第1話 レベル1社畜、遅刻する
20XX年12月31日、深夜3時過ぎ。
年の瀬という言葉には、もっと静かで、もっと穏やかな響きがあるはずだった。
こたつ。みかん。紅白。除夜の鐘。年越しそば。
少なくとも、蛍光灯がじりじりと鳴る会社の事務所で、冷え切ったコンビニコーヒーをすすりながら、誰が見るのかも分からない資料の修正をしている光景は、年の瀬とは呼ばないと思う。
「……眠い」
俺――灰谷眠太は、パソコンの画面を見つめながら、何度目か分からない独り言をこぼした。
名前が眠太だから眠いわけじゃない。
単純に、ここ三日まともに寝ていないだけだ。
机の上には、修正依頼の付箋が貼られた紙束。モニターには、赤字だらけの見積書。足元には、空になったエナジードリンクの缶が二本転がっている。
「年末のこの光景も見慣れてきたなぁ」
一人寂しいとも、感じなくなってしまってる。
むしろ、一人で作業できるだけ仕事がはかどるというものだ。
俺以外のメンバーは今ごろ、地獄の忘年会で鬼頭課長の相手をさせられているはずだからな。
乾いた笑いが漏れた、その時だった。
窓の外が、真昼みたいに白く光った。
「……雷?」
反射的に顔を上げる。
ブラインドの隙間から、鋭い光が事務所の中へ差し込んでいた。ビルの谷間を切り裂くような、異様な光。雷にしては音がない。花火にしては早すぎる。そもそも、この時間に会社の窓から見るには、あまりにも現実味がない光だった。
俺は椅子から少し腰を浮かせ、窓の方へ目を凝らした。
その瞬間。
「――っ、あ」
頭の奥を、釘で打ち抜かれたような激痛が走った。
視界がぐにゃりと歪む。
キーボードに手をつこうとしたはずなのに、指先の感覚がない。椅子が後ろへ倒れる音がして、自分の身体が床に落ちていくのが、ひどくゆっくり見えた。
床に後頭部がぶつかる。
冷たい。
痛い。
だけど頭の痛みに比べれば、そんなものはどうでもよかった。
遠くで、誰かの声がした。
『――接続を確認』
知らない声だな。
『わぁ。本当に入っちゃった』
もう一つ、別の声が聞こえた気がした。
そこで、俺の意識はぷつりと途切れた。
◇
『起床を推奨』
『ねえ、起きてる? 起きてるかなぁ?』
「……うるさい」
自分の声で目が覚めた。
身体の下敷きになってた腕がしびれていて、首も痛い。頭はまだじんじんするが、さっきの激痛は嘘みたいに引いていた。
俺はゆっくり身体を起こし、事務所の時計を見る。
午前3時47分。
気を失っていたのは、30分ほどらしい。
「……最悪だ」
まず最初に思ったのは、救急車を呼ぶべきか、ではなかった。
仕事、終わってない。
我ながら終わっている。
けれど、立ち上がろうとした瞬間、今度は腹の奥から凄まじい感覚が湧き上がってきた。
「……は?」
空腹。
胃袋が自分の内側から暴れているような、強烈な飢えだ。最後に食べたのは、たしか昨日の夜のカップ麺だ。いつものことだ。なのに今は、身体中が食べ物を求めて悲鳴を上げている。
『栄養摂取を推奨』
『お腹、空いたよねぇ』
「……なんだよ、これ」
頭の中で声がする。
きっと幻聴だ。
深夜三時に会社で一人きり。年末。睡眠不足。エナジードリンク。そりゃあ脳だって限界を迎えるよな。
「帰ろう」
口に出した途端、少しだけ現実味が戻った。
仕事は終わっていない。
けれど、このまま続けたら本当に死ぬ気がした。少なくとも、今は資料より飯だ。資料は食えない。食える資料があったら、うちの会社はとっくに社員に配っている。
俺はパソコンをスリープにし、鞄を掴んで事務所を出た。
◇
早朝の街は、妙に静かだ。
冬の空気が肌に刺さる。息を吐くと白く濁った。まだ始発も動き始めたばかりの時間で、通りにはほとんど人がいない。
俺はぼんやりした頭で歩いた。
信号の赤がやけに眩しい。ビルの窓に映る自分の顔は、ひどいものだった。目の下には濃いクマ。髪は寝癖なのか倒れた時の乱れなのか分からない。スーツもよれている。
『最寄りの食料供給地点を確認』
『あそこ、明るいねぇ』
「……コンビニだよ」
誰に説明しているのか分からないまま、俺はコンビニに入った。
おにぎり。
とにかくおにぎり。
棚に並んでいたものを、味も見ずにカゴへ放り込んだ。鮭、ツナマヨ、昆布、明太子、たらこ、梅、炒飯、炙りなんとか。途中から何を取っているのかも分からなかった。
レジの店員が、少し引いた顔をしていた。
「温めますか?」
「いや、大丈夫です」
本当は、今すぐ食べたかった。
会計を済ませ、袋を受け取る。コンビニを出た瞬間、俺は袋を開けた。
手が勝手に動く。
包装を破り、おにぎりを口へ押し込んだ。
「うま……」
一個目が消えた。
二個目も消えた。
三個目を食べたあたりで、ようやく自分が歩道の脇に立ったまま、獣みたいに飯を貪っていることに気づいた。
でも止まらない。
恥ずかしさより、空腹の方が圧倒的に強かった。
『摂取効率、良好』
『いっぱい食べるねぇ』
「ほっとけよ……」
そう言いながら、俺はさらに一個、口に詰め込んだ。
結局、買ったおにぎりの大半をその場で食べ尽くしてから、俺はようやく自宅へ向かう。
家に着いた時には、外がうっすら明るくなり始めていた。
ワンルームの部屋。
脱ぎっぱなしの服。畳まれていない洗濯物。流しに置かれたマグカップ。堅いマットレス。
俺は鞄を床に落とし、スーツの上着だけ脱いで、そのままマットレスへ倒れ込んだ。
「……今日くらい、寝ても許されるだろ」
誰に許しを求めているのか、自分でも分からない。
目を閉じる。
『休眠を確認』
『おやすみぃ』
幻聴に見送られながら、俺は泥のように眠った。
◇
次に目を開けた瞬間、世界は終わっていた。
いや、世界じゃない。
俺の社会人生命が終わっていた。
「……え?」
スマホの画面には、午前9時27分と表示されていた。
始業は9時。
つまり、完全に遅刻だ。
「うわああああああっ!」
跳ね起きた瞬間、腹が鳴った。
また空腹だった。
昨日あれだけ食べたのに、もう腹が減っている。だが今は飯どころじゃない。飯より上司。人類史に残る最低の優先順位だが、うちの会社ではそれが現実だった。
俺は歯もろくに磨かず、顔だけ洗い、昨日のスーツに袖を通して部屋を飛び出した。
階段を駆け下りる。
「やばい、やばい、やばい……!」
『職場への連絡を最優先で実施することを推奨』
『ねえねえ、無視をしないで欲しいなぁ』
「知らねぇよ!」
走りながら叫んでしまった。
通行人がぎょっとした顔でこちらを見る。
まずい。完全に変な人だ。
いや、実際に変なのは俺の頭だ。声がする。二つもする。片方はおっとりしていて、妙に間延びした声。もう片方は淡々としていて、機械の音声案内みたいだった。
『職場への連絡を――』
『ねえ、聞こえてるよねぇ?』
「いい加減黙ってくれよ!」
俺がそう喚いた、その直後だった。
目の前を、人影が走り抜けた。
いや、走り抜けたという表現は正しくない。
影が、風を裂いて消えた。
「……は?」
スーツ姿の男だったと思う。
だが速度がおかしかった。陸上選手とか、そういう次元ではない。漫画みたいに残像を残して、交差点の向こうへ消えた。
俺は足を止めた。
そこでようやく、周囲の様子がおかしいことに気づいた。
向かいのビルの屋根の上を、女子高生らしき二人組が跳び跳ねて移動している。
その下では、初老の男性が手のひらから小さな炎を出して、周囲に囲まれていた。
別の路地では、コート姿の女性が風を巻き起こし、散らばった紙袋を空中でまとめている。
歩道の端では、転んで膝を擦りむいた子どもに、若い男が手をかざしていた。淡い光がこぼれ、子どもの傷がみるみるふさがっていく。
「……夢?」
そうだ。
これは夢だ。
仕事のし過ぎで、ついに脳が限界を迎えたのだ。
だとすれば朗報だ。夢なら、俺は遅刻していない。夢の中でどれだけ怒られても、現実の勤怠には影響しない。
『現実認識に重大な誤差を確認』
『夢じゃないと思うなぁ』
「うるさい。夢であってくれ」
俺は現実逃避に全力を注ぎながら、速足で会社へ向かった。
外の異常事態より、上司の怒号の方が具体的に怖い。
それが、俺という人間だった。
◇
会社の入っている雑居ビルに駆け込み、エレベーターを待つ時間すら惜しくて階段を駆け上がる。
目指すは六階。
肺が死ぬけど、遅刻で怒られるよりはまだいい。
俺は会社のドアの前で一度だけ息を整えた。
大丈夫。
これは夢だ。
夢なら怒られてもノーカウント。現実なら……いや、考えるな。
「お、おはようございます……」
「灰谷ぃぃぃぃぃっ!」
怒号が降ってきた。
夢ではなかった。
怒号の主は、俺の上司――鬼頭剛志。
50代半ば。角刈り。太い眉。声量だけなら社内最強。普段から精神論を燃料に動いているような男だが、今日はいつも以上に目が血走っていた。
「お前なぁ! 年内最終営業日に気合いが足りんのだよ!」
「す、すみません……」
「すみませんじゃない! 社会人に必要なのは、能力でも才能でもない! 気合いだ! 根性だ! 魂だ! 世界がどう変わろうが、納期は変わらん!」
今、さらっと怖いことを言わなかったか。
世界がどう変わろうが?
やっぱり外のあれは夢じゃないのか?
「灰谷! 返事!」
「はいっ!」
「声が小さい!」
「はいっ!!」
「腹から出せ!」
「はいぃっ!!」
朝から説教を受け、俺は半分魂が抜けた状態で席についた。
パソコンを立ち上げる。
未読メール、37件。
チャット通知、11件。
人類が炎を出せるようになっても、メールは減らないらしい。
俺が絶望していると、社内チャットが一件飛んできた。
隣の席の水瀬綾からだった。
整ったミドルボブの似合う、愛嬌のある女性だ。
同期の俺とも、気さくに話してくれる。
なんでこんな会社で働いてんだろ?
これは大きな謎である。
『おはよ。朝から大変だったね』
俺は思わず画面を二度見した。
優しい。
これぞ人間の言葉だ。
この会社にも、まだ人間はいた。
『おはようございます。すみません、寝坊してしまいました』
打ち込んで送る。
同期なのに敬語って、ダサいな俺。
隣にいるのにチャットで会話するのは変な話だが、鬼頭課長の前で私語をすると面倒なことになる。水瀬はその辺りの危機管理がうまい。
すぐに返信が来た。
『まあ、今日はいろいろあったしね』
いろいろ。
その言葉で、俺は外の光景を思い出した。
屋根を跳ぶ人。炎を出す人。風を操る人。傷を治す人。
やっぱり、何かが起きている。
だが俺は、何から聞けばいいのか分からなかった。
すると、水瀬から追いチャットが来た。
『そういえば、灰谷君はどんなスキルを使えるようになったの?』
「……は?」
思わず声が漏れた。
慌てて口を押さえる。
鬼頭課長がこちらを睨んだが、まだ怒鳴るほどではなかったらしい。俺は冷や汗をかきながら、水瀬の方へ目配せした。
何を言ってるんだ。
そういう気持ちを全力で込める。
水瀬は少し目を丸くして、またキーボードを叩いた。
『気づいてないの?』
気づいてない?
何に?
そう思った瞬間、俺の視界の左下に、妙なものがあることに気づいた。
半透明の小さなボタン。
パソコンの画面じゃない。
紛れもなく、俺の視界。
「なんだ、これ……」
『状態表示機能の存在を確認』
『あ、やっと見たぁ』
頭の中の声が、また勝手に喋る。
俺は恐る恐る、そのボタンに意識を向けた。
押す、というより、見る。
すると、目の前に半透明の画面が開いた。
名 前:灰谷眠太
レ ベ ル:1
所持スキル:鑑定、ヒール
「……出た」
出た。
何が出たのか分からないが、出た。
ゲームみたいな画面。
ステータス。
水瀬が言っていたのは、これのことか。
俺は自分の名前と、レベル1という文字を見つめた。
レベル1。
まあ、妥当だ。
社会人としてもレベル1みたいなものだし、生活能力に至ってはチュートリアル未満だ。
問題は、その下だった。
「鑑定とヒール……?」
声に出した瞬間。
「灰谷ぃ!」
鬼頭課長の怒号が飛んできた。
「勤務中に独り言とは、ずいぶん余裕があるじゃないか! その余裕、全部仕事に回せぇ!」
「す、すみません!」
俺は反射的に頭を下げた。
半透明の画面は、まだ目の前に浮かんでいる。
頭の中では二つの声が喋っている。
外では人が屋根を跳び、炎を出し、傷を治している。
なのに、俺の目の前で一番恐ろしいのは、今日も変わらず上司だった。




