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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第2章 社畜生活、レベル2へ

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第11話 感覚過敏にはコーヒーを

 俺―――神代恒一は、朝から妙な違和感を覚えていた。


 目覚ましの音で耳が痛んだのだ。


「……うるさいな」


 いつもと変わらない電子音のはず。

 毎朝聞いている、何の変哲もないスマホのアラーム。

 それなのに今日は、頭蓋骨の内側を直接叩かれているような不快感があった。


 眉間を押さえながらアラームを止め、ベッドから起き上がる。

 睡眠時間は、短い。

 ここ最近、感覚強化スキルのせいで眠りが浅くなっている。とはいえ、それはもう慣れたつもりだった。


 洗面所に向かい、蛇口をひねる。

 水が流れた。


「っ……」


 たったそれだけの音に、思わず肩が跳ねる。

 ぱしゃぱしゃとはねる小さな水音が、まるで耳元で何十倍にも増幅されているようだ。


 顔を洗う。

 冷たい水が肌に触れた瞬間、温度差まで妙にくっきりと分かった。

 水滴が頬を伝う感覚も、タオルの繊維が肌を撫でる感触も、いつもより細かく、鮮明すぎる。


「……おかしいな」


 俺はタオルで顔を押さえたまま、リビングへ戻った。


 カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。

 普段なら気にも留めない程度の光だ。


 だが今日は違った。


「まぶし……」


 細い光の線が、まるで刃物のように目に刺さる。


 さらに、冷蔵庫の奥から聞こえる低い唸り。充電器の小さな発熱。テレビの待機音。

 部屋にある電化製品が、それぞれ自己主張するようにジーッ、ブーン、と音を立てていた。


 実際には、いつもと同じ部屋のはずだ。

 しかし俺には、それが騒音まみれの工場の中にいるように感じられる。


「……これは、まずいな」


 俺はスマホを手に取った。

 相談すべき相手は、一人しか思い浮かばない。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 普段通りの仕事を普段通りにこなす。

 それもまた、一つの重要な仕事なのだと俺―――灰谷眠太は考えている。


 その普段通りの仕事をこなしつつ、昨日よりも難しくて大量な仕事をこなせるようになることこそが、社会人としての常識なんだ。


 いや、分かってる。

 これは、鬼頭課長の理屈だ。

 だが残念なことに、俺たち平社員はその理屈の上で踊り狂うしかない。


 鬼頭課長の怒鳴り声が飛び、メールが増殖し、アナが頭の中で余計な分析を垂れ流し、ヒーラが空腹を訴える。今日も今日とて、いつも通りだ。


『現在の集中力、通常時の七十二パーセント』

『おなかすきましたぁ』


 うるさい。

 外もうるさいし、中もうるさい。


 俺はパソコン画面を見つめながら、淡々とメールを処理していた。

 そんな時、社内チャットがぴこんと鳴った。


 差出人を見て、俺は少しだけ目を疑う。


「神代先輩……?」


 先輩からチャットが来るのは珍しい。

 あの人は基本的に、必要なことは口頭で済ませるタイプだ。文章に残す時も、業務連絡が中心である。


 チャットには、こう書かれていた。


『昼休憩、少し時間をもらえないか。飯は奢る。スキルのことで相談したい』


 飯は奢る。

 俺はその五文字を、心の中で三回読み返した。


『食事提供の可能性を確認』

『ごはんですかぁ?』


 お前らも反応するな。


 とはいえ、神代先輩がわざわざそう言ってくるのだ。相当困っているのだろう。

 俺はすぐに返信した。


『分かりました。店は考えておきますね』

『店なら俺の行きつけでと考えてるが、どうだ?』

『問題ないです』


 送信した直後、隣の席から水瀬さんがひょこっと顔を出した。


「灰谷くん、今の神代先輩から?」

「なんで見えてるんですか」

「女の勘」

「チャットの通知音に性別はないと思いますけど」


 水瀬さんはにこにこと笑った。


「スキルの相談なら、私も行く」

「なんでですか」

「ほら、私もスキル関係者だし」

「関係者って言い方、事件っぽいですね」


 しかし、断る理由もない。

 というか、水瀬さんはもう行く気満々だった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 昼休み。

 神代先輩に案内されて、俺たちは職場近くの喫茶店に入った。


 古い木の扉を開けると、からん、と小さなベルの音が鳴る。

 店内にはコーヒーの香りが漂っていた。昼はランチも出しているらしく、奥の席では近くの会社員らしい人たちがパスタを食べている。


「ここ、神代先輩の行きつけなんですか?」

「ああ。昼によく使っている」


 神代先輩がそう言った時、カウンターの方から女性店員が顔を上げた。


「あ、神代さん。いらっしゃいませ」

「森崎さん。今日は三人で」

「は、はい。お好きな席へどうぞ」


 森崎さん。


 名札にはそう書かれていた。

 ふわっとした雰囲気の人だ。声は控えめで、少し緊張しているようにも見える。けれど、神代先輩を見る表情はどこか柔らかい。


「いつもの席、空いてます」

「助かる」


 神代先輩は自然にそう返した。

 その様子を、俺と水瀬さんはじっと見た。


「……何だ、その目は」

「いえ、先輩にもこういう場所があるんだなと」

「失礼な感想だな」

「ところで、あの店員さんとは仲が良いんですか? もしかして彼女さんだったり」

「違う。それに、そういう話は店に迷惑がかかるだろ」


 神代先輩の声が少し低くなった。

 茶化した水瀬も、これ以上は踏み込まないほうが良いと悟ったのか大人しくなる。


 まぁ、気になる案件だってことは、俺も同意するけど。


 席に着くと、森崎さんが水を持ってきてくれた。

 俺たちはランチメニューから各々パスタを注文する。


「それで、相談って何ですか?」


 俺が切り出すと、神代先輩は小さく息を吐いた。


「感覚強化のスキルが、強くなっている気がする」

「強く?」

「ああ。今朝から、光も音も匂いも、全部きつい。ようやく慣れてきたと思ってたんだが、今朝はいつもの光も音も、かなり堪える。」


 神代先輩の顔色は悪い。

 目の下には薄く隈があり、姿勢はいつも通り整っているのに、どこか神経が削れているように見えた。


「灰谷。悪いが、鑑定してもらえないか」

「分かりました」


 俺は軽く息を整える。


「アナ、頼む」

『対象、神代恒一。鑑定を開始します』


 視界に情報が浮かび上がる。


 名前、状態、スキル。

 そして、レベル。


「……あ」

「どうした?」

「神代先輩、レベル上がってます」


 先輩は眉を寄せた。


「レベルが?」

「はい。そのせいでスキルの効果が強くなってるみたいですね」


 水瀬さんが口元に手を当てる。


「それって、喜んでいいやつなの?」

「普通ならそうかもしれないですけど……神代先輩の場合は」


 俺は神代先輩を見る。

 先輩は、額に手を当てていた。


「最悪だな」


 即答だった。


「これ以上、音や光に敏感になれば、仕事どころじゃない。今までも灰谷の……おかげで一時的に回復していたが、毎日それに頼るわけにもいかない」

「そうですね……俺も使うと腹減りますし」

『おなかすきますぅ』

『治癒能力使用時のエネルギー消費は避けられません』


 お前たちは今、出てこなくていい。


 実際、俺も考えていた。

 ヒールで精神的な疲労を回復できるとしても、根本的な解決にはならない。神代先輩のスキルが強くなるほど、削られる速度も上がる。


 これは、かなり厄介だ。


 重い空気が落ちかけた、その時だった。


「お待たせしました。ランチパスタです」


 森崎さんが、湯気の立つ皿を運んできた。


 とりあえず、食べよう。

 人類は悩む前に炭水化物を摂取すべきだ。


 俺たちはパスタを食べ始めた。


「……うまっ」


 思わず声が出た。

 喫茶店のランチというより、普通に専門店レベルでうまい。ソースが濃すぎず、でも物足りなさがない。麺の固さもちょうどいい。


「ほんとだ。おいしい」


 水瀬さんも目を丸くしている。

 神代先輩は、なぜか少し得意げだった。


「ここのランチは外れがない」

「なんで先輩が誇らしげなんですか」

「常連だからな」

「常連にそんな権限あります?」


 食事を終える頃には、少しだけ空気が軽くなっていた。


 そろそろ職場に戻ろうか、というタイミングで、森崎さんが小走りで近づいてきた。


「あ、あの、神代さん」

「森崎さん?」


 彼女は両手で小さな水筒を差し出した。


「これ……よかったら」

「これは?」

「わ、私が淹れた、コーヒーです」


 神代先輩は不思議そうに水筒を受け取った。


「いいのか?」

「は、はい。今日、少し具合が悪そうだったので……」


 神代先輩は水筒のふたを開け、香りを確かめるように少しだけ口に含んだ。

 次の瞬間。


「……ほう」


 神代先輩の目が見開かれた。


「どうしたんですか?」

「止まった」

「何がです?」

「耳鳴りだ。光のちらつきも、かなり弱まっている」


 俺と水瀬さんは、同時に森崎さんを見た。

 森崎さんは、びくっと肩を揺らす。


「あ、あの……私のスキルなんです」

「スキル?」

「支援系、みたいで……飲み物とか食べ物に、少しだけ効果を付けられるんです。耐性とか、活力アップとか。まだ、そんなに強くはないんですけど」


 それは、かなりすごいのでは。

 少なくとも今の神代先輩にとっては、喉から手が出るほど欲しい効果だ。

 神代先輩は、水筒を握りしめたまま森崎さんに詰め寄った。


「森崎さん」

「は、はいっ」

「頼む。これから毎日、コーヒーを淹れてくれないか」


 真剣な顔で、神代先輩はそう言った。

 しかも、勢い余って森崎さんの手まで握っている。


 森崎さんの顔が、一気に赤くなった。


「あ、え、ま、毎日……ですか? そ、その、私でよければ、あの、はい、えっと」

「助かる。本当に助かる」

「あ、あわ……」


 森崎さんは完全に言語機能を失っていた。

 横で水瀬さんが、にやりと笑う。


「へー。そういう感じなんだ」


 水瀬さんじゃなくても分かる話だ。

 きっと森崎さんは神代先輩に恋をしている。


 問題は、神代先輩側に自覚がなさそうだというところ。

 あと少しでバレンタインだし、もしかするとこれをきっかけに二人がお近づきになったりして。


 まぁ、そんなことは置いておいて。


 俺には分かる。この機を逃すわけにはいかない。

 後日またお願いに、というのは難しいだろうから。


 神代先輩の耳鳴りが止まるなら。

 俺の頭痛も、止まる可能性がある。


 俺は森崎さんに詰め寄った。


「森崎さん!」

「は、はい!?」

「俺も、頭痛を止めるコーヒーを淹れて欲しいんですけど!」


 次の瞬間、水瀬さんの鋭い声が飛んだ。


「なに邪魔してるのよ!?」


 悪いね水瀬さん。

 俺にとってはこっちの方が重要なんだ。


『健康問題の優先度は高いと判断します』

『コーヒーよりパスタのおかわりも欲しいですぅ』


 ……お前らは黙っててくれ。

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