第三十二話 祭りのあと
翌朝、沈遙はいつもより早く目を覚ました。
天幕の外へ出ると、草原には朝日が広がっていた。
昨夜の騒ぎが嘘のように静かである。
風は冷たかったが、どこか心地よかった。
集落では既に人々が働き始めていた。
馬に水をやる者。
羊を追う者。
乳を搾る者。
祭りの中断などなかったかのように、日常が戻っている。
沈遙は少し安心した。
昨夜の出来事が尾を引いているのではないかと思っていたのだ。
「起きてたか」
声を掛けてきたのはバルグだった。
木の器を差し出してくる。
搾りたてなのか、まだ温かい乳だった。
「ありがとうございます」
沈遙は受け取った。
しばらく二人で朝日を眺める。
やがて沈遙が口を開いた。
「昨日はご迷惑をお掛けしました」
バルグは鼻で笑った。
「本当にそう思うなら二度と神馬に触るな」
「肝に銘じます」
その答えにバルグは少しだけ笑った。
「まあ、お前のおかげで子どもは助かった」
「母親も感謝してる」
沈遙はほっとした。
昨夜はそこまで確認する余裕がなかったのだ。
「それなら良かったです」
「だが若い連中はまだ納得してない」
沈遙は苦笑した。
それも当然だろう。
もし都で誰かが重大な禁忌を犯したら、自分も同じ反応をするかもしれない。
その時だった。
後ろから足音が聞こえた。
振り向くと、一人の少年が立っている。
昨日助けた子どもだった。
母親らしい女性も一緒である。
少年は沈遙の前まで来ると、深々と頭を下げた。
何かを言っている。
意味は分からない。
だが気持ちは伝わった。
「礼を言ってる」
バルグが訳す。
沈遙は慌てて首を振った。
「私は当然のことをしただけです」
少年は顔を上げた。
そして懐から小さな石を取り出す。
白い模様の入った石だった。
大事にしていたものらしい。
少年はそれを沈遙へ差し出した。
「これは」
「やると言ってる」
沈遙は戸惑った。
だが断るのも失礼な気がした。
「ありがとう」
そう言って受け取る。
少年は嬉しそうに笑った。
昨夜の恐怖が少しだけ遠くなる。
昼になると、隊商の取引も終わりに近付いた。
革や羊毛が運び込まれ、代わりに塩や布が渡される。
柳月は忙しそうに帳簿を付けていた。
趙万は相変わらず大声で働いている。
平和な光景だった。
午後、出発の準備が始まる。
集落を離れる時間だった。
沈遙は最後にもう一度草原を見渡した。
ほんの数日しか滞在していない。
それでも忘れられない場所になった。
「また来い」
バルグが言った。
「次は問題を起こさずにな」
沈遙は笑う。
「努力します」
「努力じゃ困る」
バルグも笑った。
隊商が動き始める。
草原の人々が手を振る。
昨日まで怒っていた若者たちも、複雑な顔をしながら見送っていた。
沈遙はその姿を見て少し安心した。
完全に理解し合えなくてもいい。
それでも話をすることはできる。
別れ際、沈遙は記録帳を開いた。
『善意は必ずしも正しさではない。しかし善意を語り合うことはできる。』
そう書き終える。
隊商は南へ向かって進み始めた。
遠ざかる草原の集落を振り返りながら、沈遙は小さな白い石をそっと懐へしまった。




