ。アタシ、そういうの好きよぉ』
「俺の頭の中を交流会場にしないで欲しいな」
『精神干渉に対する異常な耐性が確認されています。新規能力によるものと推測』
魅了されなかった理由。
あの場で、自分だけが水瀬さんに向かっていけた理由。
アナの分析。
ヒーラの回復。
それだけでは、たぶん足りなかった。
この声がいたから。
こいつが、俺の中で何かを守っていたから。
「……お前が、助けてくれたのか?」
『さぁて、どうかしらねぇ。でも、アンタが飲まれないように、ちょっと背中を支えたくらいはしたかもしれないわぁ』
「そこは素直に言えよ」
『恩着せがましい女は嫌われるのよぉ』
「女なのか?」
『アタシはアタシよぉ。それでいいじゃない』
その言い方が妙に堂々としていて、俺は少しだけ笑いそうになった。
『命名を推奨します』
アナが言った。
「命名って、またか」
『識別効率向上のため、新規個体にも名称付与を推奨します』
『名前、いいねぇ。呼びやすい方が嬉しいなぁ』
『せっかくだから、素敵なのがいいわぁ。雑なのは傷ついちゃうかもぉ』
プレッシャーをかけてくるな。
魅了スキルを覚醒したことで聞こえるようになった声。
魅了耐性まで持ってるらしい。
声はオネエ口調。
柔らかくて、茶化してきて、妙に強い。
「……チャーム」
『魅了ですね』
「そのまますぎるか……チャーマ、とか」
少し間が空いた。
『……チャーマ』
「嫌なら別のにするけど」
『いいじゃなぁい』
声が、ふわりと笑った。
『すごくいいわぁ。可愛いし、強そうだし、ちょっと色っぽいじゃない。アタシ、気に入ったわよぉ』
『名称登録。新規個体を“チャーマ”として記録します』
『よろしくねぇ、チャーマちゃん』
『よろしくねぇ、アナちゃん、ヒーラちゃん。それから――』
声が、俺に向いた気がした。
『よろしくねぇ、眠太ちゃん。アンタの心、これからはアタシも守ってあげるわぁ』
「……ちゃん付けはやめろ」
『あら、照れてるのぉ?』
「違う」
『羞恥反応を確認』
「アナ」
『顔面温度上昇』
「アナ!」
『大丈夫よぉ。魅了無効ニキは、照れてても素敵だからぁ』
「その名前を頭の中で呼ぶな!」
また腹が鳴った。
恥ずかしさと空腹が同時に押し寄せてきて、自分が何に苦しんでいるのか分からない。
水瀬さんは今どうしているのか。会社はどうなっているのか。俺の動画はどこまで広がっているのか。個室料金は誰が払うのか。
考えることは山ほどあった。
だが、今の俺にできることは一つだけだった。
「……飯」
『医師の許可が必要です』
「じゃあ医師を呼べ」
『ナースコールの使用を推奨します』
俺は震える左手でナースコールを押した。
スピーカー越しに、看護師らしき声が返ってきた。
「どうされましたか?」
「すみません……何か食べたいです」
少し間が空いた。
「先生に確認しますね」
「お願いします……」
『まずはお粥からねぇ、魅了無効ニキ』
「……」
チャーマめ。俺の反応を見て楽しんでるな。
それにしても、新しいスキルの覚醒と共に聞こえるようになった声。
これじゃまるで、あの研究員が言っていたことが、本当みたいじゃないか。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだけれど、今の俺には、それ以上考える気力が残っていなかった。
「ダメだ。考える気力も残ってないや」
『休息を推奨します』
『眠太くん、寝てていいよぉ。ご飯が来たら起こしてあげるねぇ』
『そうねぇ。魅了無効ニキは、まず体力回復からよぉ』
「その名前で起こしたら、二度と信用しないからな」
三つの声が、頭の中で小さく笑った気がした。
病室の白い天井が、ぼんやりと滲んでいく。
俺は最後にもう一度だけ、水瀬さんの背中を思い出した。
そして、今度こそゆっくりと目を閉じた。




