第18話 ずっと、君を見ていた
「魅了されなくたって、君のこと見てるから!」
騒がしい駅前の雑踏を突き抜けて、その声が届いた。
胸の奥を、強くつかまれたような気がした。
顔が熱い。
息が苦しい。
鼓動がうるさい。
目の前では、灰谷君が肩で息をしている。
額には汗が浮かび、顔色は悪く、膝もかすかに震えている。
それでも彼は、アタシから目を逸らさなかった。
――そうだ。
この人は、ずっと前から、“私”を見ていた。
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大学を卒業して、社会人になったばかりのころ。
私は、自分がブラック企業に就職してしまったのだと気づいて、絶望していた。
朝早くに出社して、夜遅くまで働く。
終わらない仕事。
増え続けるメール。
減らない書類。
厳しい上司に急かされながら、誰もが黙々と自分の仕事だけをこなしていた。
隣の席の人間が疲れていようが、昼食を取れていなかろうが、気にしている余裕なんて誰にもない。
私だって同じだった。
自分の仕事を終わらせるだけで精いっぱい。
楽しみなんてなかった。
生きる目的だって、いつの間にか分からなくなっていた。
積み重なっていくのは疲労と、目の下のクマばかり。
入社して間もないころには、もう転職したいと考えていた。
けれど、転職活動をする時間なんてなかった。
家に帰れば、シャワーを浴びるのがやっと。
休日は昼過ぎまで眠り、溜まった洗濯物を片づけているうちに終わる。
求人情報を開いても、文章を目で追うだけで内容が頭に入ってこない。
そうして何もできないまま、時間だけが過ぎていった。
いっそのこと、明日から会社に行くのをやめてしまおうか。
連絡先を全部消して、誰にも何も言わずに逃げてしまおうか。
そんなことを、本気で考え始めていたある日のことだった。
「水瀬さん。それ、俺が半分やりますよ」
隣から聞こえてきた声に、私は顔を上げた。
そこにいたのは、同期の灰谷眠太だった。
ぼさぼさというほどではないけれど、特別整えているようにも見えない髪。
疲れているのか眠いのか、いつも少しだけ下がっている目。
服装も地味で、声も小さい。
同期の中でも、正直あまり目立つ人ではなかった。
「え?」
「その入力作業です。今日中なんですよね?」
「そうだけど……灰谷君も仕事あるでしょ」
「まぁ、ありますけど。こっちは急ぎじゃないんで」
そう言って、灰谷君は私が抱えていた書類の半分を持っていった。
助かった。
素直にそう思った。
それと同時に、変わっているな、とも思った。
自分の仕事だって楽ではないはずなのに、どうしてわざわざ他人の仕事を手伝うのだろう。
結局、その日の仕事はいつもより一時間早く終わった。
それでも十分に遅い時間だったけれど、久しぶりに日付が変わる前に家へ帰れた。
灰谷君には、小さな感謝を抱いた。
本当に、小さな感謝だった。
翌朝になれば、忙しさに紛れて忘れてしまいそうな程度のもの。
けれど、それをきっかけに、私は少しだけ灰谷君を見るようになった。
そして、気づいたんだ。
彼は私だけではなく、職場のいろいろな人を手伝っていた。
コピー用紙が切れていれば、何も言わずに補充する。
電話が重なっていれば、担当外でも一本だけ代わりに取る。
誰かが探している資料を見つければ、自分の席へ戻るついでのような顔で届ける。
共有スペースに置きっぱなしになった空き箱を、帰り際に畳んで捨てていることもあった。
誰かから大げさに感謝されるほどではない。
けれど、誰もやらなければ、みんなが少しずつ困る。
灰谷君は、そんな仕事ばかりを拾っていた。
周りの人たちも、そのことには気づいていたと思う。
「灰谷って、変なところでまめだよな」
「また他人の仕事やってるよ」
そんなふうに言われていた。
私も同じだった。
変わっている人。
物好きな人。
自分の判断で負担を背負っているのなら、止めるのも変な話だ。
灰谷眠太は、そういう人なのだ。
私はそう納得した。
いつか無理がたたって体を壊すか、嫌になってやめるんだろうな、とも思っていた。
けれど、灰谷君はやめなかった。
一年が過ぎても。
二年が過ぎても。
彼は相変わらず、小さな仕事を拾い続けていた。
もちろん、灰谷君自身も変わっていった。
最初から頼りなく見えていた目の下には、年々濃いクマができた。
昼食を菓子パンだけで済ませている日も増えた。
パソコンの前で目を閉じたまま、数秒動かなくなることもあった。
それでも、誰かが困っていれば手を伸ばした。
どうしてそこまでするのだろう。
いつからか私は、灰谷君の考えていることに興味を持つようになっていた。
その理由を聞く機会が訪れたのは、入社してから二年以上が過ぎたころだった。
その日は仕事が立て込み、営業二課で最後まで残っていたのは私と灰谷君だけだった。
時計の針は、もう二十四時を回っていた。
パソコンのキーボードを叩く音と、空調の低い音だけが室内に響いていた。
「ねえ、灰谷君」
「はい?」
「前から聞きたかったんだけど」
「何ですか?」
私は入力の手を止め、少し離れた席に座る灰谷君を見た。
「どうして、みんなの仕事を手伝ってるの?」
灰谷君は、しばらくきょとんとしていた。
まるで、自分がそんなことをしていると初めて知ったような顔だった。
「手伝ってますかね、俺」
「手伝ってるよ。かなり前から」
「そうですか?」
「自覚なかったの?」
「いや……まぁ、まったくないわけじゃないですけど」
灰谷君は困ったように頬をかき、苦笑した。
「他の人がどんな仕事をしてるのか、知っておきたいんですよ。手伝いがてら、勉強してるというか」
「勉強?」
「自分の仕事だけやってても、できることって増えにくいじゃないですか」
そんなことを考えていたのか。
意外だった。
灰谷君は、向上心に満ちあふれた人には見えなかった。
出世したいとか、会社を引っ張りたいとか、そういう野心から最も遠い場所にいる人だと思っていた。
「意外と意識高いんだね」
「いや、そういう立派なものじゃないですよ」
灰谷君は、自嘲するように笑った。
「少しでもできることを増やしておかないと、俺はこんな会社くらいでしか働けないからさ」
冗談めかした口調だった。
けれど、その言葉が本心なのだということは、なんとなく分かった。
灰谷君は、自分を高く評価していない。
周囲の人を助け続けているのに、それを優しさだとは思っていない。
ただ、自分が生き残るために必要だからやっているだけだと、本気で考えている。
「でも、それなら私の仕事を手伝っても、勉強にならなくない?」
「え?」
「入社したばかりのころ。私の入力作業、半分やってくれたでしょ。あのころ、私だって新人だったんだし」
「ああ……」
灰谷君は少し上を向いた。
「そんなこともありましたね」
「忘れてたの?」
「忘れてたというか……」
灰谷君は私の顔を見て、ごく当たり前のことを話すように言った。
「だってあの時の水瀬さん、かなり無理してるように見えたから」
胸の奥で、何かが音を立てた。
「……それだけ?」
「それ以外に何かあります?」
本当に不思議そうに、灰谷君は首を傾げた。
頑張っていた。
誰も気にしていないと思っていた。
辛くても、苦しくても、会社では平気な顔をしていた。
自分さえ我慢すればいいと思っていた。
それなのに、この人は見ていた。
私が無理をしていたことに、気づいていた。
誰かが自分を見てくれていたと知るだけで、救われることがあるのだと。
たぶん、灰谷君は知らない。
「そっか」
私はそれだけ答えて、パソコンへ向き直った。
もう少し何か言いたかった。
ありがとうとか。
嬉しかったとか。
けれど、口にすれば泣いてしまいそうで、言えなかった。
だから、代わりに決めた。
今度は、私が灰谷君のことを見ていよう。
いつか本当に倒れてしまわないように。
無理をしていたら、気づいてあげられるように。
灰谷君が私を見てくれていたように、私も彼を気にかけていよう。
そう思った。
それなのに。
――結局また私は、灰谷君に助けられるんだ。
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「へ?」
間の抜けた声が聞こえた。
意識が現在へ引き戻される。
目の前では、灰谷君が呆けた顔で立っていた。
自分で叫んだ言葉を、今になって理解したらしい。
顔が赤い。
口は半開き。
そのうえ、ぐうううううう、と盛大に腹まで鳴っている。
緊張感を全部壊してしまうような音だった。
頼りない。
格好もつかない。
それなのに、どうしようもなく愛おしく見えた。
“私”は灰谷君が好きだ。
その気持ちは、今この瞬間に生まれたものではない。
何年も前から、胸の奥に少しずつ積もってきた気持ちだ。
灰谷君が私を見ていたように。
私もずっと、灰谷君を見ていた。
高鳴る鼓動に背中を押されるように、私は一歩踏み出した。
もう一歩。
灰谷君との距離が縮まる。
触れたい。
抱きしめたい。
今すぐ、この人を自分のものにしたい。
その衝動は、あまりにも強かった。
強すぎた。
灰谷君の表情が変わる。
私が伸ばした腕を見て、彼は残った力を振り絞るように手を伸ばした。
その手が、私の肩に触れる。
「水瀬さん、正気を取り戻してよ」
灰谷君の手は、驚くほど冷たかった。
触れられた肩から、冷たい水が染み込むような感覚が広がっていく。
身体の中で荒れ狂っていた熱が、急速に引いていった。
頭の中にかかっていた霧が晴れていく。
甘く膨れ上がっていた衝動が、形を失って消えていく。
視界が鮮明になる。
駅前の大通り。
倒れた看板。
踏み荒らされた荷物。
私たちを取り囲む、大勢の男性たち。
「……あれ?」
「俺、何してたんだ?」
「なんで駅前まで……」
「おい、押すなって……あれ?」
怒声が、困惑の声へ変わっていく。
さっきまで私だけを見つめていた無数の瞳が、ようやく周囲を見始めた。
誰かが青ざめる。
誰かが怯えた顔で私を見る。
誰かが自分の手を見つめ、何が起きたのか分からないというように震えている。
その光景を見て、私はようやく理解した。
私がやったんだ。
魅了スキルを抑えられなかった。
たくさんの人を巻き込んだ。
灰谷君まで、こんなところまで追い詰めた。
「私……」
声が震えた。
息ができない。
胸が押し潰されそうだった。
悔しい。
怖い。
申し訳ない。
スキルを制御できなかった自分が、どうしようもなく情けなかった。
「よかった」
灰谷君が、ほっと息を吐いた。
「元に戻ったみたいですね」
そう呟いた直後。
彼の身体が、ぐらりと傾いた。
「灰谷君?」
返事はなかった。
膝から力が抜け、そのまま地面へ倒れ込む。
「灰谷君!」
慌てて抱き留めようとしたけれど、支えきれず、私は彼と一緒にその場へ膝をついた。
顔色が悪い。
唇にも血の気がなかった。
「ねえ、灰谷君。起きて。目を開けてよ!」
肩を揺らしても反応しない。
かすかに呼吸はしている。
けれど、それだけだった。
私を正気に戻すために。
周りの人たちを助けるために。
何度も何度も、ヒールを使ってくれたんだ。
自分が動けなくなるまで。
私のせいで。
嬉しいなんて思ってはいけない。
私のせいで、灰谷君は倒れたんだ。
それなのに、自分を助けるためにここまでしてくれたという事実が、どうしようもなく胸を締めつけた。
「誰か、救急車を!」
私は叫びながら、灰谷君の身体を抱き起こした。
冷たい。
いつも頼りなく見える身体が、今はひどく重かった。
「ごめんね……ごめんなさい、灰谷君」
何度呼びかけても、返事はない。
それでも私は、彼の名前を呼び続けた。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
救急隊員だけじゃなかった。
複数の警察官が駆けつけ、周囲の男性たちから事情を聞き始めた。
私のもとにも、二人の警察官が近づいてくる。
「あなたが水瀬綾さんですか」
「待ってください。今、灰谷君が――」
「救護は救急隊に任せてください。あなたには事情を聞く必要があります」
「でも!」
灰谷君の身体が、私の腕から離れていく。
救急隊員たちが彼を担架へ乗せる。
代わりに、二人の警察官が私の両腕を取った。
乱暴ではなかった。
けれど、振りほどくこともできなかった。
「待ってください! 私も、灰谷君と一緒に行かせてください!」
「落ち着いてください」
「私のせいなんです! だから、せめて――」
誰も答えてくれなかった。
灰谷君を乗せた担架が、救急車の中へ運び込まれる。
閉まりかけた扉の隙間から、彼の青白い顔が見えた。
「灰谷君!」
扉が閉まる。
赤い光を点滅させながら、救急車が走り出した。
私はその場から一歩も動けず、遠ざかっていく赤い光を見つめ続けた。
身体を焼いていた異様な熱は、もう消えていた。
頭も、はっきりしている。
それでも。
灰谷君を好きだという気持ちは、少しも消えてくれなかった。
警察署へ連れていかれる前に見た、最後の灰谷君の姿は――
私を助けたせいで、救急車に運ばれていく姿だった。




