第17話 魅了されなくたって、君を見てる
逃げ切れるとは、最初から思っていなかった。
だからといって、ここまであっさり捕まるとも思っていなかった。
「いたぞ! 灰谷だ!」
「待て、灰谷!」
「逃がすな!」
背後から響く複数の怒声。
振り返る余裕なんてない。
俺は人混みをかき分けながら、駅前の大通りを必死に走っていた。
普段なら、五十メートルも走れば横腹が痛くなって足を止めているところだ。
だが今は、そんなことを言っている場合じゃない。
捕まれば、水瀬さんのところへ連れていかれる。
電話越しに聞いた、あの声。
俺に会いたいと言いながら、周囲の男たちに俺を連れてくるよう命じていた水瀬さん。
どう考えても、まともな状態じゃなかった。
『後方から複数名が接近中。先頭の対象との距離、急速に縮小しています』
「分かってる! それより、逃げ道を教えてくれ!」
俺の背後から聞こえてくる足音は、もはや足音というより地響きだった。
それもそのはずだ。
追手の中には、移動速度向上や身体強化といった、明らかに走ることに向いているスキルの持ち主が何人も混ざっている。
対する俺は、鑑定と治癒。
どちらも、逃走には一切向いていない。
そこへ、聞き慣れた怒鳴り声が飛んできた。
「灰谷ぃ! 止まれぇ!」
「止まれと言われて止まる人間がどこにいるんですか!」
「上司命令だぞ! 止まれぇ!」
「それはズルいですよ!」
叫び返した直後だった。
背後から、とんでもない勢いで何かが迫ってきた。
『鬼頭剛志。身体強化スキル出力上昇』
「それをもっと早く――」
言い終わる前に、両腕を後ろからまとめて捕まれた。
「ぐえっ!」
勢いのまま身体が浮き、足が地面から離れる。
どうやら俺は今、鬼頭課長に羽交い締めにされた状態で持ち上げられているらしい。
「捕まえたぞ!」
「離してください! というか、締まってます! 首が締まってます!」
「水瀬を悲しませるな!」
鬼頭課長が、今まで聞いたこともないほど真剣な声で言った。
どうして俺が怒られているんだ。
いや、普段から怒られてはいるけど、今日のこれは明らかに種類が違う。
「課長、水瀬さんに魅了されてますよ!」
「黙れ! 水瀬があれほどお前に会いたがっているんだぞ! 男なら正面から話を聞いてやれ!」
「男女の問題じゃないんですよ!」
「言い訳するな!」
「魅了されてる人に正論っぽく説教されるの、すごく腹が立つな!」
俺が暴れても、鬼頭課長の腕はびくともしなかった。
そのまま他の追手たちに囲まれ、俺は駅前のスクランブル交差点へと連行されていった。
近づくにつれ、周囲の騒ぎが大きくなっていく。
クラクション。
怒鳴り声。
悲鳴。
スマートフォンを向けながら実況する野次馬たちの声。
さらに頭上からは、ばらばらと空気を叩くような音まで聞こえてきた。
空を見上げると、報道ヘリらしき機体が旋回している。
「……何だよ、これ」
交差点は、完全に機能を停止していた。
車道には何台もの車が止まり、その周囲を大勢の人間が埋め尽くしている。
警察官らしき制服姿も見えたが、交通整理をしている様子はない。むしろ何人かは、群衆と一緒になって交差点の中央を見つめていた。
どうやらその中心に、水瀬さんがいた。
大勢の男たちに囲まれ、口々に声をかけられている。
「綾さん、喉は渇いてない?」
「こっちの日陰に移動したほうがいいよ」
「灰谷はもうすぐ来るからね」
「心配しなくて大丈夫だよ」
分かりやすい取り巻きたちだな。
おそらく、水瀬さんが俺を探しながら街中を歩いているうちに、魅了された人間が集まりすぎて身動きが取れなくなったってところだろう。
彼女を守ろうとする男たちが周囲を囲み、さらにその外側へ野次馬が集まり、結果として交差点そのものが封鎖されている。
都市機能を停止させるほどの魅了。
そう考えると恐ろしいが、交差点の中央に立つ水瀬さんは、そんな事態など気にも留めていないようだった。
視線は、こちらだけに向いている。
俺の姿を見つけると、水瀬さんは周囲の男たちを押しのけるようにして歩いてきた。
「連れてきたぞ、水瀬!」
鬼頭課長が俺を地面へ下ろした。
ただし、腕は離してくれない。
水瀬さんは俺の前で足を止めた。
少し怒っているような、拗ねているような表情だった。
「どうして電話、切ったの?」
「いや、それは……」
「アタシ、まだ話してたよね?」
「そうだけど、周りの人たちに俺を連れてこいって言ってたから」
「だって、来てくれないと思ったから」
水瀬さんは、何が問題なのか分からないという顔で首をかしげた。
「アタシが会いたいって言ってるのに、どうして逃げるの?」
「それは……今の水瀬さんが、いつもと違うからだよ」
「違わないよ」
「違う」
言い切ると、水瀬さんの眉がわずかに下がった。
「アタシを無視しないでよ」
その声は、思っていたよりも弱かった。
「アタシはずっと、あなたのことを見てるんだから。あなたもアタシのことを見てよ」
「見てるよ」
「嘘」
即座に否定され、言葉に詰まる。
俺は確かに水瀬さんを見ている。
けれど、水瀬さんの望んでいる答えが何なのかは分からない。
そんな俺の困惑が顔に出ていたのだろう。
水瀬さんは少し寂しそうに目を伏せ、深いため息をこぼした。
「やっぱり、分かってもらうためには、こうするしかないのね」
「こうするって――」
水瀬さんが一歩近づく。
次の瞬間、両頬に柔らかな手が触れた。
逃げようとしたが、後ろから鬼頭課長に押さえられている。
水瀬さんの顔が、吐息を感じるほど近づいてくる。
「アタシを見て」
視線が重なる。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
『警告。強力な精神干渉を検出』
水瀬さんの瞳から、目が離せない。
周囲の音が遠ざかる。
クラクションも、群衆のざわめきも、頭上を飛ぶヘリの音も消えていく。
世界に、水瀬さんしかいなくなる。
「アタシを見て」
その声が、頭の内側から響いてくる。
水瀬さんを見なくちゃ。
水瀬さんの言うことを聞かなくちゃ。
水瀬さんが望むことを、すべて叶えなくちゃ。
『精神抵抗が急速に低下しています』
「アタシのこと、好きになって」
好きになる。
好きにならなきゃ。
だって、俺は水瀬さんと約束したから。
――そうだ。
約束した。
給湯室で、不安そうに笑っていた水瀬さん。
『もし私が変になったら、止めてね』
……止めなくちゃ。
今、目の前にいる水瀬さんを。
本当の水瀬さんに頼まれたんだ。
「ヒーラ……頼む」
『うん。精神回復、かけるね』
頭の中を、柔らかな光が通り抜けた。
水瀬さんしか見えなくなっていた世界に、音と色が戻ってくる。
同時に、胃がきゅうっと縮んだ。
「俺はちゃんと水瀬さんを見てるよ!」
俺は、目の前の水瀬さんに向かって叫んだ。
「だから止めたいんだ! 正気を取り戻してよ、水瀬さん!」
「……え?」
水瀬さんの目が大きく見開かれた。
明らかに動揺している。
だが、それも一瞬だった。
「アタシを見て!」
『再度、精神干渉を検出』
また視界が狭くなる。
今度はさっきよりも強い。
足元がふらつき、思考が甘く溶けていく。
「ヒーラ!」
『もう一回、かけるね』
柔らかな光。
精神を覆っていた何かが引き剥がされる。
同時に、胃が大きく鳴った。
周囲の男たちが、ぎょっとした顔で俺を見る。
恥ずかしい。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
「どうして……?」
水瀬さんの声が震えた。
「どうして効かないの?」
「効いてるよ。そのたびに治してるんだ」
「だったら、治さなければいいじゃない!」
「それじゃ止められないだろ!」
「アタシを見て!」
『精神干渉を検出』
「ヒーラ!」
『眠太くん、身体のエネルギーが……』
「まだだ。頼む!」
『……うん』
三度目の光が頭を通り抜ける。
膝から力が抜けた。
鬼頭課長に押さえられていなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。
『エネルギー残量が危険域に接近しています』
アナの警告が響く。
喉が渇く。
手が震える。
視界の端が、少しずつ暗くなっていた。
甘い匂いがする。
周囲を見れば、魅了された男たちが水瀬さんへ渡そうと持ってきたらしいチョコレートが、あちこちに積まれていた。
今なら、道路に落ちているチョコでも食えそうだ。
なんなら、包み紙くらいなら一緒に食えるかもしれない。
「アタシを見てよ!」
再び、水瀬さんの声が響く。
『精神干渉――』
「ヒーラ!」
『眠太くん、これ以上は身体がもたないよぉ』
「それでも、やってくれ!」
『でも……』
「約束したんだ」
俺がそう言うと、ヒーラは一瞬黙った。
『……分かった。これで、最後にしてね』
光が広がる。
頭を支配しようとしていた水瀬さんの声が薄れていく。
代わりに、猛烈な空腹が身体中を駆け巡った。
胃が痛い。
頭がくらくらする。
今すぐ何かを食べなければ、そのまま倒れそうだ。
それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。
俺は、水瀬さんを見る。
怒っているような。
泣きそうな。
自分でもどうしていいのか分からないような顔をしている水瀬さんを。
「何で……」
水瀬さんの唇が震える。
「何で、何度やってもアタシを選んでくれないの?」
「選んでないわけじゃない」
「だったら魅了されてよ!」
「それは違うでしょ!」
「違わない!」
水瀬さんが、とうとう声を荒らげた。
「アタシが見てって言ってるの! アタシを好きになってって言ってるの! なのに、どうして何度も拒絶するのよ!」
「拒絶してない!」
「嘘よ!」
「嘘じゃない!」
「だったら――」
水瀬さんの瞳が、再び妖しく揺らめいた。
「いいかげん魅了されなさいよ!」
その言葉に、俺の口は反射的に動いていた。
「魅了されなくたって、君のこと見てるから!」
一瞬、すべての音が消えた。
水瀬さんが、息を止める。
鬼頭課長も、周囲の男たちも、騒いでいた野次馬たちも、誰一人として声を発しなかった。
俺自身も、自分が何を叫んだのか理解するまで数秒かかった。
今、俺は何と言った?
君って言った?
水瀬さんに?
どうしてこの状況で、そんな告白みたいな言葉が出てくるんだ。
やめてくれ。
頼むから、誰か今すぐヘリの音をもっと大きくしてくれ。
そんな俺の願いを無視して、頭の中にアナの声が響いた。
『レベルアップしました』
「……は?」
『分析を完了しました。精神・感情系スキルに関する情報が規定値に到達しました』
アナの声は、いつもどおり淡々としている。
『レベルアップ及び分析結果の蓄積により、新たなスキルを入手しました』
「ちょっと待て」
何を言っている。
新たなスキル?
鑑定か治癒のスキルに、何か変化でも起きたのか?
俺がそう考えた次の瞬間、頭の奥で何かが目覚めた。
アナともヒーラとも違う。
聞いたことのない声が、妙に楽しそうな調子で響く。
『魅了スキル、発動したわよぉ』
「……は?」
オネエ口調の新しい声。
混乱しながら顔を上げると、すぐ目の前で、水瀬さんが俺を見つめていた。
頬を赤く染め、瞳を潤ませながら、まっすぐに。
「灰谷くん……」
「……へ?」




