第九話 燃える倉
沈遙が官倉へ駆けつけた時、すでに周囲は騒然としていた。
炎は倉の一つを包み込み、夜空を赤く染めている。
人々が桶を持って走り回り、井戸から水を運んでいた。
役人たちも必死に指示を飛ばしている。
「水だ!」
「こっちへ回せ!」
怒号と悲鳴が入り混じる。
沈遙も思わず列に加わった。
何度も桶を運ぶ。
火の勢いは強かった。
だが風が弱かったのが幸いした。
一刻ほどして、ようやく炎は収まり始めた。
焼け落ちたのは倉一棟だけだった。
人々の顔には疲労が浮かんでいる。
その時、誰かが叫んだ。
「捕まえたぞ!」
群衆がざわめく。
見ると若い男が縄で縛られていた。
二十歳そこそこだろう。
痩せた農民だった。
役人に押さえつけられている。
「こいつが火をつけた!」
徴税吏が怒鳴った。
周囲から怒号が飛ぶ。
「何てことを!」
「倉を燃やしやがって!」
だが男は反論しなかった。
ただ俯いている。
県令の周徳明も姿を現した。
彼は焼け跡を見回し、男の前に立つ。
「なぜやった」
静かな声だった。
男はしばらく黙っていた。
やがて顔を上げる。
「やってない」
周囲が騒ぐ。
「嘘をつくな!」
「見られていたぞ!」
男は唇を噛んだ。
そして絞り出すように言った。
「俺じゃない」
その目を見た瞬間、沈遙は妙な違和感を覚えた。
恐怖はある。
だが罪を隠す目には見えなかった。
県令も何かを感じたらしい。
しばらく男を見つめていた。
だが結局、こう命じる。
「牢へ入れろ」
役人たちが男を連れて行く。
群衆は次第に散り始めた。
騒ぎは終わった。
そのはずだった。
しかし沈遙は帰る気になれなかった。
焼け跡の周囲を歩く。
炭の匂いが漂っている。
ふと地面に目を落とした。
黒く焦げた木片。
焼けた縄。
そして――。
沈遙は足を止めた。
そこに落ちていたのは油紙だった。
防水のために使われる丈夫な紙である。
だが妙だった。
火元の近くに落ちていたのに、ほとんど燃えていない。
拾い上げる。
鼻を近づける。
油の匂い。
それも灯火用ではない。
もっと粘り気のある油だった。
沈遙は眉をひそめた。
火事は倉の外側から始まっている。
しかも複数箇所。
偶然の失火には思えなかった。
その時だった。
背後から声がした。
「学者先生」
振り返る。
趙万だった。
「何か見つけたか」
「少し気になることが」
商人は焼け跡を見る。
そして小さく言った。
「気をつけろ」
「何をです」
「こういう時はな」
趙万の顔から笑みが消える。
「犯人が必要になる」
沈遙は答えられなかった。
確かにそうだった。
倉が燃えた。
誰かが責任を取らねばならない。
民も役人も、納得できる相手を求める。
たとえ真実でなくとも。
夜更け、宿へ戻った沈遙は眠れなかった。
机の上には例の紙切れがある。
『実数』
という文字。
そして今日見た焼け跡。
火をつけたとされる若者。
頭の中で何かが繋がりそうで、まだ繋がらない。
その時、窓の外で小石の転がる音がした。
沈遙は顔を上げる。
誰かがいる。
急いで窓を開いた。
通りには人影が見えた。
あの旅の男だった。
男は立ち止まらない。
暗い路地へ歩きながら、何かを地面へ落とした。
そして振り返ることなく消えていった。
沈遙は急いで外へ出る。
男の姿はない。
だが落とされた物だけが残っていた。
それは小さな木札だった。
表にはたった一文字だけ刻まれている。
『監』――。




