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世界中がスキルに目覚めた朝、俺は上司に怒鳴られていた ~レベル1社畜の限界労働サバイバル~  作者: 内村一樹
第2章 社畜生活、レベル2へ

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第10話 休日のチョコは非常食です

 今日は久しぶりの休日だ。


 目覚ましは鳴らない。

 鬼頭課長の怒号も聞こえない。

 未読メールの件数に心を折られることもない。


 つまり、完璧な朝である。


「……あと五時間寝たい」

『起床時刻、午前九時四十二分。睡眠時間は八時間十二分。追加睡眠の必要性は低いと判断します』

「必要性じゃなくて。願望の話だよ」

『願望と健康上の必要性は区別されます』

『でもぉ、眠太さんが寝たいなら寝てもいいと思いますよぉ』


 ヒーラは優しいな。

 だが、その優しさに甘えていいものか、悩ましくもある。


「……起きるか」


 俺は社会人として、休日を無駄にしない決意を固めた。

 そして三十分後。


「靴下に穴が空いてる……」


 俺は、洗濯かごの前で人生の現実と向き合っていた。


 右足の親指部分に、見事な穴。

 ついでに予備の靴下も、かかとが薄い。

 会社用の靴下は、俺の精神より先に限界を迎えていたらしい。


『対象:靴下。損耗率、推定七十二パーセント』

『さすがに靴下は治せませんよぉ』

「そりゃそうだよなぁ」


 ヒールで靴下が治ったら、それはもう回復魔法ではなく裁縫スキルである。

 俺はしばらく穴の空いた靴下を見つめたあと、深く息を吐いた。


「……買いに行くか」


 久しぶりの休日。

 俺は、久しぶりに外へ出ることにした。


 外の空気は冷たかった。


 年が明けて、もう一か月が経とうとしている。

 正月気分はとっくに薄れ、街は次のイベントに向けて色を変えていた。


 駅前のショッピングモールに入ると、入口近くの特設コーナーが、赤とピンクで埋まっている。


 バレンタイン。


 ハート型のポップ。

 やたらおしゃれな箱。

 本命、友チョコ、自分へのご褒美、感謝チョコ。


 世間は甘さでできてるらしい。


『バレンタイン。二月十四日に行われる贈答イベントです』

「さすがに知ってる」

『主にチョコレートを用いて、好意や感謝を伝える文化があります』

「知ってるって」

『眠太さんは、もらえるんですかぁ?』

「ヒーラ。そういう純粋な質問が、一番鋭利なんだぞ」


 悪意がない分、深く刺さる。

 俺はバレンタインコーナーから目をそらし、衣料品売り場へ向かった。


 目的は靴下。

 余計な寄り道はしない。

 休日に外出した時点で、俺にしては十分なアクティブさである。


 靴下はすぐに見つかった。

 黒の無地、三足セット。

 社会人の味方。

 個性はないが、穴もない。


「これでいいか」

『耐久性、価格、汎用性を考慮し、妥当な選択です』

「靴下購入にそこまで評価されると、逆に悲しくなるな」


 会計を済ませ、袋を受け取る。

 これで本日の目的は達成された。


 帰って寝てもいい。

 そう思ったのだが、ふと胃のあたりが鳴った。


「……ついでに食材も買っておくか」

『賢明です。近頃、ヒール使用後の空腹頻度が増加しています』

『眠太さん、すぐお腹ぺこぺこになりますもんねぇ』

「誰のせいだと思ってる」

『治癒には対価が必要ですぅ』


 ヒーラは悪びれない。


 実際、最近の俺は食費が増えた。

 ヒールを使えば腹が減る。

 精神回復でも腹が減る。

 ちょっとした疲労回復でも腹が減る。


 つまり、俺の財布は世界の理不尽とスキル社会の影響を同時に受けている。


「保存がきいて、すぐ食べられて、カロリーがあるもの……」

『チョコレートが該当します』


 アナの声に、俺は足を止めた。

 チョコ。


 確かに、栄養補給という意味では悪くない。

 糖分が取れるし、個包装なら職場にも置ける。

 ヒール後の緊急補給食としては、かなり都合がいい。


「……バレンタインとか関係なく、非常食としてならありだな」

『自己弁護を確認』

「うるさい」


 俺は菓子売り場へ向かった。


 バレンタイン前の菓子売り場は、予想以上に混んでいた。


 女性客が多い。

 親子連れもいる。

 カップルらしき二人組もいる。


 そして俺は、黒い靴下の袋を持ったまま、チョコの棚の前に立っている。

 完全に場違いだよな。


「……補給食。これは補給食だ」

『発言内容に自己暗示の傾向があります』

「事実確認のための発声だ」

『眠太さん、板チョコもいいですけどぉ、ナッツ入りも腹持ちがよさそうですよぉ』

「それは有益な意見だ」


 俺はナッツ入りチョコを手に取った。

 次に、個包装の大袋。

 さらに、糖分補給を売り文句にしているチョコバー。


 よし。

 完全に非常食だ。


 そう自分を納得させていた、その時だった。


「あれ、灰谷くん?」


 聞き慣れた声に、俺は固まった。

 振り向く。

 そこにいたのは、水瀬綾だった。


 休日仕様なのか、会社で見るより少し柔らかい雰囲気の服装をしている。

 髪もいつもよりラフにまとめていて、なんというか、その。


 仕事中より、近づきやすい。

 いや、違う。

 近づきやすいとか、そういう分析をしている場合ではない。


「……水瀬さん」

「偶然だね。買い物?」

「靴下を買いに」

「チョコ売り場で?」

「靴下を買ったあと、人生に必要な栄養について考えた結果です」

「なにその遠回りな言い訳」


 水瀬さんがくすっと笑う。

 その笑顔を見た瞬間、頭の中でヒーラが妙な声を出した。


『まあまあまあまあ』

「黙ってろ」

「え?」

「いえ、こっちの話です」


 危ない。

 休日のショッピングモールで脳内同居人に返事をしていたら、完全に不審者だ。


 俺は平静を装いながら、彼女のカゴに目を向けた。


 そして、固まった。


 チョコが多い。

 やけに多い。


 板チョコ。

 個包装チョコ。

 ナッツ入り。

 ビター。

 ミルク。

 ホワイト。

 チョコバー。

 なぜかプロテイン入りまである。


 業務用ではない。

 だが、個人用にしては明らかに量がおかしい。


『大量のチョコレートを確認』

『バレンタインの準備でしょうかぁ?』

『意中の人物、もしくは交際相手の存在が推測されます』

『まあまあまあまあっ』


 やめろ。

 頭の中で勝手に恋愛会議を始めるな。


 俺は口を開きかけて、閉じた。


 水瀬さんが誰にチョコを渡そうが、俺には関係ない。

 関係ないはずだ。


 なのに、なぜか一人の男の顔が浮かんだ。


 神代先輩。


 仕事ができて、顔もよくて、基本的には完璧超人。

 最近は感覚強化スキルのせいで疲弊しているが、それでも社内での人気は高い。


 水瀬さんが神代先輩にチョコを渡す。

 想像しただけで、胃のあたりが妙な感じになった。


「……誰かに渡すんですか?」


 気づけば、そんなことを聞いていた。

 彼女が瞬きをする。

 そして、すぐにいたずらっぽく目を細めた。


「気になるの?」


 心臓が変な音を立てた。


『心拍数上昇』

『顔面温度も上がってますねぇ』

『照れ反応と推定』

「違う」

「違うんだ?」

「あ、いや、今のはこっちの……」


 終わった。

 社会人としての会話処理能力が、休日仕様で低下している。


 水瀬さんは口元を押さえて笑った。


「灰谷くん、たまにすごく分かりやすいよね」

「よく言われ……ませんね。今初めて言われました」

「じゃあ、初観測だ」

「観測しないでください」


 俺は咳払いをした。


「その量だと、さすがに気になりますよ。業者かと思ったので」

「業者って」


 彼女はカゴの中を見下ろしたあと、少しだけ声を落とした。


「半分は自分用、かな」

「半分は?」

「営業二課の非常食」

「……非常食」


 思わず復唱してしまった。

 水瀬さんは小さく頷く。


「灰谷くん、ヒール使ったあと、お腹空くんでしょ?」

「まあ……そうですね」

「神代先輩も、感覚が鋭くなりすぎて食事が雑になってるみたいだし。相沢さんも集中しすぎると休憩忘れそうだし」

「それでチョコを?」

「置いておけるし、すぐ食べられるし、ちょっと気分も上がるかなって」


 水瀬さんは、何でもないことみたいに言った。

 でも、俺は少し返事に詰まった。


 俺の空腹のことを、覚えていてくれた。

 それだけじゃない。

 神代先輩や相沢さんのことまで見ている。


 彼女は、やっぱり周りをよく見ている。


「……俺のため、ですか?」


 聞いた瞬間、自分で失敗したと思った。


 なんだその言い方。

 重い。

 休日のチョコ売り場で、何を言っているんだ俺は。


 水瀬さんは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。


「全員のため」

「ですよね」

「でも、灰谷くんは多め」

「……なんでそこで追加情報を出すんですか」

「気になるみたいだったから」


 やめてほしい。


 アナ、ヒーラ、俺の心拍数を実況するな。

 頼むから。


『感情分類:安堵、羞恥、期待。比率算出中』

「算出するな」

「またこっちの話?」

「……はい。今日も騒がしくて」


 水瀬さんは少しだけ表情を和らげた。


「そっか。二人とも元気?」

「元気すぎます」

『元気ですぅ』

『稼働状態は良好です』

「ほら、返事してます」

「聞こえないのが惜しいね」

「聞こえたらたぶん疲れますよ」

「灰谷くんは?」

「え?」

「疲れてない?」


 不意に、声の温度が変わった。


 さっきまでのからかうような調子ではない。

 少しだけ、心配そうな声だった。


 俺は、手に持っていたチョコバーを見下ろす。


「……今日は休みなので。まあ、そこそこ」

「そっか」


 彼女は短くそう言って、棚から小さな個包装チョコの袋を取った。


「じゃあ、これも買っておこうかな。灰谷くん用」

「ヒール後の緊急補給用、ですよね」

「うん」


 そこで水瀬さんは、少し間を置いた。


「……今、ちょっと残念そうだった?」

「いえ、べつに」

「即答だ」

「社会人は処理速度が命なので」

「便利な言い訳だね」


 楽しそうに笑う。

 その笑顔に、俺は何も言えなくなる。


 たぶん、魅了スキルは発動していない。

 少なくとも、アナは警告してこない。


 それなのに、心臓のあたりが落ち着かない。

 スキルではないなら、これは何なのか。


『恋では?』

「ヒーラ」

『あらぁ、違いました?』

『現時点では断定不能。ただし可能性は――』

「アナまで乗るな」


 俺は頭を抱えたくなった。

 彼女は不思議そうに首を傾げる。


「本当ににぎやかなんだね」

「はい。まぁ、怒鳴られるよりはマシですけど」

「ちょっと羨ましいけどなぁ」

「怒鳴られるのが!?」

「そんなわけないでしょ」


 水瀬さんが笑う。

 俺も、少しだけ笑った。


 その後、なぜか俺たちは一緒にチョコを選ぶことになった。


「これは?」

「高いですね」

「非常食を値段で判断するの?」

「非常食だからこそ継続性が大事です」

「じゃあ、これは?」

「甘すぎそうです」

「灰谷くん、意外と細かいね」

「食費に関わることなので」


 水瀬さんが選ぶ。

 俺が現実的な意見を出す。

 ヒーラが「これ美味しそうですぅ」と言う。

 アナがカロリーとコスパを計算する。


 非常に混沌としていた。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 会社ではない場所で、水瀬さんと話している。

 ただチョコを選んでいるだけだけど、妙に休日らしかった。


 会計を終え、モールの出口近くで水瀬さんと別れることになった。


「じゃあ、また月曜に」

「はい。月曜に」


 そう言って別れようとした時、水瀬さんが「あ」と声を上げた。


「灰谷くん」

「はい?」


 彼女は自分の袋から、小さなチョコを一つ取り出した。

 赤い包み紙の、何でもない一粒チョコ。


 それを、俺に差し出す。


「はい」

「……これは?」

「今日、偶然会った記念」

「そんな記念あります?」

「今できたの」


 俺は、受け取っていいのか分からず、一瞬止まった。

 彼女は少しだけ視線を外し、照れ隠しみたいに言った。


「非常食だから。ちゃんと持っておいて」

「……分かりました」


 俺が受け取ると、水瀬さんはいつものいたずらっぽい顔に戻った。


「本番は、まだ先だから」


 その一言で、俺の思考は完全に停止した。


『心拍数、急上昇』

『まあまあまあまあまあまあ』

『状況評価:非常に興味深い』

「お前ら、頭の中で祭りを開催するな」

「また何か言われてる?」

「だいたいそんな感じです」


 水瀬さんは満足そうに笑った。


「じゃあね、灰谷くん」

「……はい。また」


 彼女は手を振って、人混みの中へ歩いていった。

 俺はしばらく、その背中を見送っていた。


 手の中には、小さなチョコが一つ。


「……非常食、だよな」

『否定材料:不足』

『甘いですねぇ』

「チョコだからな」

『そういう意味ではありません』


 俺はチョコをポケットにしまった。


 休日に靴下を買いに来ただけのはずだった。

 なのに、帰りの荷物は靴下と食材と、なぜか妙に大事に扱ってしまう一粒のチョコ。


 これを非常食と呼ぶには、少しだけ無理がある気がした。


 でも。

 まあ、いいか。


 俺はショッピングモールを出て、冷たい風の中を歩き出した。


 月曜からまた、会社が始まる。

 鬼頭課長は怒鳴るだろうし、メールは溜まるだろうし、スキル絡みの面倒事もたぶん増える。


 それでも、ポケットの中にある小さな甘さを思うと。

 ほんの少しだけ、次の出勤が嫌じゃない気がした。


『発言内容に矛盾を確認。出勤を嫌がらない灰谷眠太は、通常状態から逸脱しています』

「うるさい」

『恋ですねぇ』

「非常食だ」

『恋ですぅ』

「非常食だって言ってるだろ」


 俺は、誰もいない歩道で小さくため息をついた。

 休日のチョコは非常食。

 そういうことにしておいてほしい。

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