第八話 実数
翌朝、沈遙は安河県の役所を再び訪れた。
目的は一つだった。
数字を確かめること。
役所の書庫には、その土地の税収や人口、収穫量が記された帳簿が保管されている。
都から派遣された官吏という立場を利用すれば閲覧は難しくなかった。
書庫の管理役は若い書記官だった。
沈遙が収穫記録を見たいと言うと、男は素直に帳面を運んできた。
記録は整然としている。
安河県。
昨年の収穫量。
今年の収穫量。
納税額。
貸し付けた穀物。
どれも数字は揃っていた。
むしろ見事なほど整っている。
沈遙は紙切れを取り出した。
『安河 三百二十』
帳簿をめくる。
だが三百二十という数字はどこにも見当たらない。
収穫量でもない。
人口でもない。
税額でもない。
沈遙は眉をひそめた。
「何かお探しですか」
書記官が声をかける。
「いや」
沈遙は紙を隠した。
まだ見せるべきではない気がした。
昼過ぎまで帳簿を調べたが成果はなかった。
役所を出る頃には空が曇り始めていた。
冷たい風が吹いている。
宿へ戻る途中、ふと官倉の前を通りかかった。
列は昨日より長かった。
その中に、またあの老人の姿があった。
沈遙は近づく。
「今日は何を借りるのです」
老人は苦く笑った。
「借りるんじゃない」
「では」
「返しに来た」
そう言って手にした袋を見せる。
中には麦が入っていた。
「米を借りて麦で返すのですか」
「足りない分は銭だ」
老人の顔には疲れが滲んでいた。
「それで暮らしていけるのですか」
老人はしばらく黙った。
そして小さく答えた。
「暮らすしかない」
沈遙は言葉を失った。
列の向こうでは子供が咳をしている。
母親らしい女が背をさすっていた。
誰も騒がない。
誰も怒鳴らない。
ただ静かに並んでいる。
その静けさがかえって重かった。
夕方、宿へ戻ると隊商の趙万が酒を飲んでいた。
「先生、聞いたか」
「何をです」
「北の砦だ」
趙万は声を潜めた。
「兵が増えてるらしい」
「噂ではなく?」
「今度は本当だ」
商人は情報に敏感である。
沈遙は耳を傾けた。
「荷を運んだ奴が見たそうだ。兵糧も武器も北へ送ってる」
「戦になると?」
趙万は肩をすくめた。
「知らん。ただ、戦になると思ってる奴は多い」
その夜、沈遙は部屋で紙切れを広げた。
安河、三百二十。
青柳、百九十。
北陵、四百十。
数字を見つめる。
そしてふと気づいた。
安河。
青柳。
どちらも自分が通ってきた町だ。
もし数字が人の数だとしたら。
官倉に並ぶ民の数だとしたら。
沈遙は立ち上がった。
机の上に帳簿を広げる。
安河県の人口は三千七百余り。
そのうち三百二十。
決して小さな数ではない。
いや、むしろ多すぎる。
胸の奥で何かが繋がり始めていた。
その時だった。
外から慌ただしい足音が聞こえた。
続いて誰かの叫び声。
沈遙は窓を開ける。
宿の前の通りを人々が走っていた。
「火事だ!」
誰かが叫んでいる。
方角は官倉だった。
沈遙は反射的に部屋を飛び出した。
冷たい夜風の向こうで、赤い炎が空を染め始めていた。




