第三十話 掟
沈遙は咄嗟に飛び込んだ。
白馬が前脚を振り上げる。
あと一瞬遅ければ踏み潰される。
沈遙は子どもの腕を掴み、力任せに引き寄せた。
だが、それだけでは終わらなかった。
驚いた白馬が大きく首を振る。
子どもはまだ馬のすぐ近くにいた。
沈遙は反射的にもう片方の手を伸ばし、
白馬の手綱を掴んだ。
白い鬣が目の前で揺れる。
「落ち着いてください!」
沈遙は必死に叫んだ。
白馬は激しく暴れた。
身体ごと引きずられる。
掌が焼けるように痛い。
それでも離さない。
数人の男たちが駆け寄り、ようやく馬を押さえつけた。
沈遙は息を切らしながら子どもを見た。
怪我はない。
母親らしい女が駆け寄り、泣きながら抱き締めている。
間に合った。
そう思った。
だが次の瞬間、沈遙は異変に気付いた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
先ほどまで祭りを楽しんでいた人々が、一言も発していない。
全員が沈遙を見ている。
その視線には感謝がなかった。
怒りだった。
白馬の傍にいた老人が震える声で何かを叫ぶ。
続いて若者たちも声を上げた。
意味は分からない。
だが歓迎の言葉でないことだけは分かる。
「どうしたのですか」
沈遙が戸惑う。
すると一人の若者が前へ出た。
鋭い目をしている。
彼は白馬を指差し、沈遙を指差した。
そして激しく何かを叫んだ。
周囲から同意の声が上がる。
「待て!」
趙万が間に割って入った。
柳月も続く。
だが若者たちは収まらない。
その時、人混みを掻き分けてバルグが駆けてきた。
顔色が悪い。
「沈遙」
「何が起きたのですか」
バルグは頭を抱えた。
「手綱を掴んだな」
「はい」
「まずい」
沈遙は意味が分からなかった。
バルグは低い声で言った。
「あの馬は神馬だ」
「それは聞いています」
「祭りの日に触れていいのは、神馬守だけだ」
沈遙は言葉を失った。
「神馬守?」
「あの役目を継ぐ家系がある」
バルグは白馬の傍の老人を見た。
「あの老人だ」
沈遙は理解できなかった。
「ですが、子どもが」
「分かってる」
バルグが言う。
「お前は子どもを助けた」
「皆もそれは見ていた」
「ならなぜ」
バルグは苦しそうな顔をした。
「神馬は祭りの日、天の神の化身とされている」
「その手綱に触れることは、神馬守の役目を奪うことと同じなんだ」
沈遙は黙った。
もちろんそんなことは知らない。
知るはずもない。
だが周囲の人々の怒りを見れば、それがどれほど重い意味を持つのかは伝わってくる。
やがて集落の中央へ人々が集まり始めた。
長老たちが輪になって座る。
祭りは完全に止まっていた。
沈遙はその中心へ連れて行かれる。
逃げようとは思わなかった。
逃げればさらに話がややこしくなる。
日が沈み始めた頃、白髭の長老が立ち上がった。
長老は沈遙を見た。
そして静かに言葉を告げる。
周囲がざわめいた。
若者たちは興奮した様子で何かを叫んでいる。
「何と言ったのですか」
沈遙が尋ねる。
バルグはしばらく黙っていた。
やがて重い声で答える。
「裁きが行われる」
沈遙は息を呑んだ。
「どのような」
バルグは目を伏せる。
「本来なら」
そこで言葉が止まる。
「本来なら?」
バルグは苦しそうに続けた。
「神馬へ触れた手を失う」
沈遙は思わず自分の右手を見た。
若者たちの視線がそこへ集まっている。
それは先ほどまでの穏やかなものではなかった。
本気なのだ。
夕暮れの風が吹き抜ける。
遠くで馬が鳴いた。
沈遙は初めて、この旅で恐怖を感じていた。




