第9話 (その2)
10月6日土曜日、いい加減ファックスを読むのに疲れた弘明は部屋を出ることにした。むしゃくしゃした気持ちで仕事などする気にならない。バックの底に仕舞っていた黄色のウインドブレーカーを出すと、襟なしだが撥水性の生地は皺もなくさっぱりと着られた。
これは妻が買ってくれたのだと思うと、すぐさま弘明は腕時計を見た。時間は午後3時、7時間の時差だから日本は10時過ぎ。まだ深夜ではないが、こんな時間に電話してもと思うと、弘明は胸ポケットを確認して部屋を出た。
ロビーへ降りてフロントに鍵を預けようとした弘明は、脇に置いてある観光地図を見つけた。
「Can I get this map?」
と、フロントに一声掛けて手に取ろうとして、その横のラックに立て掛けてある観光ツワーの案内を一冊手に取った。
(そうだ明日は日曜日)と思うと、それをフロントに翳した。
すると奥で見ていた女性が笑顔で近寄り、
「明日のツワー、予約しますか?」
と、声を掛けてきた。
人間ひとりで生きている訳ではない。やはり弘明も人の子、人恋しさが募っていたのか、そのままカウンターにツワーの案内書を広げていた。思えば長期出張中、若い女性に接するのは初めてのこと。あくまで営業用の笑みを浮かべる女性なのだが、弘明にしてみれば特筆すべき出来事だった。
その女性、ブロンズの髪をポニーテールにして、白い肌の頬に薄く浮かぶソバカスが愛らしい。弘明を見る碧い目は澄んでいた。そんなうら若き女性に対して、珍しく流暢な英語を使う弘明は、迷うことなく彼女が勧める6時間の半日市内観光ツワーを申し込んだのだった。
気を持ち直した弘明は、最初にもらったカラフルな市内観光マップを手にして、アドミラルホテルから波止場へ回った。そこにはいつの間に入港したのか、赤と白のツートンカラーをした大型フェリーが停泊していた。
岸壁を歩きながら、弘明は時と場所を得たことに満足していた。別に船に乗って航海したいと思うのではなく、聳え立つ船体の構造や真っ白なブリッジの構造を思い描くだけで、頭の芯が研ぎ澄まされる。きっとアドレナリンが湧き出すのだろう、得難い幸福感に包まれていた。
勢い弘明の歩みは軽くなり波止場から海へ向かって歩く。明日は郊外の観光ツワーを予約しただけに、今日は近場にしようと人魚姫の像を目指した。
空は雲に覆われ気温は下降気味だったが、弘明の心は晴れ渡っていた。
(つづく)




