【第三話】法の中で抗う意志
「待てー!逃がすなー!」
小雨が降り頻る曇天の空の下、雨で普段より静まり返る住宅街を複数の人の足が音を響かせる。忙しない音を立てて駆けるひとつの足は、住宅街特有の曲がり角や路地裏を巧みに使い、後ろから迫る足音達から逃げるように響かせ続けていた。
「くそっ、速いな…!」
「応援は呼んである!
うまく包囲できればそこで捕まえられるはずだ!」
「逃走の際に負傷させられた仲間もいる!
市民に危害が加わる前に捕まえるぞ!」
複数の警察官が駆ける前、黒い帽子とマスクをつけた不審な黒服の男が逃げている。風貌からして、現行犯で追われているのだろうその男は、土地勘があるのか、複数の警察官の追っ手を撒く為に様々な道や方法で逃走を続けていた。
「へっ。警察官サマとはいえ、この程度なら撒けるな。
全然ついて来れてねぇじゃんかよ」
追いかける警察官を振り返るくらいの余裕さえ見せ、鼻で笑うように言い捨てる男。この先の大通りに出れば駅が近く、人混みに紛れて逃走が成功できる確信があるようでニヤリと笑った。
応援のパトカーのサイレンも遠くだ。
大通りに出る裏道があることなんて知らないのだろう。
バカな警察だ。
勝利を確信した男は大きく笑いそうになるのを必死に堪え、せめてもと、嘲笑うように強く短い息を吐いた。
そこへ、大通りに出る道を塞ぐようにシルバーの車が横付けするような形で停車し、出口を塞いだ。
突然道を塞ぐように現れた車に驚き男が足を止めると、運転こそ素早く飛び込んで横向きに停めたというのに、開かれるドアはゆっくりで、そこから降りてきた淡い茶色のコートを着た男性の動作さえのんびりとしていた。
巧みな運転テクニックだったというのに、その後のゆっくりとした展開全てが逆に威圧感さえ覚えるほどに……。
「やぁ~っと追いついたよ。強盗犯くん」
動作と比例するようにのんびりとした口調でそう言ったのは、捜査一課長の戸張だった。
"強盗犯くん" と呼ばれた男も最初は酷く警戒していたが、戸張の気怠そうな態度が "追い詰めた" と思った油断のようにも感じ、車で道を塞がれた驚きで失っていた力を全身に取り戻す。
それに対して戸張はなにも変わらず、カツカツと革靴を鳴らしながら一定の距離まで足を進める。
「もう逃がさねぇぞ?
うちのかわいい部下達を傷つけた落とし前は、
しっかり付けてもらわんとなぁ?」
ゆったりとした口調ながらも強い圧力を隠すこともせず、ただ者ではない雰囲気を男もすぐに察することになる。むしろ口調は戸張の方がヤクザだ。
直線の道でまっすぐ相対する戸張と強盗犯の男だが、左側はガードレールが張られ、その向こうは民家の石垣。右側には脇道もあるがガードレールが張られており、駆け込むには越える必要がある。後ろから警察官の追っ手が来ていることを遠くに見た男は、前にいるのが戸張ひとりなことを見抜けば正面突破を狙った。
「おっさんひとりで何ができるってんだよ!
痛い目見たくなければそこをどけぇッ!」
男が上着に手を突っ込んだと思えば即座に折り畳み式ナイフを開いて構え、振りかざしながら戸張へと突っ込んで行く。対する戸張も一瞬こそ表情が強張ったがすぐに凛々しさを宿し、ゆっくりと、だが確実に、構えられたナイフの挙動を読む為に男を凝視して緩く身構えた。
「どかねぇってんならどうなっても――、っ!?」
戸張ひとりを目掛けて距離を詰めていた時、右側の脇道に繋がる方向で影が動くのを視界の隅で捉える。ガードレールの向こう、脇道の影からなにかが飛び出した。
警察の応援か!?と男が足を止めて振り返った時、ガードレールの上に片手だけをついては、ばさりとコートの裾を翻しながら飛び越える人影が目に飛び込んできた。
人影。そう、人だ。
そう理解した時には既に遅かった。
飛び込んできた影が人だと理解したと同時に、ナイフを握っていた右手首に鋭い痛みが電気のように駆け抜ける。あっという間に至近距離へと侵入を許してしまったことに驚いていた瞬間の出来事で、反射的に手を離したナイフは遠くへと弾き飛ばされていた。
「なっ、ん……!?」
「隼人!ナイスだ!」
男から弾き飛ばされたナイフをすぐさま戸張が足で踏んで止めると、隼人は怯んでいた男をすぐさま地面へ押さえ込んで確保する。
「浮木田 大輝。
住居侵入、および強盗未遂の罪で逮捕する」
隼人が低く覇気のある声で罪状を告げ、素早く後ろ手に捕らえれば、最初こそ暴れていた男も観念したのか、途端に大人しくなり体から抵抗の力が抜けた。
「くそっ……!あともう少しだったのに……!」
押さえ込まれたまま、悔しそうに吐き捨てた浮木田は地面を拳で殴り付けていた。
彼は、とあるマンションへ侵入しようとしていたところを住民に見つかり、住民が声をかけたら逃走したという。
「残念だったな。
雨だから人目が少ないと思ったんだろうが、
人の目っていうのは侮れないんだよ」
特別感情を含まず、逮捕できた安心感や勝利さえ感じさせない淡々とした言葉を、これが現実だと言わんばかりの圧力で浮木田へ言い投げる。
言葉を向けられた浮木田は悔しそうに地面に伏したまま、それ以上の言葉も抵抗も示さなかった。
確保はできた。あとは聴取をして動機や目的を吐き出させるだけだ。
「いやぁ~かっこいいねぇ。色男は憎いなぁ~。
助けられちゃったら俺まで惚れそう」
凶器のナイフをハンカチ越しに持って袋に入れながら、「なんてな。はははっ」なんて続ける戸張の間の抜けた呑気な声が近づいて来る。ので、隼人は冷ややかな目線を向けるだけで無言を貫いた。
そんなことをしていたら、追いかけていた警察官も合流した為、浮木田の連行は彼らに任せることにする。その間も浮木田は暴れる様子もなく、これで順調に事件は終結するだろうとその背を見つめていた。
「よぉ~っし。あとは聴取で動機を引っ張り出すだけだな。
強盗目的だろうが、マンションを狙うなんて無謀すぎんだろ」
連行される浮木田の背中を見つめたまま微動だにしない隼人の隣で、戸張はのびーっと腕を伸ばしながら疑問を零す。
いまだ強い緊張感を持ったままの隼人と、その隣でリラックスモードに入っている戸張は真逆の状態で並び立っていたが、隼人の一言で戸張の緩みモードに一本の糸が張られることになる。
「外付けポストの所で目撃されたんでしたっけ」
マンションなどの集合住宅でよく見かける、一階に揃う集合ポストの前に浮木田はいたという。そこに見慣れぬ黒服の怪しい男が突っ立っていた為、不審に思った住民が様子を見ていると、手元に光る物を使ってポストを抉じ開けようとした為、声をかけたら逃走し、通報された。
つまり、浮木田にとっては抉じ開けようとしたポストの家の住民になにか訳があったのは明白であり、不特定多数の人が住むマンションの中で、たったひとつの家を狙った犯行にもなにか強い目的、訳があるはずだろう、と。
本当に強盗なのか、またはストーカーか。
そして浮木田が零した「あと少しだったのに」。
侵入まであと少しだったと考えれば、強盗でもストーカーでも辻褄は通る。または純粋に逃走まであと少しだったのに、という意味かもしれない。だが、浮木田は確保してすぐに抵抗を諦めていたように見える。
すべての事の流れが妙な違和感を伝えているような気がして、隼人はまだこの事件の終わりを感じていなかった。
浮木田の背中を眺めながら、ひとり静かに推理を進めていると、その姿を横から心配そうに見つめていた戸張は、不意に低く静かなため息を落とす。
「……なあ、隼人。本当にやめる気はないのか?」
深刻そうなのに不明瞭な言葉。
途端に落ちた戸張の真剣な声に、疑問を向けるように今初めて隼人は戸張を振り返ると、戸張から返される眼差しは労るような色を強く宿しているように見えた。
隼人だけはその意味がわかっていた。
今までも再三似たような言葉を言われてきたが、言葉は毎回多少の差異があっても、労るような彼の瞳は同じだったから。
「やめる気なんてないですよ。
俺は刑事になった時から、あの事件を……。
いえ、最初から、天柳院事件の真実を探す為に刑事になったんです。
たとえその結果、先輩や上司を苦しめても、
周りから疎まれようとも、俺はやめません」
戸張の労る視線を受けながら、隼人は少しだけ視線を斜め下に落としながらもハッキリと断言した。
再三忠告しても再三拒否してくる隼人の姿を見るのは、もう何度目だろう?彼の強い意志から吐き出される決意の言葉を聞くのは、もう何度目だろう?
――俺みたいなおっさんから見ても、かっこいい奴だねぇ。
なんて、戸張は心の中でそっと笑った。
実際に上部は、18年前の警察の失態を掘り起こされ、気分の悪い人がいるのは事実だ。隼人に直接忠告する者もいれば、直属の上司の戸張に嫌味を言ってくる者もいる。戸張はいわゆる板挟み状態であり、上が忠告しているからこそ、一応は自分からも言ってますよーという建前の気持ちが強い。
だが、周りと同じように忠告してくる戸張に対して、隼人が戸張のことを他の上部の人間と同じように思っているのか、彼の隠れた本心に気付いているのかはわからない。
ただ、いつも戸張の忠告には目線を逸らすのは知っている。
他の上部に忠告されている時は、まるで食らいつくように目線をまっすぐ合わせて言い放つのに、今回も同じように逸らされたなと。
そんなことを考えながらも変わらない隼人の強い姿に、「ま~、お前はそういう奴だよなぁ~」なんて呆れながらも笑って頭を掻いた。
だが、今回は違った。
いつもなら戸張が諦めた素振りをすれば「署に戻りましょう」と隼人が話を打ち切るのに、今回はその声が飛んでこない。
どうしたのかと様子を見ていたら、「その為だったら、俺は……」と影に表情を隠したまま呟くと、途端に顔を上げ、初めて戸張をまっすぐ見据えた。
「誰かに怨まれ、殺されても構わない」
「ッ…………」
無意識に息を飲んだ。
それほどの覚悟を抱いて突き進んでいた事実に。
初めて自分にまっすぐ視線を合わせて話してくれたことに本気を感じたが、戸張の表情はすぐに真剣な顔に戻り、いつになく低く、緩さを一切感じない声で隼人と向き合った。
「未来ある若造が、簡単に命を投げ出すことを言うんじゃねぇ。
信念を貫いて、野望を叶えようとする姿は立派だが、
己の信念に甘えるな。野望に溺れるな。
必死に戦って、必死に生きてこそ、本当の勝ちだ」
それはどこか怒ったような色を含み強く言いつけられたが、底にあるのが優しさと心配故であり、今までは口にすることはなかった戸張の柔らかい面だった。
いつもは一切口にせず、心配そうとか、労っているような、という曖昧な優しさだったもの。それが今は、本来の戸張の想い、本音を見せているように思えた。
初めて聞いたかもしれない戸張の力強い真剣な言葉、その意味に、隼人はハッとしたように強い表情を崩す。
「……すみません。生意気言って」
さっきまでの力強い瞳はどこにいったのかと思うほど。普段、上の忠告に噛みつく根性はどこにいったのかと思うほど、戸張の優しい忠告を素直に受け止めて視線を落とした隼人。
そんな姿が珍しくも可愛らしく映り、真剣に言い聞かせていた戸張も表情を緩め、「はははっ」と笑った。
「わかればいいんだよ、わかれば。
俺は課長だから表立っては協力できないが、
なにかあったら話くらいは聞くぞ~」
なんて、やはり最後はゆるゆるな口調で締めてきた為、締めたはずなのにしっかりと締まらない。そんな見慣れた戸張の姿と声を聞けば、緊張感を纏っていた隼人にも柔らかい笑みが口元に浮かんだ。
やっと緊張感から解放された隼人を見たあと、戸張は車に戻るというので隼人も後をついていき、共に車に乗り込んだ。
その車内では事件の話がされると思ったのだが、走り出すや否や、犯人確保の時の隼人の行動を褒めるようなからかうような言動が戸張から溢れ出たという。
「俺が刺されるかも~って時に、
ガードレールを飛び越えて駆けつけるのは反則だよなぁ~」
「若いイケメンはなにしてもサマになるよなぁ~」
「お前に見入っちゃって刺されたらどうすんの~」
などなど。
後部座席でスマホ片手に情報整理の為に頭を働かせていた隼人は、次々にゆるーい感想に邪魔され続け、とうとう「あーもういいですから!」と半分キレかけていた。
その後二人が車で向かったのは、浮木田が訪れていたマンションだった。
浮木田の聴取は他の刑事達に任せ、隼人と戸張は、もしかすると被害者になっていたかもしれない狙われた人を探り、その人にも事情を聞こうと調査をしに来ていた。
幸い、通報してくれた住民が在宅だった為事情を聞き、あらかたの場所を聞いて表札を眺めていると、ある名前に目が止まる。
いや、隼人は知っていた。
というより、警察ならば全員知っている名前が目の前にあった。
――『白波』。
戸張と隼人が所属する警察署。その上官の名字だった。
警視長官、白波 寛五朗。
長官らしく威厳は持つものの人当たりは柔らかく、優秀な若手の育成にも協力的で、警察学校ではひとりの教員としても頻繁に赴いている男性だ。
いやしかし、そんな長官が極普通のマンションにしれっと住んでいるだろうか?長官レベルとなると一軒家にどーんと住んでいるイメージもあった。
珍しいが、同じ名字の別人か?
そんな不躾にもイメージで色々と邪推してしまった二人だったが、長官本人ではないだろうと考えに至れば、次にポストの状態に目が止まる。
浮木田が抉じ開けようとした痕跡。
それは確かにあった。
しかし、白波のポストだけではなく他にも複数とその痕跡があったのだ。
「以前からポストに傷をつけられている話は何件かあったんです。
みんなで怖いねって話していて、
管理人さんにも修理をお願いしたのですが、
今回犯人が捕まってくれて安心しました」
通報者である年配の女性が説明してくれる話を聞くと、今回ポストが抉じ開けられようとしたのは初めてではないようで、何度か雨の日に似たような黒服の男がいたという。
しかし、実行現場を見たのは今回が初めてで、咄嗟に声をかけたらしい。
「こんなにポストが満遍なく傷つけられているとなれば、
本当の狙いは、誰でもよかったんですかね」
改めてポストを眺めながら隼人が戸張へ問うも、戸張からの返事はすぐに返らなかった。戸張は口を閉ざしたままポストや辺りを見渡したあと、「いや……」と小さく低く呟く。
そして、やはり『白波』の表札があるポストの角、鍵のダイヤル付近を指差した。
「満遍なく狙ってるのを装ってるが、
一番被害が多いのはここだ。
他は一方向や一回で引っ掻いたような痕だが、
ここは何度も、色んな方向からやられてるだろ?」
「ああ……。本当ですね」
引っ掻き傷の痕。その違和感に戸張は気づいていた。
他のポストは一方向に何度も引っ掻かれていたり、一度の接触のままギザギザと何度も引っ掻いた痕が目立つ為、これが偽造だと戸張は考えていた。
言われて隼人も至近距離で傷の確認をしていたが、少しもしないあとに「なるほど……」と小さく頷いたところを見ると、どうやら戸張の予想に隼人も同じことを考えたのだろう。
対する白波の表札のポストは、引っ掻くというよりも抉るように様々な方向から傷がついており、よく見ると異質さが残っていた。
そして更に戸張は指の位置を変え、もうひとつを示した。
「……あと、ここもだ」
隼人にしか聞こえないような声で、低く、ぽつりと放ち、戸張の指が示した場所。そこに出されていた表札の名前にも見覚えがあった。
隼人はその名前に驚く様子もなく目を細め、どこか強く向き合うような目でそのポストを見た。
そんな隼人の様子を、視線を、隣で戸張は目線だけ向けてしっかりと見ていた。
「あれ?刑事さんですか~?
もしかして、ポストのことですか~?」
緊張感で静まり返っていた場所に、明朗で緩い口調の女性の声が届いた。
その存在に緊張の糸がプツリと切れたように隼人と戸張は振り返れば、二人に向かって若い華やかな女性が高いヒールを鳴らしながら軽快に向かい来ている。
面識はない。おそらくこのマンションの住人の女性だろう。
「おやおや。キレイなお嬢ちゃんだなぁ~。
ここの人かぁ~?」
戸張は前へ進み出て、途端に緩さMAXに振り切った口調と笑みでその女性へ声を返した。
「そう!あたしはここに住んでるの。
ここのポスト酷いでしょー?
管理人さんが業者へ頼んでくれたみたいだけど、
まだ直ってないの」
「おじさんも直接見てビックリしたって。
男が抉じ開けようとしてるって通報を受けたんだが、
特に被害が大きい家に話を聞きたくてねぇ」
「あ。それならあたし話せるよ!なんでも聞いてー!」
「え?」
女性の明るい笑顔と声に戸張と隼人が揃って声を上げると、様子を見ていた通報者の女性が笑いながらあることを教えてくれた。
「この子が白波さんですよ」
「はじめまして!白波 舞子です!
警視庁長官の寛五朗の娘です!」
「えっ!?」
二度目の二人の「え」の意味は、急ハンドルを切られたかのようにまったく別の意味を含んだ音になってしまった。
それもそうだ。白波とは珍しい名字だなとは思っていたが、まさか自分達の上司の娘とは想像もしてなかった。
なにより戸張は相手に合わせたからか、舞子の華やかな姿に気が緩み、同じくらいの緩い口調を向けてしまっていた。だからこそ、今さらながら至極真面目な姿勢で訂正と謝罪をしている。
しかし舞子は何も気にしていないようで、「いいよいいよー」なんて相変わらず緩く笑っていた。
そんな戸張を置いておいて、特に会話に参加せずに傍観していた隼人は、ふと、あることに予測が立つ。
「長官の娘を狙っていたとしたら、狙いは警察なのか……?
だけど、なんのために……」
ひとり熟考を始めた隼人の言葉を拾った戸張は謝る姿勢を正し、舞子へとまっすぐ向き直る。
緩い口調や表情、焦りながら必死に謝る姿だけを見てきた舞子にとって戸張の真剣な表情は初めてであり、その雰囲気に当てられてか、舞子も少しだけ驚いたように静かに戸張を見上げていた。
「お嬢ちゃんはこの男に見覚えはあるかな?
特にポストが傷だらけなのはお嬢ちゃんの家だし、
狙われる理由があると思ってるんだが……」
戸張が見せた写真は浮木田のものだった。その写真を見た舞子はじっと眺めるように見たあと、ゆっくりと首を左右に振る。
「ううん。知らない。狙われる理由もわからないの。
あたしの家のポストが酷いことになってから、
ずっと怖くて……」
「舞子さん、一人暮らしだから……。
ストーカーかと思って私も気をつけていたんです」
通報者の女性が捕捉するようにマンションの近況を告げると、今まで明るい様子を見せていた舞子は俯き、小さな弱々しい声で震えていた。
無理もないだろう。一人暮らしの女性の家に、ポストを強引に抉じ開けてまで何者かが入ろうとしていたなど、普通に考えても怖すぎる。
浮木田がストーカーなのか、それとも恨みがある者なのかはまだわからないが、なにか目的がなければこんなことはしないだろう。だが、舞子には心当たりがないとなれば、父親や警察への恨みが娘に向いたか、ストーカーだ。
舞子に聞けることは少ない。そうすぐに切り替えた戸張は、次の疑惑の人のことを聞こうとした。
「それなら、この、417号室に住んでる――」
「ああ、その人?あたしの友達よ!
彼女忙しくて、夜遅くに帰ってきては朝早く出てくからあんまり家にいないんだけど、
あたしのわかることなら話すよ!」
「おお!ありがたい。それじゃあまず……」
「けど……。んーー……」
「……ん?」
話の途中、謎の視線を感じた。
質問をしようとした戸張を見上げながら唸る舞子は、まるで品定めをするように凝視し、それが終われば後ろの隼人へと視線を移す。
いったいなんなのだろう?
二人の頭にその言葉がお揃いに並んだ時、舞子は明るい様子を更に明るくし、ふわりと巻いたブロンズの髪を跳ねさせた。
「よく見たらめちゃくちゃイケメンじゃん!
特に後ろのお兄さん!あたしの好みかもー!」
「……はあ……」
緊張感の『き』の字もないくらいハイテンションに言葉を投げられた隼人は、そのノリに頭がついていかなくて素っ気ない返事しかできなかった。
すると、二人の間に挟まれている戸張が「かーーっ」と謎の声を強く放つ。
「どいつもこいつもコイツばかり選ぶんだよなぁー!
イケメンだとは俺も思うが、俺だってよくねぇ!?
どこかに渋いおじさまが好きーって美女はいねぇのかよぉ!」
突然の戸張の不満の心の声が爆発した。
とても刑事とは思えぬただのおじさん発言に、隼人も、舞子も、通報者の女性も驚いたように戸張を眺めている。
隼人からしてもこんな戸張は初めて見たのだろう。最初こそ素直に驚いてしまった。だがすぐに目がジト目に変わると、本当に小さな声で戸張の背中に呟きかけた。
「課長……、自分で言っちゃうのかよ……」
俺だって良い。渋いおじさま。つまり、イケオジというやつだと大声で公然発言したも同然だ。
とはいえ、戸張は署内でもそういう意味でモテる存在ではある。が、日頃がだらしなく緩すぎるせいで、戸張の本気さえ冗談に捉えられて本気にされないことが多い。全部自分で蒔いた種なのだが。
突然嘆き出した戸張の前、現実に戻ってきた舞子は堪えられず小さく吹き出すと、そのままくすくすと笑い出していた。
「おじさまもイケメンよ!
だから、彼女のことも教えてあげる!」
「おおお……!お嬢ちゃんは女神か……!?」
舞子の嘘偽りない素直な言葉に、戸張は謎の語彙力で謎の褒め方をした。そんな二人のやりとりに通報者の女性も笑って見守っている。が、隼人はもはや感情がすっ飛んでいるようで、呆れているのか、くだらないものを見せられていると思っているのか、早く終われと思っているのかわからないが、とりあえず舞子の言う『彼女』の話をしろと先を望んでいるのは間違いなかった。
だが、その願いは予想外の方向でお預けを食らうことになる。
「その前に、あたし昼食がまだなの。
食事処でよければそこでお話するけど、一緒にどう?」
正直、隼人は乗り気がしなかった。この手の女性が苦手というわけではないのだが、今聞けないのなら先にやりたいことがあった。
だから隼人は特に反応も示さず、返事もせずにいたのだが、戸張は考える素振りもなく即座に行くことを承諾する。そして、情報をくれる対価なのだろうか。昼食を奢ることも素早く約束していた。
「お兄さんはどうするー?」
「いや、俺は他にやることがあるので遠慮しておきます」
「えー。残念ー」
戸張が行くことを決めたからか、隼人は素直に断ることを決めた。男二人が女の子ひとりを連れ歩き、食事をしていたら目立つだろう。なにより舞子がどんな目で見られるかもわからない。
浮木田に狙われていた可能性がゼロじゃない以上、下手に目立たせるのは危険だと思った。
そんな警戒を知るよしもない舞子は隼人が来ないことを残念がっていたが、戸張が食い気味に「おじさんがいるから許してやって」と弱った笑みで舞子へ謝っていた。
別に代わりに謝ってほしいとも思ってなかったが、舞子がそれで許して諦めたので、こっそりと感謝を心の中で告げておいた。
そのすぐあと、お腹を空かせた舞子が早く早くと急かし、戸張は腕を引かれて連れ去られた。
「隼人ーー!またあとでなーー!」
それだけを残して。
まだ年若い女性に、中年男性が連れ去られている様子を見たら、周りの目には、娘に振り回される父親のように映るのだろうか?それとも叔父か。
なにより、その手の犯罪者に間違われないことを願っておく。
残された隼人は通報者の女性にお礼を告げ、女性もぺこりとお辞儀をしてその場を去っていった。
隼人もそのまま署に戻って浮木田の話を聞きに行く、と思いきや、例のやりたいことを済ませる為にその場でスマホを取り出した。
すると、新着メッセージに戸張とあり、引きずられている途中に打ったのだろうそのメッセージを開く。
『こっちは任せていいから、お前はそっちの確認を頼む』
先ほどまであんなに舞子にデレデレしていた戸張だったが、届けられた文面は、彼の刑事の顔を浮かばせるほどしっかりとしていた。
その気持ちに応えるべく『任せてください。そちらもよろしくお願いします』と送信し、メッセージ画面を閉じた。
そのあとすぐに電話の画面を開き、とある名前をタップして電話をかける。
ポストに強引に抉じ開けようとした酷い痕跡があった、もうひとりの被害者候補。その名前は、隼人のアドレス帳に確かにあった。
そして、隼人は確かにここに来たことがあり、ポストの名前とアドレス帳の名前が同一人物だと確信があったのだ。
もし浮木田が舞子を狙うなら、その理由は先ほどのように簡単に浮かぶのだが、この者が狙われる理由がわからない。だからこそ、無事であることを願いながら電話をかけることを選んだ。
その名前とは――
『……はい。もしもし?』
電話越しでもわかる、少しだけ低い音を持ちながら落ち着いた声。長く聞いていなかったその声の変わらない様子を聞き、少しだけ胸を撫で下ろす。
「結城?突然悪いな。今平気か?」
その名前は、結城だった。
『はい、平気です。どうかしたんですか?』
気付けばしばらく聞いていなかったその声。
変わらない様子に、また事件に巻き込まれていないことを安心し、隼人はつい先ほど起きたマンションの事件に繋がるだろう、ポストの状態について話を聞いた――。




