表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第3章 甘い暴走、苦い査察

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/18

第18話 ずっと、君を見ていた

「魅了されなくたって、君のこと見てるから!」


 騒がしい駅前の雑踏を突き抜けて、その声が届いた。


 胸の奥を、強くつかまれたような気がした。


 顔が熱い。

 息が苦しい。

 鼓動がうるさい。


 目の前では、灰谷君が肩で息をしている。

 額には汗が浮かび、顔色は悪く、膝もかすかに震えている。


 それでも彼は、アタシから目を逸らさなかった。


 ――そうだ。


 この人は、ずっと前から、“私”を見ていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 大学を卒業して、社会人になったばかりのころ。

 私は、自分がブラック企業に就職してしまったのだと気づいて、絶望していた。


 朝早くに出社して、夜遅くまで働く。

 終わらない仕事。

 増え続けるメール。

 減らない書類。


 厳しい上司に急かされながら、誰もが黙々と自分の仕事だけをこなしていた。


 隣の席の人間が疲れていようが、昼食を取れていなかろうが、気にしている余裕なんて誰にもない。


 私だって同じだった。

 自分の仕事を終わらせるだけで精いっぱい。


 楽しみなんてなかった。


 生きる目的だって、いつの間にか分からなくなっていた。

 積み重なっていくのは疲労と、目の下のクマばかり。


 入社して間もないころには、もう転職したいと考えていた。

 けれど、転職活動をする時間なんてなかった。


 家に帰れば、シャワーを浴びるのがやっと。

 休日は昼過ぎまで眠り、溜まった洗濯物を片づけているうちに終わる。


 求人情報を開いても、文章を目で追うだけで内容が頭に入ってこない。


 そうして何もできないまま、時間だけが過ぎていった。


 いっそのこと、明日から会社に行くのをやめてしまおうか。

 連絡先を全部消して、誰にも何も言わずに逃げてしまおうか。


 そんなことを、本気で考え始めていたある日のことだった。


「水瀬さん。それ、俺が半分やりますよ」


 隣から聞こえてきた声に、私は顔を上げた。

 そこにいたのは、同期の灰谷眠太だった。


 ぼさぼさというほどではないけれど、特別整えているようにも見えない髪。

 疲れているのか眠いのか、いつも少しだけ下がっている目。

 服装も地味で、声も小さい。

 同期の中でも、正直あまり目立つ人ではなかった。


「え?」

「その入力作業です。今日中なんですよね?」

「そうだけど……灰谷君も仕事あるでしょ」

「まぁ、ありますけど。こっちは急ぎじゃないんで」


 そう言って、灰谷君は私が抱えていた書類の半分を持っていった。


 助かった。

 素直にそう思った。

 それと同時に、変わっているな、とも思った。


 自分の仕事だって楽ではないはずなのに、どうしてわざわざ他人の仕事を手伝うのだろう。


 結局、その日の仕事はいつもより一時間早く終わった。

 それでも十分に遅い時間だったけれど、久しぶりに日付が変わる前に家へ帰れた。


 灰谷君には、小さな感謝を抱いた。

 本当に、小さな感謝だった。


 翌朝になれば、忙しさに紛れて忘れてしまいそうな程度のもの。

 けれど、それをきっかけに、私は少しだけ灰谷君を見るようになった。


 そして、気づいたんだ。

 彼は私だけではなく、職場のいろいろな人を手伝っていた。


 コピー用紙が切れていれば、何も言わずに補充する。

 電話が重なっていれば、担当外でも一本だけ代わりに取る。

 誰かが探している資料を見つければ、自分の席へ戻るついでのような顔で届ける。

 共有スペースに置きっぱなしになった空き箱を、帰り際に畳んで捨てていることもあった。


 誰かから大げさに感謝されるほどではない。

 けれど、誰もやらなければ、みんなが少しずつ困る。


 灰谷君は、そんな仕事ばかりを拾っていた。

 周りの人たちも、そのことには気づいていたと思う。


「灰谷って、変なところでまめだよな」

「また他人の仕事やってるよ」


 そんなふうに言われていた。


 私も同じだった。

 変わっている人。

 物好きな人。


 自分の判断で負担を背負っているのなら、止めるのも変な話だ。

 灰谷眠太は、そういう人なのだ。


 私はそう納得した。


 いつか無理がたたって体を壊すか、嫌になってやめるんだろうな、とも思っていた。


 けれど、灰谷君はやめなかった。

 一年が過ぎても。

 二年が過ぎても。


 彼は相変わらず、小さな仕事を拾い続けていた。


 もちろん、灰谷君自身も変わっていった。


 最初から頼りなく見えていた目の下には、年々濃いクマができた。

 昼食を菓子パンだけで済ませている日も増えた。

 パソコンの前で目を閉じたまま、数秒動かなくなることもあった。


 それでも、誰かが困っていれば手を伸ばした。


 どうしてそこまでするのだろう。


 いつからか私は、灰谷君の考えていることに興味を持つようになっていた。


 その理由を聞く機会が訪れたのは、入社してから二年以上が過ぎたころだった。


 その日は仕事が立て込み、営業二課で最後まで残っていたのは私と灰谷君だけだった。

 時計の針は、もう二十四時を回っていた。


 パソコンのキーボードを叩く音と、空調の低い音だけが室内に響いていた。


「ねえ、灰谷君」

「はい?」

「前から聞きたかったんだけど」

「何ですか?」


 私は入力の手を止め、少し離れた席に座る灰谷君を見た。


「どうして、みんなの仕事を手伝ってるの?」


 灰谷君は、しばらくきょとんとしていた。

 まるで、自分がそんなことをしていると初めて知ったような顔だった。


「手伝ってますかね、俺」

「手伝ってるよ。かなり前から」

「そうですか?」

「自覚なかったの?」

「いや……まぁ、まったくないわけじゃないですけど」


 灰谷君は困ったように頬をかき、苦笑した。


「他の人がどんな仕事をしてるのか、知っておきたいんですよ。手伝いがてら、勉強してるというか」

「勉強?」

「自分の仕事だけやってても、できることって増えにくいじゃないですか」


 そんなことを考えていたのか。


 意外だった。

 灰谷君は、向上心に満ちあふれた人には見えなかった。


 出世したいとか、会社を引っ張りたいとか、そういう野心から最も遠い場所にいる人だと思っていた。


「意外と意識高いんだね」

「いや、そういう立派なものじゃないですよ」


 灰谷君は、自嘲するように笑った。


「少しでもできることを増やしておかないと、俺はこんな会社くらいでしか働けないからさ」


 冗談めかした口調だった。

 けれど、その言葉が本心なのだということは、なんとなく分かった。


 灰谷君は、自分を高く評価していない。


 周囲の人を助け続けているのに、それを優しさだとは思っていない。

 ただ、自分が生き残るために必要だからやっているだけだと、本気で考えている。


「でも、それなら私の仕事を手伝っても、勉強にならなくない?」

「え?」

「入社したばかりのころ。私の入力作業、半分やってくれたでしょ。あのころ、私だって新人だったんだし」

「ああ……」


 灰谷君は少し上を向いた。


「そんなこともありましたね」

「忘れてたの?」

「忘れてたというか……」


 灰谷君は私の顔を見て、ごく当たり前のことを話すように言った。


「だってあの時の水瀬さん、かなり無理してるように見えたから」


 胸の奥で、何かが音を立てた。


「……それだけ?」

「それ以外に何かあります?」


 本当に不思議そうに、灰谷君は首を傾げた。


 頑張っていた。

 誰も気にしていないと思っていた。

 辛くても、苦しくても、会社では平気な顔をしていた。


 自分さえ我慢すればいいと思っていた。


 それなのに、この人は見ていた。

 私が無理をしていたことに、気づいていた。


 誰かが自分を見てくれていたと知るだけで、救われることがあるのだと。

 たぶん、灰谷君は知らない。


「そっか」


 私はそれだけ答えて、パソコンへ向き直った。

 もう少し何か言いたかった。


 ありがとうとか。

 嬉しかったとか。


 けれど、口にすれば泣いてしまいそうで、言えなかった。

 だから、代わりに決めた。


 今度は、私が灰谷君のことを見ていよう。


 いつか本当に倒れてしまわないように。

 無理をしていたら、気づいてあげられるように。


 灰谷君が私を見てくれていたように、私も彼を気にかけていよう。


 そう思った。

 それなのに。


 ――結局また私は、灰谷君に助けられるんだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「へ?」


 間の抜けた声が聞こえた。


 意識が現在へ引き戻される。


 目の前では、灰谷君が呆けた顔で立っていた。

 自分で叫んだ言葉を、今になって理解したらしい。


 顔が赤い。

 口は半開き。

 そのうえ、ぐうううううう、と盛大に腹まで鳴っている。


 緊張感を全部壊してしまうような音だった。


 頼りない。

 格好もつかない。

 それなのに、どうしようもなく愛おしく見えた。


 “私”は灰谷君が好きだ。

 その気持ちは、今この瞬間に生まれたものではない。


 何年も前から、胸の奥に少しずつ積もってきた気持ちだ。


 灰谷君が私を見ていたように。

 私もずっと、灰谷君を見ていた。


 高鳴る鼓動に背中を押されるように、私は一歩踏み出した。


 もう一歩。

 灰谷君との距離が縮まる。


 触れたい。

 抱きしめたい。

 今すぐ、この人を自分のものにしたい。


 その衝動は、あまりにも強かった。

 強すぎた。


 灰谷君の表情が変わる。

 私が伸ばした腕を見て、彼は残った力を振り絞るように手を伸ばした。


 その手が、私の肩に触れる。


「水瀬さん、正気を取り戻してよ」


 灰谷君の手は、驚くほど冷たかった。


 触れられた肩から、冷たい水が染み込むような感覚が広がっていく。

 身体の中で荒れ狂っていた熱が、急速に引いていった。


 頭の中にかかっていた霧が晴れていく。

 甘く膨れ上がっていた衝動が、形を失って消えていく。


 視界が鮮明になる。


 駅前の大通り。

 倒れた看板。

 踏み荒らされた荷物。

 私たちを取り囲む、大勢の男性たち。


「……あれ?」

「俺、何してたんだ?」

「なんで駅前まで……」

「おい、押すなって……あれ?」


 怒声が、困惑の声へ変わっていく。

 さっきまで私だけを見つめていた無数の瞳が、ようやく周囲を見始めた。


 誰かが青ざめる。

 誰かが怯えた顔で私を見る。

 誰かが自分の手を見つめ、何が起きたのか分からないというように震えている。


 その光景を見て、私はようやく理解した。

 私がやったんだ。


 魅了スキルを抑えられなかった。

 たくさんの人を巻き込んだ。

 灰谷君まで、こんなところまで追い詰めた。


「私……」


 声が震えた。

 息ができない。

 胸が押し潰されそうだった。


 悔しい。

 怖い。

 申し訳ない。


 スキルを制御できなかった自分が、どうしようもなく情けなかった。


「よかった」


 灰谷君が、ほっと息を吐いた。


「元に戻ったみたいですね」


 そう呟いた直後。

 彼の身体が、ぐらりと傾いた。


「灰谷君?」


 返事はなかった。

 膝から力が抜け、そのまま地面へ倒れ込む。


「灰谷君!」


 慌てて抱き留めようとしたけれど、支えきれず、私は彼と一緒にその場へ膝をついた。


 顔色が悪い。

 唇にも血の気がなかった。


「ねえ、灰谷君。起きて。目を開けてよ!」


 肩を揺らしても反応しない。

 かすかに呼吸はしている。

 けれど、それだけだった。


 私を正気に戻すために。

 周りの人たちを助けるために。


 何度も何度も、ヒールを使ってくれたんだ。


 自分が動けなくなるまで。

 私のせいで。


 嬉しいなんて思ってはいけない。

 私のせいで、灰谷君は倒れたんだ。


 それなのに、自分を助けるためにここまでしてくれたという事実が、どうしようもなく胸を締めつけた。


「誰か、救急車を!」


 私は叫びながら、灰谷君の身体を抱き起こした。

 冷たい。

 いつも頼りなく見える身体が、今はひどく重かった。


「ごめんね……ごめんなさい、灰谷君」


 何度呼びかけても、返事はない。

 それでも私は、彼の名前を呼び続けた。


 やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


 救急隊員だけじゃなかった。

 複数の警察官が駆けつけ、周囲の男性たちから事情を聞き始めた。


 私のもとにも、二人の警察官が近づいてくる。


「あなたが水瀬綾さんですか」

「待ってください。今、灰谷君が――」

「救護は救急隊に任せてください。あなたには事情を聞く必要があります」

「でも!」


 灰谷君の身体が、私の腕から離れていく。

 救急隊員たちが彼を担架へ乗せる。


 代わりに、二人の警察官が私の両腕を取った。

 乱暴ではなかった。

 けれど、振りほどくこともできなかった。


「待ってください! 私も、灰谷君と一緒に行かせてください!」

「落ち着いてください」

「私のせいなんです! だから、せめて――」


 誰も答えてくれなかった。


 灰谷君を乗せた担架が、救急車の中へ運び込まれる。

 閉まりかけた扉の隙間から、彼の青白い顔が見えた。


「灰谷君!」


 扉が閉まる。

 赤い光を点滅させながら、救急車が走り出した。


 私はその場から一歩も動けず、遠ざかっていく赤い光を見つめ続けた。


 身体を焼いていた異様な熱は、もう消えていた。

 頭も、はっきりしている。


 それでも。


 灰谷君を好きだという気持ちは、少しも消えてくれなかった。


 警察署へ連れていかれる前に見た、最後の灰谷君の姿は――

 私を助けたせいで、救急車に運ばれていく姿だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ