第13話 名前のない朝食係
私――相沢真帆は、自他ともに認める社畜だ。
自分で言うのもどうかと思うけれど、事実なのだから仕方がない。
朝は会社に間に合うぎりぎりの時間に起きる。
顔を洗って、髪をまとめて、最低限の化粧をして、昨日の夜に脱いだ服の山から比較的しわの少ないものを選ぶ。
朝食は、あれば食べる。
なければ食べない。
昼食は、コンビニのおにぎりか菓子パン。
夕食は、残業の有無によって存在したり、しなかったりする。
そして帰宅後は、鞄を床に置き、コートを椅子にかけ、明日の私にすべてを託して布団に倒れ込む。
その繰り返し。
だから、部屋はいつも散らかっていた。
いわゆる、汚部屋だね。
床に散らばった書類。
読みかけの雑誌。
洗濯しようと思って忘れていた服。
畳もうと思って忘れていた服。
どちらなのか分からなくなった服。
流しにはマグカップが二つ。
なぜか箸は三膳。
冷蔵庫の中には、買ったことだけ覚えている野菜がいくつか。
別に、片づける気がないわけじゃないよ。
むしろ、片づけたい気持ちはある。
あるのだが、帰宅した時点で体力が残っていないのだ。
社会人として。
女性として。
人間として。
これはよくない。
そう思っていた。
思ってはいたのだ。
「……今日こそ、掃除機だけでもかけよう」
そんな決意をする夜は多い。
けれど、その直後には毎回こう思う。
今日じゃなくてもいいか、と。
そして先日、世界中の人間がスキルに目覚めた。
私に発現したスキルは、生活補助系。
最初にそれを知った時、妙に納得した。
なるほど、私にはそれが必要だと。
身体強化でも、元素魔法でも、鑑定でもない。
生活補助。
この、生活を補助しなければ生活が成り立たない女に、なんともぴったりなスキルではないか。
実際、スキルが発現してからというもの、私の家事効率は明らかに上がった。
洗濯物を干すのが早くなった。
食器を洗う手際が良くなった。
書類をまとめる時、どこに何を置けばいいのか、なんとなく分かるようになった。
地味だ。
すごく地味だ。
鬼頭課長のように机を叩いても割れないだろうし、神代さんのように小さな物音まで拾えるわけでもない。
水瀬さんのように人を惹きつける力もなければ、灰谷くんのように何かを見抜けるわけでもない。
ただ、生活がちょっと楽になる。
そんなスキル。
私はそう思っていた。
思っていたのだが。
「……ん」
その朝、私は朝日で目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、まぶたの上に乗っている。
目覚ましより先に起きるなんて、いつ以来だろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、布団の中で寝返りを打とうとした。
その瞬間、違和感に気づく。
床が、見える。
「……え?」
私はゆっくりと目を開けた。
そして固まった。
床が見えている。
いや、床が見えるだけではない。
床が、きれいだった。
散らばっていたはずの服がない。
書類の山がない。
コンビニの袋がない。
いつ買ったのか分からないペットボトルもない。
部屋の隅にうっすら積もっていた埃もない。
テーブルの上には、整えられたリモコンとティッシュ箱。
壁際には、畳まれた洗濯物が種類ごとに積まれている。
まるで、引っ越してきたばかりの部屋みたいだった。
「……え、泥棒?」
真っ先に浮かんだ考えが、口からこぼれ出る。
でも、泥棒が部屋を掃除して帰るだろうか。
通帳は。
財布は。
パソコンは。
慌てて視線を走らせる。
財布はいつものバッグの横にあった。
ノートパソコンも机の上にある。
スマホも枕元に置かれている。
なくなっているものは、たぶんない。
代わりに、なくなっているものがあるとすれば。
部屋の汚さだった。
「……いや、何これ」
寝ぼけているのかと思って、私は自分の頬をつねった。
痛い。
夢じゃない。
ならばこれは、現実だ。
現実の自分の部屋が、何者かによって徹底的に掃除されている。
その事実を脳が受け入れようとした、その時だった。
ジュウウウウ、という音が聞こえてきた。
「……は?」
私は耳を疑った。
聞き間違いじゃない。
何かを炒めている音だった。
しかも、香ばしい匂いまで漂ってくる。
油の匂い。
野菜の匂い。
醤油らしき匂い。
料理。
誰かが、私の部屋で、料理をしている。
「ちょっ……!」
私は布団を跳ね飛ばした。
昨日の夜に着ていた部屋着のまま、慌てて立ち上がる。
床に足をつけた瞬間、また別の違和感があった。
靴下が落ちていない。
いつもなら、布団の周りには昨日脱いだ靴下やらカーディガンやらが転がっているはずなのに、何もない。
いや、今はそれどころじゃないでしょ。
コンロのある廊下へ飛び出し、叫ぶ。
「誰ですか!?」
声が裏返った。
しかし、返事はない。
代わりに、フライパンを振る音がした。
そして私は見た。
コンロの前に、小さな何かが立っていた。
背丈は、私の膝くらい。
人間の子供よりもずっと小さい。
輪郭は、埴輪に似ていた。
つるんとした頭。
丸みのある胴体。
短い手足。
顔と呼べるものはない。
ただ、目らしき黒い点が二つだけついている。
その小さな何かは、両手でフライパンの柄を持ち、全身を使って器用に野菜を炒めていた。
じゅうじゅう。
しゃかしゃか。
じゅうじゅう。
その動きは必死で、真剣で、妙に手慣れているように見える。
「……え?」
私はもう一度呟いた。
それ以外の言葉が出てこなかった。
小人のような何かは、こちらに気づいたらしい。
フライパンを少し傾けたまま、振り返る。
二つの黒い点が、私を見上げた。
そして。
ふにゃっ。
その黒い点が、やわらかく潰れた。
まるで笑ったみたいに。
「…………」
私は固まった。
怖い。
怖いはずだ。
知らない何かが自分の部屋にいて、勝手に掃除をして、勝手に料理をしている。
常識的に考えれば、悲鳴を上げて逃げる場面だ。
なのに。
なぜだろう。
その小さな何かが、あまりにも得意げにこちらを見上げているものだから。
私は一瞬だけ、ホッとしてしまった。
「……え、かわいい」
思わず本音が漏れた。
小人は首をかしげた。
首という部位があるのかどうかは分からないが、全体をこてんと傾けたので、たぶん首をかしげたのだと思う。
その仕草が、また妙にかわいかった。
だが、かわいいで済ませていい状況ではない。
私は一歩下がり、壁に背中をぶつけた。
そこで、脳裏に最近のニュースがよぎる。
スキルは、宇宙人による侵略なのではないか。
そんな見出しが、ネットで何度も流れていた。
もちろん、それを本気で信じていたわけではない。
専門家でもない誰かが、動画サイトで大げさに語っているだけ。
そう思っていた。
けれど。
目の前にいるこれは何だ。
生活補助系スキルが、家事を手伝ってくれる小人を呼び出すものだったなんて、聞いたことがない。
「ま、まさか……」
私は震える声で呟いた。
「宇宙人……?」
小人は返事をしなかった。
代わりに、フライパンの中身を皿に移し始めた。
じゅうじゅうと音を立てていた野菜たちが、白い皿の上にこんもりと盛られていく。
キャベツ。
にんじん。
ピーマン。
もやし。
玉ねぎ。
彩りは悪くない。
というか、普通においしそうだね。
小人は皿を両手で持ち上げた。
体の半分くらいある皿を、ぷるぷるしながら掲げる。
そしてこちらへ、よちよちと歩いてきた。
できたよ。
声は聞こえない。
でも、そう言っているように見えた。
「……私に?」
小人は、ふにゃっと目の黒い点をゆるませた。
笑顔。
たぶん笑顔。
恐る恐る皿を受け取る。
温かい。
湯気が上がっている。
醤油とごま油の匂いが、空っぽの胃袋を直撃した。
そういえば、昨日の夜は帰ってきてから何も食べていない。
夕方に食べたコンビニのサンドイッチが最後だった。
空腹を自覚した途端、お腹が小さく鳴った。
「……いただきます」
なぜか礼儀正しくそう言ってから、私は箸を取った。
箸は、洗われていた。
流しの中に放置されていたはずの箸が、ちゃんと水切りかごに並べられている。
そのうちの一膳を取り、野菜炒めを口に運んだ。
「……おいしい」
普通に、おいしいじゃん。
家庭的な味だね。
濃すぎず、薄すぎず、朝に食べても重くない。
キャベツは甘く、もやしはしゃきしゃきしている。
にんじんもちゃんと火が通っている。
私はもう一口食べた。
さらにもう一口。
小人はその様子を、じっと見上げていた。
二つの黒い点が、私の顔を観察している。
まるで、感想を待っているみたいだった。
「おいしいよ。すごく」
そう言うと、小人はその場でぴょんと跳ねた。
喜んでいる。
たぶん、喜んでいる。
胸の中に、妙な感情が湧いた。
何これ。
かわいい。
かわいいけれど、怖い。
怖いけれど、ありがたい。
ありがたいけれど、やっぱり意味が分からない。
その四つが同時に押し寄せてきて、私は野菜炒めを食べながら混乱した。
ふと、視線が皿の上に落ちる。
山盛りだった。
かなりの量がある。
朝食というより、三人前くらいある。
「……ん?」
私は箸を止めた。
キャベツ。
にんじん。
ピーマン。
もやし。
玉ねぎ。
この組み合わせには覚えがある。
昨日、いや、一昨日だったか。
スーパーで安くなっていたから、勢いで買った野菜たちだ。
忙しくて料理する暇がなく、冷蔵庫に入れっぱなしになっていた。
私は皿を置き、冷蔵庫へ向かった。
扉を開ける。
中は、きれいだった。
信じられないほど整理されていた。
調味料は種類ごとに並び、卵はパックごと取り出しやすい位置に置かれ、賞味期限の近いものが手前に来ている。
そして。
野菜室が空だった。
「……全部使ったの?」
私は振り返った。
小人は誇らしげに胸を張った。
胸がどこなのかは分からないが、とにかく張っているように見えた。
「いや、うん。助かる。助かるんだけど……」
皿の上の野菜炒めを見る。
どう考えても一人で食べる量ではない。
しかも、冷蔵庫の野菜は全滅している。
今日の夜に使おうと思っていたものも。
明日のお弁当に入れられたらいいなと思っていたものも。
全部、調理済みだ。
「なるほど……」
私は深く息を吐いた。
たしかに生活を補助してくれている。
掃除も洗い物も冷蔵庫の中の整理もしてくれた。
さらに、朝ご飯まで作ってくれた。
完璧だ。
完璧なんだけど。
この子はどうも、加減を知らないらしい。
小人はこちらを見上げている。
その黒い点が、またふにゃっと潰れた。
褒めてほしい。
そんな圧を感じた。
「……ありがとう」
私がそう言うと、小人はまた跳ねた。
その姿を見ていると、怒る気にはなれなかった。
というか、怒る相手なのかどうかも分からない。
スキルなのか。
宇宙人なのか。
妖精なのか。
生活補助系の何かなのか。
何ひとつ分からない。
ただ一つだけ分かることがある。
この子は、たぶん私のために頑張った。
部屋を掃除して。
食器を洗って。
野菜炒めを作って。
それを私に食べさせようとしている。
少なくとも今のところ、敵意は見えない。
侵略者というには、あまりにも家庭的すぎるよね。
「量はね、もう少し少なくていいかな」
私は皿を指さしながら言った。
「一回で全部使わなくてもいいの。冷蔵庫に残しておいて、明日も食べられるようにするの。分かる?」
小人はこてんと体を傾けた。
分かっていない顔だった。
顔はないけれど。
「あと、勝手に火を使うのは危ないから……いや、でも私よりちゃんと料理できてるし……」
私は頭を抱えた。
注意したい。
でも、注意する資格が自分にあるのか分からない。
少なくとも、自分は昨日まで冷蔵庫の野菜を放置していた人間だ。
この小人は、それを救済しただけとも言える。
「……とりあえず、火を使う時は起こして」
小人は、じっと私を見上げた。
分かったのか、分かっていないのか。
判断できない。
とりあえずもう一度、野菜炒めを口に運ぶ。
おいしい。
悔しいくらいに。
こんな朝食を食べたのは、いつ以来だろう。
学生時代、母が作ってくれた朝ご飯以来かもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
仕事に追われて。
帰って寝るだけの毎日で。
部屋は荒れて。
自分の生活なんて後回しで。
それでも平気なふりをしていた。
自分は社畜だから。
これくらい普通だから。
みんな大変だから。
そんな言葉で、ずっとごまかしてきた。
けれど、埃一つない部屋で、湯気の立つ朝食を食べていると、少しだけ思ってしまう。
ああ。
私は、こういう生活をしたかったのかもしれない。
「……困ったなぁ」
私は小さく笑った。
「かわいいし、助かるし、おいしいし。でも、色々と謎すぎる」
小人は私の膝元まで近づいてきた。
そして、皿を覗き込む。
ちゃんと食べているか確認しているらしい。
私がもう一口食べると、小人は満足そうにふにゃっと笑った。
その姿を見て、ふと思った。
この子を、何と呼べばいいのだろう。
いつまでも“小人”では困る。
宇宙人と呼ぶのも、さすがに物騒だし。
生活補助さん。
家事妖精。
はにわ。
野菜炒め係。
どれもしっくりこない。
私は箸を持ったまま、小人を見下ろした。
小さな手。
短い足。
埴輪みたいな輪郭。
ふにゃっと潰れる黒い目。
得体の知れない存在なのに、なぜかそこにいるだけで部屋の空気が少し柔らかくなる。
「……名前、何にしよう」
そう呟くと、小人はまた首をかしげた。
朝日が差し込むアパートの一室。
きれいになった部屋の真ん中で、私は山盛りの野菜炒めを前にして、真剣に悩み始めた。
出勤時間まで、あと三十分。
けれど、その朝だけは。
いつもより少しだけ、自分の生活が自分のものに戻ってきたような気がした。




