第二話 密命
皇帝崩御の鐘は夜明けまで鳴り続けた。
翌朝の永安は静かだった。
静かすぎると言った方が正しい。
人々は声を潜め、市場の商人たちでさえ普段より口数が少ない。
街路には黒い喪章をつけた役人が行き交い、宮城へ続く大路には兵が立っていた。
沈遙は天文台からの呼び出しを受け、朝早く宮中へ向かっていた。
本来なら彼のような下級官吏が足を踏み入れる場所ではない。
それでも召集状には確かに彼の名が記されていた。
宮城の奥にある文淵殿へ通されると、すでに数人の官僚が集まっていた。
誰もが険しい顔をしている。
やがて奥の扉が開いた。
入ってきたのは宰相の韓士安だった。
七十を超える老臣である。
先帝に四十年仕えた男だ。
韓士安は席に着くなり言った。
「昨夜のことは知っておろう」
全員が頭を下げた。
「新帝陛下は本日即位される。しかし天下は安らかではない」
老人の声は静かだった。
だが部屋の空気は重く沈んだ。
「北辺では騎馬民が集結しているとの報がある。西では塩税への反発が強まり、南では洪水が続いている。東海では海賊が船団を襲った」
沈遙は思わず顔を上げた。
それほど多くの問題が同時に起きているとは知らなかった。
朝廷の発表では、天下は平穏だったはずだ。
韓士安は続けた。
「報告は届く。しかし真実が届かぬ」
その言葉に部屋が静まり返る。
地方官は責任を恐れ、良いことしか書かない。
監察官は出世のために都合の良い報告を選ぶ。
いつしか朝廷は、自らが見たい天下しか見なくなっていた。
「そこで人を送る」
韓士安の視線が並んだ官僚たちを見渡す。
「官ではなく、人を見る者を」
沈遙は妙な予感を覚えた。
次の瞬間、老人の目がまっすぐ彼を捉えた。
「天文台主簿、沈遙」
胸が小さく鳴った。
「はっ」
「お前は星を見るそうだな」
「務めでございます」
「ならば風も見よ。測るのだ。風を」
意味が分からなかった。
韓士安は机上の木箱を指した。
中には印章と書状、それに旅費として使う銀が入っている。
「帝国を巡れ」
部屋の誰かが息を呑んだ。
「北へ行き、西へ行き、南へ行け。役人の言葉ではなく、民の言葉を聞け。そして何を見たか余に報告せよ」
「なぜ私なのです」
沈遙は思わず尋ねていた。
老宰相は少し笑った。
「出世しておらぬからだ」
部屋にいた官僚たちが顔をしかめる。
韓士安は構わず続けた。
「出世を急ぐ者は見たいものしか見ぬ。お前は違うと聞いている」
沈遙は返す言葉を失った。
それが褒め言葉なのか皮肉なのか分からない。
だが断れる立場ではなかった。
韓士安は最後に一通の封書を差し出した。
「旅の終わりに開け」
封には宰相印が押されている。
「その時になれば分かる」
窓の外では即位を告げる鐘が鳴り始めていた。
新しい皇帝。
新しい時代。
しかし沈遙の胸には、不思議と希望よりも不安が広がっていた。
彼は木箱を抱え、文淵殿を後にする。
宮門を出た時、春を待つにはまだ早い冷たい風が吹いた。
その風は北から来ていた。まるで遠い草原で何かが目を覚ましつつあるかのように。




