第16話 上司からの告白はお断り
ついに、その日がやって来た。
二月十四日。
世間では、好きな相手に想いを伝えたり、日頃の感謝をチョコに込めたりする、甘くて華やかな一日。
そして俺にとっては、精神・感情系スキルを持つ同期が何かやらかすかもしれない、警戒レベル最高の危険日である。
「……胃が痛い」
『胃粘膜に異常は確認できません』
アナの冷静な診断が、頭の中に響く。
「そういう意味じゃないんだよ」
『精神的な緊張が原因と推測されます。ヒーラによる治療を提案します』
『治せるけど、お腹空いちゃうよぉ?』
「朝飯を食べたばかりだから却下」
ただでさえ落ち着かないのに、出社前から空腹になってたまるか。
俺は会社の入っているビルを見上げ、大きく息を吸った。
今日、水瀬さんは会社に来るのだろうか。
もしかしたら、有休を取ってやり過ごすつもりかもしれない。
普通に考えれば、それで解決だよな。
うちの会社で有休を取れれば、だけど。
『もし私が変になったら、止めてね』
そう言ってた彼女のスキルは魅了。
しかも、本人の意思とは関係なく発動することがある。
そして今日は、バレンタイン。
好意だの感謝だの恋愛感情だのが、そこら中で飛び交う日だ。
嫌な予感しかしない。
「よし。何かあったら逃げよう」
『具体的な対策が逃走のみという点に、若干の不安を覚えます』
「会社員が上司に勝てると思うなよ」
『鬼頭剛志の身体能力を考慮すれば、逃走の成功率も低いと思われます』
「朝から現実を突きつけないでくれる?」
俺は重い足取りで自動ドアをくぐった。
エレベーターに乗り、営業二課のある階へ向かう。
扉が開いた瞬間、チョコの甘い香りと共に男たちが倒れている――なんて光景を想像していたのだが。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう、後輩君」
営業二課は、いつもと変わらなかった。
神代先輩はパソコンに向かい、相沢先輩は机の上を整理している。その足元では、まめ助が小さな布巾を持ってデスクの脚を磨いていた。
鬼頭課長は朝から険しい顔で書類を眺めている。
床に倒れている人間はいない。
ハート型の光が飛び交っているわけでもない。
「……平和だ」
思わず本音が漏れた。
「何言ってるのかな、灰谷君」
相沢先輩が首をかしげる。
「いえ。何でもありません」
俺は自分の席に座り、鞄を机の下へ置いた。
拍子抜けすると同時に、身体から少しだけ力が抜ける。
どうやら、俺が心配しすぎていただけらしい。
考えてみれば、魅了スキルがバレンタインだからといって暴走するなんて、何の根拠もない。昨夜からずっと警戒していた自分が馬鹿みたいだ。
安心してパソコンの電源を入れたところで、ふと水瀬さんの席に目を向けた。
誰もいない。
「……水瀬さん、まだ来てないのか」
壁の時計を見る。
始業時刻までは、まだ十分ほどある。
水瀬さんは営業職だ。出社前に取引先へ向かうこともあるし、この程度なら珍しいことではない。
そう自分に言い聞かせながらも、緩みかけた警戒心が再び引き締まる。
『心拍数の上昇を確認しました』
「報告しなくていい」
『水瀬綾の不在が原因ですか?』
「たぶん」
普段なら、彼女が来るまで気にすることもない。
だが、今日はバレンタイン当日だ。
水瀬さんが大量のチョコを買い込んでいたことも知っている。
何事もなく終わると安心するには、まだ早かったらしい。
それから五分が過ぎた。
水瀬さんは来ない。
始業一分前になっても、隣の席は空いたまま。
そして、始業時刻を知らせるチャイムが鳴った。
その音が鳴り終わっても、彼女が姿を見せることはなかった。
「水瀬はどうした!」
案の定、鬼頭課長の怒声が飛んだ。
営業二課の空気が、一瞬で張り詰める。
「連絡は来てないのか!」
「私は聞いていないですね」
相沢先輩が答える。
「僕のところにも何もないですね」
神代先輩も首を横に振った。
鬼頭課長は舌打ちし、机の上に置いていたスマホをつかんだ。
「遅刻なら言語道断だ! 社会人としての自覚が足りん! 体調不良だろうが何だろうが、始業前に連絡するのが常識だろう!」
正論ではある。
正論ではあるのだが、朝から大声で聞かされると胃に悪い。
それでも鬼頭課長は、電話をかける直前に小さく呟いた。
「……まあ、安否確認は必要だな」
怒鳴りながらも、連絡がないこと自体は心配しているらしい。
その姿を見て、少しだけ鬼頭課長を見直しかけた。
怖いものは怖いけど。
鬼頭課長は水瀬さんへ電話をかけた。
呼び出し音が鳴っている間、俺は仕事をするふりをしながら耳を澄ませる。
水瀬さんが遅刻するなんて、普通じゃない。
寝坊ならいい。
体調不良でも、まだいいだろう。
魅了スキルが暴走し、家の周りに男たちが集結している――なんてことになっていないといいのだが。
「……水瀬か!」
電話がつながったらしい。
俺は密かに息を吐いた。
とりあえず、電話に出られる状態ではある。
神代先輩と相沢先輩も、わずかに表情を緩めていた。
「今、何時だと思っている! 連絡もなしに遅刻とはどういうつもりだ!」
鬼頭課長の怒声が、室内に響き渡る。
「事情があるなら、まず説明しろ! 社会人として――」
そこで。
鬼頭課長の声が、突然止まった。
「……?」
俺は顔を上げる。
鬼頭課長はスマホを耳に当てたまま、黙り込んでいる。
怒りで赤くなっていた顔から険しさが消え、目がぼんやりと宙を見つめていた。
「課長?」
相沢先輩が呼びかける。
反応はない。
鬼頭課長は、電話の向こうから聞こえてくる声に耳を傾け続けている。
やがて、短く答えた。
「……わかりました」
口調が違う。
いつもの鬼頭課長なら、たとえ社長が相手でも「わかりました!」と腹の底から叫びそうなものだ。
それなのに今の声は、妙に穏やかだった。
鬼頭課長は通話を切り、ゆっくりとスマホを机へ置いた。
そして立ち上がる。
「……灰谷」
「はい?」
鬼頭課長が、俺を見た。
なぜか分からないが、背中に冷たいものが走った。
『警告!』
アナの鋭い声が、頭の中に響き渡る。
『現在、鬼頭剛志は重度の魅了状態に陥っている模様! 危険です!』
「なんで課長が!?」
俺は椅子を蹴るようにして立ち上がった。
直後、鬼頭課長が床を蹴った。
机と机の間を、巨体が一直線に突っ込んでくる。
「うおおおっ!?」
身体強化スキルによる踏み込み。
鬼頭課長の丸太みたいな腕が、俺の胸元へ伸びた。
俺は反射的に身体をのけぞらせる。
指先がワイシャツをかすめた。
「待て、灰谷!」
「いやいやいや、待ってと言いたいのは俺の方ですよ!」
俺は椅子につまずき、そのまま床へ転がった。
情けなく悲鳴を上げながら、机の下へ潜り込む。
鬼頭課長の腕が机を押しのけた。
重いはずの事務机が、段ボール箱みたいに横へずれる。
「ひいいっ!」
「逃げるな!」
「逃げますよ! むしろ逃げない理由を教えてください!」
俺は四つん這いになって机の下を抜けた。
その背後で、バキッと嫌な音が鳴る。
振り返る余裕はない。
おそらく鬼頭課長が、机の角か何かを握り潰した音だ。
「灰谷!」
鬼頭課長の叫びが、背中に突き刺さる。
「俺にはお前が必要なんだ!」
「それ、何の告白ですかぁ!」
バレンタイン当日に、顔を真っ赤にした上司から必要だと叫ばれる。
こんなイベント、誰が望んだんだよ!
少なくとも俺じゃないぞ!
俺は営業二課の出口へ向かって走った。
「灰谷君、こっち!」
相沢先輩が通路を空けてくれる。
まめ助まで俺の足元で両手を振り、逃げる方向を示していた。
「ありがとうございます!」
そのとき、ズボンのポケットでスマホが震えた。
走りながら取り出し、画面を見る。
表示されていた名前に、心臓が跳ねる。
水瀬綾。
「水瀬さん!?」
『通話に出ることは推奨できません』
「そんなこと言ってる場合か!」
『非常に危険です』
分かっている。
分かっているが、このまま何も知らず逃げ続けるわけにもいかない。
俺は通話ボタンを押した。
「もしもし、水瀬さん!? 今、どこに――」
『魅了スキルの発動を検知!』
アナの警告と、水瀬さんの声が重なった。
『眠太くん』
耳元から聞こえた声は、いつもの水瀬さんより甘かった。
柔らかく、優しく、頭の奥へ直接染み込んでくる。
『アタシのところに、来てくれるよね?』
「あ……」
足が止まりかける。
行かないと。
水瀬さんが呼んでいる。
何をしているのか分からないけど、きっと困っている。同期として助けに行くのは当然だ。
今すぐ居場所を聞いて、迎えに――。
『だ、だめぇ!』
頭の中で、ヒーラが叫んだ。
次の瞬間、胸の奥から温かいものが広がった。
霞がかかっていた思考が、急速に晴れていく。
同時に、腹の底から猛烈な空腹が押し寄せた。
「腹減ったぁ!」
『精神状態を正常化しましたぁ!』
『魅了効果の低下を確認! ただちに通話を終了してください!』
「水瀬さん、ごめん!」
『えっ、ちょっと、眠太く――』
俺は通話を切った。
危なかった。
あと数秒聞いていたら、自分から水瀬さんのところへ向かっていたかもしれない。
ヒーラがいなければ完全に手遅れだった。
もっとも、精神を回復した代償で、今すぐ弁当三つくらい食べられそうな状態になっているが。
「灰谷!」
背後から鬼頭課長の声が聞こえた。
振り返り、俺は絶句する。
追いかけてきているのは鬼頭課長だけではなかった。
神代先輩がいる。
別の部署の男性社員もいる。
廊下の向こうから、掃除用具を持った男性清掃員まで走ってくる。
「何で増えてるんですか!?」
「灰谷の足音がする!」
神代先輩が、苦しそうな顔で叫ぶ。
「お前が必要なんだ!」
「神代先輩までぇ! なに言ってんですか!」
「本命だ!」
そんなこと聞いてない!!
神代先輩の手にもスマホが握られている。
おそらく水瀬さんから電話がかかってきたのだろう。
もしかして彼女は、電話に出た相手を魅了して、俺を連れてこいと命令しているのか?
どうやら水瀬さんの魅了スキルは、電話越しでも発動するらしい。
「上司に命令できるの、ちょっと羨ましいな!」
『感心している場合ではありません』
「分かってるよ!」
俺は非常階段の扉を開け、転がるように階段を駆け下りた。
エレベーターを使えば先回りされる。
かといって、階段でも鬼頭課長の身体強化には勝てない。
上の階から、ドンドンドンと床を踏み鳴らす音が迫ってくる。
怪獣映画なら、そろそろ建物が倒壊する頃だ。
「会社を壊さないでくださいよ、課長!」
「待て、灰谷!」
「待ったら捕まえるでしょう!」
「安心しろ! お前が必要なだけだ!」
「何ひとつ安心できない!」
一階へたどり着いた俺は、受付前を全力で駆け抜けた。
受付の女性たちが驚いた顔でこちらを見る。
「灰谷さん!?」
「ちょっと道をあけてください!」
説明してる時間はない。
自動ドアを抜け、会社の外へ飛び出す。
冷たい冬の空気が、熱くなった顔を冷やした。
「よし、人混みに紛れれば――」
そこで、俺は足を止めた。
街を歩いていた男性たちのスマホが、一斉に鳴り始めたからだ。
会社員。
配達員。
大学生らしい若者。
信号待ちをしていた年配の男性。
近くにいた何人もの男たちが、不思議そうな顔でスマホを取り出す。
「知らない番号だ」
「誰だろう」
そして、次々に電話へ出た。
「もしもし?」
男たちの表情から、困惑が消えていく。
頬が赤くなり、目がぼんやりと潤む。
通話を終えた彼らが、ゆっくりと顔を上げた。
全員の視線が、一斉に俺へ向けられる。
「……嘘だろ」
『水瀬綾は魅了した対象に、連絡先へ電話をかけさせているものと推測されます。感染ではなく、魅了による人海戦術です』
「人海戦術って言い方やめて! 会社の業務みたいに聞こえるから!」
『訂正します。魅了された協力者による連絡網です』
「もっと組織的になった!」
背後の自動ドアが開いた。
鬼頭課長を先頭に、男性社員たちが会社から飛び出してくる。
正面では、電話を受けた男たちが俺を包囲するように動き始めていた。
右も男。
左も男。
後ろには身体強化された上司。
前方では、宅配便のトラックから降りてきた屈強な配達員が、無言で腕まくりをしている。
「何でバレンタインに、男たちから追いかけられなきゃならないんだよ!」
『逃走経路を検索します』
「早くしてくれ!」
『右前方の路地へ進んでください。包囲が完成するまで、残り推定十二秒』
「ギリギリじゃん!」
俺はアナの指示した路地へ向かって走り出した。
空腹で足に力が入らない。
背後から無数の足音が迫ってくる。
朝の街に、俺の情けない叫び声が響き渡った。
「水瀬さん! もうちょっと手加減してぇ!」




