第2話 スキルのせいで、仕事が増えました
世界中がスキルに目覚めた朝。
普通なら、もっとこう、歴史的瞬間らしい騒ぎ方というものがあると思う。
ニュースを見るとか。
家族と連絡を取るとか。
自分のスキルを試してみるとか。
少なくとも、出社して五分で上司に怒鳴られることはないはずだ。
「おい灰谷ィ! ぼさっとしてんじゃねぇぞ! 午前中に一回、説明資料を見せろって言ったよなァ!?」
「は、はいっ!」
空から神の声みたいなものが聞こえて、全人類がスキルに目覚めたとしても、鬼頭課長の怒鳴り声はいつも通りだった。
いや、いつもより若干デカい。
たぶん、世界が混乱しているせいで機嫌が悪いのだろう。
頼むから、世界規模の異変を俺のせいにしないでほしい。
俺は自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げた。
社畜の朝は、メールチェックから始まる。
どれだけ世界が終わりかけていようが、メールは来る。
むしろ、世界が終わりかけているからこそ、メールは増える。
「うわ……」
受信ボックスを開いた瞬間、俺は思わず声を漏らした。
未読、八十六件。さっきより増えてるぞ。
しかも、件名をざっと眺めるだけで胃が縮むような文字列が並んでいた。
『本日の納品について至急確認』
『スキル発現に伴う業務停止のご連絡』
『工場ライン停止のお知らせ』
『注文内容変更のご相談』
『受注キャンセルの可能性について』
最後の件名を見た瞬間、俺はそっと目を閉じた。
見なかったことにしたい。
しかし、社畜にそんな自由はない。
恐る恐るメールを開いていく。
どうやら、混乱はうちの会社だけではないらしい。
例えば、ある会社では経理担当が鑑定スキルで不正経理を見抜いてしまい、社内が地獄になっているらしい。
別の会社では、社長が火属性魔法に目覚めた結果、会議室のホワイトボードを燃やしたらしい。
いや、何してんだ社長。
世界は思ったより順調に壊れ始めているようだ。
そして、その混乱は当然のように、俺たち営業部二課にも押し寄せてくる。
「課長……。朝から取引先の問い合わせがかなり来てまして……」
隣の席の先輩が、恐る恐る鬼頭課長に声をかけた。
課長は眉間にシワを寄せたまま、腕を組んでいる。
その腕が、なんか太い。
気のせいだろうか。
昨日より明らかにシャツの袖が苦しそうに見える。
「あぁ? 問い合わせだァ?」
「はい。納期変更と、あと一部キャンセルの相談も……」
「キャンセルだとォ!?」
課長の怒号が、事務所の空気を破裂させた。
コピー機の前にいた後輩が、ビクッと肩を跳ねさせる。
電話中だった別の社員が、受話器を落としかける。
俺は本能的に背筋を伸ばした。
まずい。
非常にまずい。
今の課長にキャンセルという言葉を聞かせるのは、空腹の猛獣の前で焼き肉を振り回すようなものだ。
「どこの会社だ! 担当者は誰だ! 契約書はどうなってる! こっちは印刷所の人員も押さえてんだぞ!」
「か、確認します!」
「確認じゃねぇ! 今すぐ答えろ!」
無茶である。
でも、この部署ではよくあることだった。
怒号が飛び交う事務所の中で、俺はなるべく存在感を消しながらキーボードを叩く。
その時だった。
頭の中に、例の無機質な声が響いた。
『鑑定対象:鬼頭剛志』
うわ、出た。
『状態:怒り。機嫌:3/100』
低っ。
というか、そんな項目まで分かるのか。
『補足。非常に機嫌が悪い状態です』
そんなの鑑定するまでもなく分かるわ!
俺は心の中で全力でツッコんだ。
課長の機嫌が悪いことなんて、鑑定スキルがなくても小学生にだって判別できる。
俺はちらりとメール画面を見た。
受注キャンセルの相談メール。
納期調整依頼。
クレーム一歩手前の問い合わせ。
本来なら、すぐ課長に報告すべき内容だ。
だが、機嫌3の猛獣に今これを投げ込むのは、自殺行為ではないだろうか。
俺はそっとメールを未読に戻した。
見ていない。
俺はまだ見ていない。
少なくとも、今は見ていない。
「……先に資料作るか」
俺は小さく呟き、今日中に提出予定の提案資料を開いた。
取引先向けの改善提案書。
内容は昨日の夜中までかかって8割ほど作ってある。
残りは文言の整理と、数字のチェックと、見栄えの調整。
普段ならここから三時間はかかる作業だ。
なぜなら、俺は誤字脱字が多い。
そして、鬼頭課長は誤字脱字を見つけると、まるで親の仇を発見したかのように怒る。
「えーと……この文章、ちょっと固いかな」
俺は画面を眺めながら、頭の中で文章を読み直す。
その瞬間、また無機質な声が響いた。
『鑑定対象:提案資料』
「え?」
『誤字を検出しました。三ページ目、二段落目。“導入事例を元に”は“導入事例を基に”が適切です』
俺の指が止まった。
……今、なんて?
『表記揺れを検出しました。“お客様”と“貴社”が混在しています。文書全体のトーン統一を推奨します』
「マジで?」
『改善案を提示します』
次の瞬間、頭の中に文章が流れ込んできた。
取引先の立場に寄せた言い回し。
さらには、過去のメール文面から推測される担当者の好みまで。
すごい!
めちゃくちゃ便利じゃないか、鑑定スキル!
戦闘にも使えず、魔法も出せず、レベルも1の外れスキルだと思っていた。
しかし、違う。
これは社畜向けの最強スキルだ!
資料の誤字脱字を見つけてくれる。
文章を改善してくれる。
相手の意向まで読んでくれる。
つまり、俺の残業時間を減らしてくれる可能性がある!
素晴らしい!
神はいたんだ!
いや、神がいるならまずブラック企業を滅ぼしてほしかったが、それはそれとしてありがたい。
「いける……! これなら午前中に出せる!」
俺はキーボードを叩き始めた。
鑑定スキルの指摘に従い、文章を整える。
表を修正する。
数字のズレを直す。
グラフの見出しも統一する。
これまでなら見落としていた細かな違和感が、次々と頭の中に浮かんでくる。
『4ページ目、利益率の計算式に誤りがあります』
『6ページ目、先方の前回要望と矛盾する表現があります』
『8ページ目、結論が弱いです。冒頭に費用対効果を明示してください』
「はいはいはい、直しますよっと!」
俺は夢中になって修正を続けた。
なんだこれ。
仕事が進む。
俺って有能だったっけ?
いや、俺が有能なのではない。
スキルが有能なのだ!
でも、スキルも俺の一部なら、つまり俺も有能ということでいいのでは?
そんな浮かれたことを考えながら、俺はさらに鑑定を使い続けた。
『過去3ヶ月のメール履歴から、先方担当者は短い結論を好む傾向があります』
『競合他社の提案可能性を考慮すると、価格面の説得材料が不足しています』
『関連資料を参照します』
『追加情報を解析します』
『不足情報を補完します』
このあたりから、少しおかしくなった。
頭の中に流れ込んでくる情報量が、急に増えたのだ。
文章。
数字。
メール履歴。
過去の議事録。
商品仕様。
取引先の担当者名。
課長の怒鳴り声。
電話の音。
誰かのため息。
パソコンのファンの回転音。
全部が一気に押し寄せてくる。
「あ、れ……?」
視界がぐにゃりと歪んだ。
画面の文字がにじむ。
頭が熱い。
こめかみの奥を、誰かに内側から叩かれているような痛みが走る。
『情報過多と処理負荷上昇を検知』
『警告。鑑定の連続使用により、精神負荷が限界値に接近しています』
もっと早く言えよ!
そうツッコもうとしたが、声が出なかった。
椅子が揺れる。
床が近づいてくる。
あ、これ、まずい。
そう思った瞬間、俺の意識はぷつんと途切れた。
◇
「……さん」
誰かの声が聞こえた。
「眠太さん、大丈夫ですか?」
まぶたを開けると、ぼんやりした視界の中に、心配そうにこちらを覗き込む顔があった。
水瀬さんだ。
この地獄みたいな部署における、数少ない癒しである。
「み、水瀬さん……?」
「よかった。気がついたんですね。急に倒れたから、びっくりしました」
どうやら俺は、床に倒れたあと、休憩スペースのソファに寝かされていたらしい。
額には冷たいタオルが乗っている。
水瀬さんが介抱してくれたのだろう。
ありがたい。
女神かな?
いや、この場合、スキル世界的には本当に女神がいてもおかしくない。
「すみません……迷惑かけて……」
「迷惑なんて。無理しすぎですよ、眠太さん」
その優しい声に、俺の胸がじんわり温かくなる。
そこで、ふと頭の中に声が響いた。
『鑑定対象:水瀬小春』
いや、今じゃない。
今はやめろ。
『状態:心配』
『灰谷眠太への好感度:70/100』
俺は固まった。
70?
高くない?
いや、落ち着け。
これはたぶん人としての好感度だ。
同僚として。
弱った社畜を哀れむ気持ちとして。
そうに違いない。
でも70。
70かぁ。
「眠太さん? 顔、赤いですよ?」
「い、いや、これは、その、スキルの副作用というか、社会人としての熱というか!」
「社会人としての熱……?」
水瀬さんが不思議そうに首を傾げる。
やめてほしい。
その仕草は効く。
倒れたばかりの社畜には刺激が強すぎる。
その時、休憩スペースの扉が乱暴に開いた。
「起きたか、眠太ァ」
空気が一瞬で凍った。
鬼頭課長だった。
しかも、満面の笑みを浮かべている。
怖い。
怒っている時より怖い。
俺は反射的に身体を起こした。
「か、課長……すみません、作業中に倒れてしまって……」
「そんなことはどうでもいい」
どうでもよくはないと思う。
労災とか、健康管理とか、いろいろあると思う。
だが、鬼頭課長はそんな概念を知らない顔で、俺の前に一枚の紙束を突き出した。
俺が倒れる直前まで作っていた提案資料だった。
「これ、お前が作ったんだな?」
「は、はい。一応……」
「珍しく出来がいいじゃないか」
俺は耳を疑った。
鬼頭課長が、俺を褒めた?
明日は槍でも降るのだろうか。
いや、スキル世界なら槍が降ってもおかしくないのが困る。
「誤字がねぇ。数字も合ってる。先方のツボも押さえてる。お前、何をした?」
課長の目がぎらりと光る。
俺は一瞬迷った。
鑑定スキルのことを話すべきか。
話せば、もしかしたら評価されるかもしれない。
この地獄の部署で、少しは立場が良くなるかもしれない。
「じ、実は俺のスキル、鑑定みたいなんです。資料を見ると、誤字脱字とか、表現の改善案とかが分かるみたいで……」
言った瞬間、鬼頭課長の顔がぱぁっと明るくなった。
満面の笑み。
営業スマイルではない。
獲物を見つけた肉食獣の笑みだった。
「でかしたぞ!」
課長の大声が休憩スペースに響く。
俺は少しだけ期待した。
もしかして、ようやく俺の時代が来たのか。
レベル1でも、戦えなくても、社内で役に立てるスキルとして認められるのか。
そんな甘い期待は、次の一言で粉々に砕け散った。
「それじゃあこの部署の書類チェック係は全てお前がやれ!」
「……はい?」
「もちろん、誤字脱字はゼロ! 先方の意向に沿った上質な資料だけを俺に通すんだ! 二課の資料は全部お前が鑑定しろ!」
俺の脳が処理を拒否した。
全部?
二課全部?
俺が?
鑑定で?
ついさっき情報過多で倒れたばかりなのに?
「い、いや、課長、それはさすがに――」
言い返そうとした瞬間だった。
ぐわしっ、と。
俺の口が、巨大な手に掴まれた。
「むぐっ!?」
鬼頭課長の手だった。
いや、手というより、もはや万力。
指一本一本がやけに太く、硬い。
頬骨がきしむ。
口を開こうにも、まったく動かない。
「言い訳はいらん」
課長は笑っていた。
だが、目は笑っていなかった。
頭の中に、無機質な声が響く。
『鑑定対象:鬼頭剛志』
『保有スキル:身体能力強化』
『筋力上昇率:通常時比二百八十パーセント』
……嘘だろ?
『補足。筋力が大幅に強化されています』
それも鑑定するまでもなく分かるわ!
俺は涙目になりながら、必死にうなずいた。
鬼頭課長は満足そうに手を離す。
俺は頬を押さえながら、ソファの上で小さく震えた。
ただでさえ体育会系で、声がでかくて、圧が強くて、存在そのものがパワハラみたいな上司だったのに。
そこに身体能力増強スキルが乗った。
つまり、鬼に金棒。
いや、鬼頭に筋肉。
最悪だ!
世界中がスキルに目覚めた朝。
俺は鑑定スキルを手に入れた。
便利で、危険で、使い方次第では未来を変えられるかもしれないスキルだ。
だが、このブラック企業において、そのスキルが意味するものは一つだった。
仕事が増える。
ただ、それだけである。
この会社でスキルを使うなら、便利さより先に、隠し方を覚えなければならないのだ。
もう遅いって?
分かってんだよ!




