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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第3章 甘い暴走、苦い査察

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第16話 上司からの告白はお断り

 ついに、その日がやって来た。


 二月十四日。


 世間では、好きな相手に想いを伝えたり、日頃の感謝をチョコに込めたりする、甘くて華やかな一日。


 そして俺にとっては、精神・感情系スキルを持つ同期が何かやらかすかもしれない、警戒レベル最高の危険日である。


「……胃が痛い」

『胃粘膜に異常は確認できません』


 アナの冷静な診断が、頭の中に響く。


「そういう意味じゃないんだよ」

『精神的な緊張が原因と推測されます。ヒーラによる治療を提案します』

『治せるけど、お腹空いちゃうよぉ?』

「朝飯を食べたばかりだから却下」


 ただでさえ落ち着かないのに、出社前から空腹になってたまるか。

 俺は会社の入っているビルを見上げ、大きく息を吸った。


 今日、水瀬さんは会社に来るのだろうか。

 もしかしたら、有休を取ってやり過ごすつもりかもしれない。

 普通に考えれば、それで解決だよな。


 うちの会社で有休を取れれば、だけど。


『もし私が変になったら、止めてね』

 そう言ってた彼女のスキルは魅了。

 しかも、本人の意思とは関係なく発動することがある。


 そして今日は、バレンタイン。

 好意だの感謝だの恋愛感情だのが、そこら中で飛び交う日だ。


 嫌な予感しかしない。


「よし。何かあったら逃げよう」

『具体的な対策が逃走のみという点に、若干の不安を覚えます』

「会社員が上司に勝てると思うなよ」

『鬼頭剛志の身体能力を考慮すれば、逃走の成功率も低いと思われます』

「朝から現実を突きつけないでくれる?」


 俺は重い足取りで自動ドアをくぐった。

 エレベーターに乗り、営業二課のある階へ向かう。


 扉が開いた瞬間、チョコの甘い香りと共に男たちが倒れている――なんて光景を想像していたのだが。


「おはようございます」

「おはよう」

「おはよう、後輩君」


 営業二課は、いつもと変わらなかった。


 神代先輩はパソコンに向かい、相沢先輩は机の上を整理している。その足元では、まめ助が小さな布巾を持ってデスクの脚を磨いていた。


 鬼頭課長は朝から険しい顔で書類を眺めている。


 床に倒れている人間はいない。


 ハート型の光が飛び交っているわけでもない。


「……平和だ」


 思わず本音が漏れた。


「何言ってるのかな、灰谷君」


 相沢先輩が首をかしげる。


「いえ。何でもありません」


 俺は自分の席に座り、鞄を机の下へ置いた。

 拍子抜けすると同時に、身体から少しだけ力が抜ける。


 どうやら、俺が心配しすぎていただけらしい。


 考えてみれば、魅了スキルがバレンタインだからといって暴走するなんて、何の根拠もない。昨夜からずっと警戒していた自分が馬鹿みたいだ。


 安心してパソコンの電源を入れたところで、ふと水瀬さんの席に目を向けた。

 誰もいない。


「……水瀬さん、まだ来てないのか」


 壁の時計を見る。

 始業時刻までは、まだ十分ほどある。


 水瀬さんは営業職だ。出社前に取引先へ向かうこともあるし、この程度なら珍しいことではない。


 そう自分に言い聞かせながらも、緩みかけた警戒心が再び引き締まる。


『心拍数の上昇を確認しました』

「報告しなくていい」

『水瀬綾の不在が原因ですか?』

「たぶん」


 普段なら、彼女が来るまで気にすることもない。

 だが、今日はバレンタイン当日だ。


 水瀬さんが大量のチョコを買い込んでいたことも知っている。

 何事もなく終わると安心するには、まだ早かったらしい。


 それから五分が過ぎた。

 水瀬さんは来ない。

 始業一分前になっても、隣の席は空いたまま。

 そして、始業時刻を知らせるチャイムが鳴った。


 その音が鳴り終わっても、彼女が姿を見せることはなかった。


「水瀬はどうした!」


 案の定、鬼頭課長の怒声が飛んだ。

 営業二課の空気が、一瞬で張り詰める。


「連絡は来てないのか!」

「私は聞いていないですね」


 相沢先輩が答える。


「僕のところにも何もないですね」


 神代先輩も首を横に振った。

 鬼頭課長は舌打ちし、机の上に置いていたスマホをつかんだ。


「遅刻なら言語道断だ! 社会人としての自覚が足りん! 体調不良だろうが何だろうが、始業前に連絡するのが常識だろう!」


 正論ではある。

 正論ではあるのだが、朝から大声で聞かされると胃に悪い。


 それでも鬼頭課長は、電話をかける直前に小さく呟いた。


「……まあ、安否確認は必要だな」


 怒鳴りながらも、連絡がないこと自体は心配しているらしい。

 その姿を見て、少しだけ鬼頭課長を見直しかけた。


 怖いものは怖いけど。


 鬼頭課長は水瀬さんへ電話をかけた。

 呼び出し音が鳴っている間、俺は仕事をするふりをしながら耳を澄ませる。


 水瀬さんが遅刻するなんて、普通じゃない。


 寝坊ならいい。

 体調不良でも、まだいいだろう。


 魅了スキルが暴走し、家の周りに男たちが集結している――なんてことになっていないといいのだが。


「……水瀬か!」


 電話がつながったらしい。

 俺は密かに息を吐いた。


 とりあえず、電話に出られる状態ではある。

 神代先輩と相沢先輩も、わずかに表情を緩めていた。


「今、何時だと思っている! 連絡もなしに遅刻とはどういうつもりだ!」


 鬼頭課長の怒声が、室内に響き渡る。


「事情があるなら、まず説明しろ! 社会人として――」


 そこで。

 鬼頭課長の声が、突然止まった。


「……?」


 俺は顔を上げる。

 鬼頭課長はスマホを耳に当てたまま、黙り込んでいる。


 怒りで赤くなっていた顔から険しさが消え、目がぼんやりと宙を見つめていた。


「課長?」


 相沢先輩が呼びかける。

 反応はない。


 鬼頭課長は、電話の向こうから聞こえてくる声に耳を傾け続けている。


 やがて、短く答えた。


「……わかりました」


 口調が違う。


 いつもの鬼頭課長なら、たとえ社長が相手でも「わかりました!」と腹の底から叫びそうなものだ。


 それなのに今の声は、妙に穏やかだった。

 鬼頭課長は通話を切り、ゆっくりとスマホを机へ置いた。


 そして立ち上がる。


「……灰谷」


「はい?」


 鬼頭課長が、俺を見た。

 なぜか分からないが、背中に冷たいものが走った。


『警告!』


 アナの鋭い声が、頭の中に響き渡る。


『現在、鬼頭剛志は重度の魅了状態に陥っている模様! 危険です!』

「なんで課長が!?」


 俺は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 直後、鬼頭課長が床を蹴った。


 机と机の間を、巨体が一直線に突っ込んでくる。


「うおおおっ!?」


 身体強化スキルによる踏み込み。

 鬼頭課長の丸太みたいな腕が、俺の胸元へ伸びた。


 俺は反射的に身体をのけぞらせる。

 指先がワイシャツをかすめた。


「待て、灰谷!」

「いやいやいや、待ってと言いたいのは俺の方ですよ!」


 俺は椅子につまずき、そのまま床へ転がった。

 情けなく悲鳴を上げながら、机の下へ潜り込む。


 鬼頭課長の腕が机を押しのけた。


 重いはずの事務机が、段ボール箱みたいに横へずれる。


「ひいいっ!」

「逃げるな!」

「逃げますよ! むしろ逃げない理由を教えてください!」


 俺は四つん這いになって机の下を抜けた。

 その背後で、バキッと嫌な音が鳴る。


 振り返る余裕はない。

 おそらく鬼頭課長が、机の角か何かを握り潰した音だ。


「灰谷!」


 鬼頭課長の叫びが、背中に突き刺さる。


「俺にはお前が必要なんだ!」

「それ、何の告白ですかぁ!」


 バレンタイン当日に、顔を真っ赤にした上司から必要だと叫ばれる。


 こんなイベント、誰が望んだんだよ!

 少なくとも俺じゃないぞ!


 俺は営業二課の出口へ向かって走った。


「灰谷君、こっち!」


 相沢先輩が通路を空けてくれる。

 まめ助まで俺の足元で両手を振り、逃げる方向を示していた。


「ありがとうございます!」


 そのとき、ズボンのポケットでスマホが震えた。

 走りながら取り出し、画面を見る。


 表示されていた名前に、心臓が跳ねる。

 水瀬綾。


「水瀬さん!?」

『通話に出ることは推奨できません』

「そんなこと言ってる場合か!」

『非常に危険です』


 分かっている。

 分かっているが、このまま何も知らず逃げ続けるわけにもいかない。


 俺は通話ボタンを押した。


「もしもし、水瀬さん!? 今、どこに――」

『魅了スキルの発動を検知!』


 アナの警告と、水瀬さんの声が重なった。


『眠太くん』


 耳元から聞こえた声は、いつもの水瀬さんより甘かった。

 柔らかく、優しく、頭の奥へ直接染み込んでくる。


『アタシのところに、来てくれるよね?』

「あ……」


 足が止まりかける。

 行かないと。

 水瀬さんが呼んでいる。


 何をしているのか分からないけど、きっと困っている。同期として助けに行くのは当然だ。


 今すぐ居場所を聞いて、迎えに――。


『だ、だめぇ!』


 頭の中で、ヒーラが叫んだ。

 次の瞬間、胸の奥から温かいものが広がった。


 霞がかかっていた思考が、急速に晴れていく。

 同時に、腹の底から猛烈な空腹が押し寄せた。


「腹減ったぁ!」

『精神状態を正常化しましたぁ!』

『魅了効果の低下を確認! ただちに通話を終了してください!』

「水瀬さん、ごめん!」

『えっ、ちょっと、眠太く――』


 俺は通話を切った。


 危なかった。

 あと数秒聞いていたら、自分から水瀬さんのところへ向かっていたかもしれない。


 ヒーラがいなければ完全に手遅れだった。


 もっとも、精神を回復した代償で、今すぐ弁当三つくらい食べられそうな状態になっているが。


「灰谷!」


 背後から鬼頭課長の声が聞こえた。

 振り返り、俺は絶句する。


 追いかけてきているのは鬼頭課長だけではなかった。

 神代先輩がいる。

 別の部署の男性社員もいる。

 廊下の向こうから、掃除用具を持った男性清掃員まで走ってくる。


「何で増えてるんですか!?」

「灰谷の足音がする!」


 神代先輩が、苦しそうな顔で叫ぶ。


「お前が必要なんだ!」

「神代先輩までぇ! なに言ってんですか!」

「本命だ!」


 そんなこと聞いてない!!


 神代先輩の手にもスマホが握られている。

 おそらく水瀬さんから電話がかかってきたのだろう。


 もしかして彼女は、電話に出た相手を魅了して、俺を連れてこいと命令しているのか?

 どうやら水瀬さんの魅了スキルは、電話越しでも発動するらしい。


「上司に命令できるの、ちょっと羨ましいな!」

『感心している場合ではありません』

「分かってるよ!」


 俺は非常階段の扉を開け、転がるように階段を駆け下りた。


 エレベーターを使えば先回りされる。

 かといって、階段でも鬼頭課長の身体強化には勝てない。


 上の階から、ドンドンドンと床を踏み鳴らす音が迫ってくる。

 怪獣映画なら、そろそろ建物が倒壊する頃だ。


「会社を壊さないでくださいよ、課長!」

「待て、灰谷!」

「待ったら捕まえるでしょう!」

「安心しろ! お前が必要なだけだ!」

「何ひとつ安心できない!」


 一階へたどり着いた俺は、受付前を全力で駆け抜けた。

 受付の女性たちが驚いた顔でこちらを見る。


「灰谷さん!?」

「ちょっと道をあけてください!」


 説明してる時間はない。


 自動ドアを抜け、会社の外へ飛び出す。

 冷たい冬の空気が、熱くなった顔を冷やした。


「よし、人混みに紛れれば――」


 そこで、俺は足を止めた。


 街を歩いていた男性たちのスマホが、一斉に鳴り始めたからだ。


 会社員。

 配達員。

 大学生らしい若者。

 信号待ちをしていた年配の男性。


 近くにいた何人もの男たちが、不思議そうな顔でスマホを取り出す。


「知らない番号だ」

「誰だろう」


 そして、次々に電話へ出た。


「もしもし?」


 男たちの表情から、困惑が消えていく。

 頬が赤くなり、目がぼんやりと潤む。

 通話を終えた彼らが、ゆっくりと顔を上げた。


 全員の視線が、一斉に俺へ向けられる。


「……嘘だろ」

『水瀬綾は魅了した対象に、連絡先へ電話をかけさせているものと推測されます。感染ではなく、魅了による人海戦術です』

「人海戦術って言い方やめて! 会社の業務みたいに聞こえるから!」

『訂正します。魅了された協力者による連絡網です』

「もっと組織的になった!」


 背後の自動ドアが開いた。

 鬼頭課長を先頭に、男性社員たちが会社から飛び出してくる。


 正面では、電話を受けた男たちが俺を包囲するように動き始めていた。


 右も男。

 左も男。

 後ろには身体強化された上司。

 前方では、宅配便のトラックから降りてきた屈強な配達員が、無言で腕まくりをしている。


「何でバレンタインに、男たちから追いかけられなきゃならないんだよ!」

『逃走経路を検索します』

「早くしてくれ!」

『右前方の路地へ進んでください。包囲が完成するまで、残り推定十二秒』

「ギリギリじゃん!」


 俺はアナの指示した路地へ向かって走り出した。

 空腹で足に力が入らない。


 背後から無数の足音が迫ってくる。

 朝の街に、俺の情けない叫び声が響き渡った。


「水瀬さん! もうちょっと手加減してぇ!」

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