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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第3章 甘い暴走、苦い査察

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第15話 二月十四日は、まだ来ていない

 社内に、甘い気配が増えてきた。

 いや、気配というか、もうほとんど侵略だ。


 給湯室の棚には、誰かが持ち込んだらしい個包装のチョコが置かれている。

 休憩スペースでは、女性社員たちが「今年どうする?」とか「部署ごとにまとめる?」とか、どこか作戦会議めいた会話をしている。

 昼休みにコンビニへ行けば、入口正面が茶色とピンクと赤に占拠されていた。


 バレンタイン。


 世間的には甘酸っぱいイベントらしいが、社畜にとってはだいたい義理と気遣いと出費のイベントである。


 少なくとも俺はそう思っている。


「会社にまで季節イベントを持ち込まないでほしい……」


 俺は自席でパソコンを立ち上げながら、小さくぼやいた。

 最近の営業二課は、ただでさえ落ち着かない。


 スキルに目覚めた社会。

 感覚強化で仕事の精度が跳ね上がった神代先輩。

 生活補助系スキルが小人として具現化した相沢先輩。

 そして、俺の頭の中で普通に喋ってくるアナとヒーラ。


 冷静に考えると、職場環境としてはだいぶ終わっている。


 そんなことを考えていると、営業二課の入口から、聞き慣れた声がした。


「おはようございます」


 水瀬さんだった。


 いつも通りの声。

 いつも通りの笑顔。

 いつも通り、少し明るすぎるくらいの挨拶。


 なのに、その瞬間、周囲の空気がわずかに変わった。


「お、おはよう、水瀬さん」

「おはようございます」

「今日も寒いですね」


 近くにいた男性社員たちが、妙に柔らかい声で返事をする。


 別に、おかしなことを言っているわけじゃない。

 水瀬さんも普通に挨拶しただけだ。

 俺だって、彼女が人当たりのいいタイプだということくらい知っている。


 でも、何かが引っかかった。


 声の高さ。

 返事までの間。

 視線の残り方。


 水瀬さんが自分の席へ向かうと、数人の視線が、ほんの少し遅れて彼女を追った。


 ……なんだ、今の。


 俺が眉をひそめていると、彼女が自分のデスクの前で足を止めた。

 手に持っていたペンが、ころん、と床に落ちる。


「あっ」


 水瀬さんが屈もうとした、その瞬間だった。


「拾います」

「水瀬さん、俺が」


 近くにいた男性社員二人が、ほぼ同時に動いた。


 二人とも、距離的には微妙に遠い。

 普通なら、わざわざそんなところから拾いに行くわけがない。

 それなのに、二人は机の角にぶつかりそうになりながら、慌ててペンへ手を伸ばした。


「あ、ありがとうございます」


 水瀬さんが困ったように笑う。

 その笑顔を見た二人の顔が、ぱっと明るくなった。


 ……いや、待て。

 今のは、さすがに変じゃないか。


 彼女はペンを受け取ると、軽く頭を下げた。

 けれど、席に座る前に、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。


 その顔を見て、俺の中の違和感が確信に変わる。


 水瀬さんも、気づいている。

 俺は周囲に気づかれないよう、心の中で呼びかけた。


 ――アナ。水瀬さんを見てくれ。


『了解しました』


 頭の奥で、淡々とした声が返ってくる。

 次の瞬間、視界の端に文字が浮かんだ。


 対象:水瀬綾

 状態:魅了スキル出力、微弱上昇中

 備考:周辺感情の影響を受けています

 注意:誘引効果が発生し始めています


 誘引効果?

 俺は思わず、その表示から目を逸らしそうになった。


 ――誘引って何だよ。虫取り用のライトかよ。


『対象への注意誘導、接近衝動、好意錯覚に近い反応です』


 ――説明されても困るやつだな。


『補足。現在は軽度です』


 軽度でこれか。


 俺はもう一度、水瀬さんのほうを見る。

 彼女は自席でパソコンを起動している。

 表情はいつも通りに戻っていた。


 でも、肩に力が入っている。


『周囲の恋愛感情、期待、羞恥、贈与行動への意識が、魅了スキルに干渉している可能性があります』


 ――つまり?


『バレンタインは危険度の高いイベントです』


 俺は思わず、机に額をぶつけそうになった。


 バレンタイン。

 魅了スキルにとっての地雷イベント。

 なるほど、嫌すぎる納得である。


「灰谷くん」


 その時、水瀬さんが俺の席までやって来た。

 俺は慌てて顔を上げる。


「はい。仕事の話なら、できれば軽めでお願いします」

「うん。軽めにしたいんだけど、たぶん軽くないんだよね」


 彼女は苦笑した。


 いつもの調子に見える。

 でも、目元が少しだけ疲れていた。


「ちょっと、いい?」

「ここでいいですか?」

「できれば、給湯室のほうがいいかな。あんまり、人がいるところだと……」


 水瀬さんはそこまで言って、言葉を濁した。


 俺はうなずいて立ち上がる。


 幸い、鬼頭課長は朝から外出予定の確認に追われている。

 神代先輩は資料を見ながら、蛍光灯の音に小さく眉を寄せている。

 相沢先輩は自分のデスクで、なぜか小さな弁当箱をじっと見つめていた。

 たぶん、まめ助が何かしたんだろう。


 俺たちは、給湯室の端に移動した。


 給湯室には、バレンタイン用なのか、誰かが置いていったチョコの袋があった。

 よりによって、ここにもあるのか。


 水瀬さんはそれを見て、少しだけ表情を硬くした。


「最近さ」

「はい」

「なんか、変なんだよね」


 水瀬さんは自分の指先を見つめながら言った。


「前から、魅了スキルのことは怖かったよ。そのつもりがなくても、相手に変な影響が出るかもしれないって思ってたから」

「それは、前にも言ってましたね」

「うん。でも最近は、ちょっと違う」


 小さく息を吐く水瀬さん。


「見られるのが怖いのに、見られると安心する時があるの」


 俺は返事に迷った。


 茶化せる話じゃない。

 かといって、重々しく受け止めすぎると、彼女の不安を余計に大きくしそうだ。


「それは……スキルの影響っぽいですね」

「だよね」


 水瀬さんは、困ったように笑った。


「誰かに話しかけられると、逃げたいって思うのに、もう少し話してもいいかなって思う瞬間がある。相手が勝手に近づいてきてるのか、私が近づかせてるのか、分からない」

「水瀬さん自身は、どうしたいんですか?」

「分からない」


 即答だった。

 彼女はそれに自分で驚いたように、唇を押さえた。


「……ごめん。今の、変だよね」

「いえ。分からない時に分からないって言えるのは、普通に大事だと思います」

「灰谷くん、たまにちゃんとしたこと言うよね」

「たまに限定ですか」

「普段はだいたい、疲れた会社員みたいなこと言ってるから」

「実際、疲れた会社員なんですよ」


 水瀬さんが少し笑った。

 その笑顔に、俺は少し安心する。


 安心した、その瞬間だった。


「ねえ、灰谷くん」


 彼女の声が、少しだけ変わった。


 甘い、というほど露骨ではない。

 でも、普段より近い。

 耳元に残るような声だった。


「灰谷くんって、私からチョコもらったら嬉しい?」


 心臓が、一度だけ強く跳ねた。

 嬉しい。


 そう答えなければいけない気がした。

 いや、違う。

 答えたい、と思った。


 水瀬さんからチョコをもらえるなら、それは普通に嬉しいんじゃないか。

 同期だし。

 相談にも乗っているし。

 たぶん、信頼されているし。

 そういう意味で、受け取るのは自然だ。


 自然だ。


 本当に?


『警告。軽度精神干渉を検知』


 アナの声が、頭の中に響いた。

 その一言で、思考に入っていた甘い膜が、少しだけ破れた。


 ――ヒーラ。


『はい。心を整えますねぇ』


 おっとりとした声がした直後、頭の奥に温かいものが広がった。

 熱っぽく揺れていた意識が、ゆっくりと元の位置に戻される。


 水瀬さんを見る。


 きれいだとは思う。

 心配だとも思う。

 でも、さっきみたいに、答えを強制されるような感覚は薄れていた。


 同時に、腹が鳴った。


 ぐう、と。

 かなりはっきり。


 給湯室に、微妙な沈黙が落ちる。


「……灰谷くん?」

「すみません。今、精神的な危機と空腹が同時に来ました」

「何それ」


 水瀬さんが一瞬だけ呆れた顔をする。

 でも、すぐにその顔が青ざめた。


「待って。今の、もしかして」

「はい。たぶん、ちょっと影響を受けました」

「……私のせい?」

「水瀬さんのせいというより、スキルのせいですね」

「でも、私が言ったんだよね」


 彼女は自分の口元に手を当てた。


「灰谷くんって、私からチョコもらったら嬉しい、って」

「口からは出てました」

「中身が私だったか、自信ない」


 その言葉は、冗談ではなかった。

 俺は黙ってアナに確認する。


 ――今の俺の状態は?


『状態:軽度精神干渉。影響:注意誘導、好意錯覚、接近衝動。対処:精神回復により軽減済み。備考:再発の可能性あり』


 やっぱり、ただの会話じゃなかったらしい。


 俺は給湯室の棚に置かれたチョコの袋を見た。

 何の変哲もない市販のチョコ。

 けれど今は、妙に不穏な物体に見える。


 バレンタイン。

 チョコ。

 恋愛感情。

 期待。

 水瀬さんの魅了スキル。


 嫌な材料が、ひとつの鍋に全部放り込まれている。


『予測。二月十四日、魅了スキル出力が大幅に上昇する可能性があります』


 アナが言った。


 ――理由は?


『恋愛感情の集中。贈与行動。期待値の上昇。対象者本人の心理的不安定』


 ――つまり、感情がスキルに影響を与えるかもしれないってことか。


『概ね、その認識で問題ありません』


 問題しかない。

 俺が内心で頭を抱えていると、水瀬さんが小さく言った。


「灰谷くん」

「はい」

「もし私が変になったら、止めてね」


 その声は、さっきとは違っていた。


 甘さなんてない。

 ただ、怖がっている声だった。


 自分が自分ではなくなるかもしれない。

 誰かを巻き込むかもしれない。

 そういうものを、本気で怖がっている声。


 俺は、できるだけ軽く返した。


「無断欠勤にならない範囲でなら」


 水瀬さんが少しだけ笑う。


 その瞬間、アナが余計な補足をした。


『補足。その範囲では不足する可能性があります』


 ――アナ。


『事実です』


 ――そういう不吉な事実は、もう少し包んで出してくれ。


 俺が顔をしかめると、水瀬さんが首をかしげた。


「もしかして、例の声に何か言われたの?」

「はい。無断欠勤にならない範囲では対応できない可能性があるそうです」

「そっか……重いね」

「重いです」

「でも、頼んでもいい?」


 水瀬さんはまっすぐ俺を見た。


 今度は、引き寄せられるような感覚はなかった。

 ただ、頼られていると思った。


 それはそれで、だいぶ重い。


「できる範囲でなら」

「うん」

「ただし、もし俺が倒れたら、コンビニでおにぎり買ってきてください。回復は燃費が悪いので」

「そこはチョコじゃないんだ」

「チョコは危険物扱いになりつつあるので」


 水瀬さんは今度こそ、少しだけ普通に笑った。


 その笑顔を見て、俺は少し安心した。


 でも、その安心は長く続かなかった。


 仕事に戻ってからも、水瀬さんの周りでは小さな違和感が続いた。

 誰かが水瀬の予定を聞きたがる。

 誰かが水瀬の近くのコピー機を使いたがる。

 鬼頭課長ですら、水瀬にだけ「無理はするな」と妙に柔らかい声をかけた。


 相沢先輩が小さくつぶやく。


「課長、今日ちょっと優しいね」


 俺はキーボードを打ちながら、心の中で否定した。


 たぶん、優しさじゃない。

 そして、それはまだ軽度だ。


 二月十四日は、まだ来ていないから。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 会社を出たあと、私は駅前のチョコ売り場の前で足を止めていた。


 買うつもりはなかった。

 むしろ、買ってはいけないと思っていた。


 今日、自分が何を言ったのか覚えている。

 灰谷くんに、チョコをもらったら嬉しいかなんて聞いた。

 言った瞬間は、自然な言葉みたいに感じた。

 でも、あとから思い返すと、背筋が冷たくなった。


 あれは、本当に私だったのだろうか。


 売り場には、たくさんのチョコが並んでいる。

 赤い箱。

 ピンクの包装紙。

 小さなリボン。

 かわいい文字で書かれた、期間限定の札。


 周りの人たちは楽しそうだ。


 誰に渡すのか。

 どれが喜ばれるのか。

 義理か、本命か。

 そんな言葉が、あちこちから聞こえてくる。


 そのたびに、胸の奥がざわついた。


 渡してはいけない。


 そう思う。


 なのに、渡したいと思う。


 違う。


 渡したいんじゃない。

 受け取ってほしいんだ。


 それも違う。


 受け取らせたい。


 そこまで考えて、私は自分の指先が震えていることに気づいた。


 だめだ。


 こんなの、私じゃない。


 私は誰かを困らせたいわけじゃない。

 誰かを振り回したいわけでもない。

 好かれたいからって、相手の気持ちを曲げたいわけじゃない。


 それなのに。


 頭に浮かんだのは、灰谷くんの顔だった。


 灰谷くんなら、止めてくれる。

 私が変になっても、きっと気づいてくれる。

 アナさんとヒーラさんがいるから、きっと大丈夫。


 だから。


 だから、渡してもいい。


 そんな言い訳が、胸の奥から浮かんできた。


 気づけば私は、小さな赤い箱を手に取っていた。


 派手すぎない。

 でも、地味でもない。

 義理だと言い張るには少しだけ丁寧で、本命だと認めるには少しだけ軽い。


 ずるい箱だった。


 私はレジに向かった。


 やめようと思った。

 戻そうと思った。

 今ならまだ間に合うと思った。


 でも、気づいた時には、袋の中にその箱が入っていた。


 小さなチョコの箱なのに、妙に重かった。


 二月十四日は、まだ来ていない。


 それなのに私はもう、少しだけ私じゃなくなっていた。

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