第三話 旅立ちの門
沈遙が旅支度を整えるのに三日とかからなかった。
もともと多くを持つ男ではない。
書物を数冊、着替えを二組、筆と墨、それに観測用の小さな星盤。
荷物をまとめると、驚くほど身軽になった。
出立の日の朝、帝都には薄い霧がかかっていた。
大河から流れてくる湿った空気が城壁を覆い、遠くの楼閣をぼんやりと霞ませている。
沈遙は最後に天文台へ立ち寄った。
石段を上ると、見慣れた観測台が朝日に照らされている。
昨年も、一昨年も、その前も変わらぬ景色だった。
だが今日だけは違って見えた。
「本当に行くのか」
声をかけてきたのは李観だった。
老人は相変わらず寝不足のような顔をしている。
「命令ですから」
「断ればよかったものを」
「宰相の命を断れば、今ごろ牢に入れられています」
李観は鼻で笑った。
「それもそうだ」
しばらく二人は無言で都を眺めた。
朝の市場からは商人たちの呼び声が聞こえる。
大路には荷車が行き交い、遠くの寺院からは鐘の音が流れていた。
平和な帝都だった。
少なくとも見た目には。
「沈遙」
李観が珍しく真面目な声を出した。
「人を信じるな」
「急なお言葉ですね」
「地方官は嘘をつく。商人は儲け話をする。兵士は手柄を語る。農民は役人を恐れる」
老人は遠くを見ながら続けた。
「だから誰の言葉も半分だけ聞け」
沈遙は小さく笑った。
「星を見る時と同じです」
「そうだ。空も人も、見えるものほど当てにならん」
別れの言葉としては妙だった。
しかし李観らしいとも思えた。
やがて都の北門へ向かう時刻が来た。
永安には四つの大門がある。
東西南北、それぞれ帝国の各地へ続く道が伸びていた。
沈遙が選んだのは北門だった。
宰相から与えられた最初の目的地が北方の辺境州だったからである。
門前には旅人や隊商が列を作っていた。
羊毛を積んだ荷車。
茶葉を運ぶ商人。
故郷へ帰る兵士。
さまざまな人々が行き交う。
沈遙はその中に紛れ込んだ。
すると突然、後ろから呼び止められた。
振り返ると、見知らぬ少年が立っていた。
十三、四歳ほどだろうか。
痩せた体に大きな荷袋を背負っている。
「旦那、北へ行くのか」
「そうだが」
「なら気をつけな」
少年は真顔で言った。
「この頃、北から来る連中の顔が変なんだ」
「変?」
「みんな急いでる」
そう言うと少年は肩をすくめた。
「商人ってのは儲かる場所へ行くもんだろ。でも今は逆だ。みんな逃げるみたいに都へ来る」
沈遙は少し考えた。
ただの噂かもしれない。
しかし妙に気になった。
礼を言おうとした時には、少年はすでに人混みの中へ消えていた。
やがて北門が開かれる。
重い扉が軋みながら左右へ動いた。
その向こうには広い街道が続いている。
都から辺境へ。
繁栄から未知へ。
沈遙は一度だけ振り返った。
朝日に照らされた永安の城壁が輝いて見える。
自分はいつ戻るのだろう。
あるいは戻れるのだろうか。
そんな考えが胸をよぎった。
次の瞬間、北から強い風が吹いた。
冷たく乾いた風だった。
沈遙は荷を背負い直す。
そして帝都を後にした。
彼の知らぬところで、風はすでに動き始めていた。




