第十九話 羊飼い
翌朝、沈遙は東の丘へ向かった。北陵へ来て数日が過ぎていたが、まだ見ていない景色が数多く残っている。宿の主人によれば、この時期は羊飼いたちが丘へ家畜を連れていくという。
歩き始めて一刻ほどすると、鈴の音が聞こえてきた。丘の向こうから羊の群れが現れる。先頭を歩いているのは十代半ばほどの少年だった。手には長い杖を持っている。羊たちは慣れた様子で草を食んでいた。
沈遙は近づいて声を掛けた。
「おはようございます」
少年は少し驚いた顔をした。
「誰ですか」
「都から来た者です」
「役人…そうですか」
「そうです」
少年は露骨に警戒することもなく、羊の方へ目を戻した。
「都にも羊はいるのですか」
「いますよ」
「こんなにたくさんいるのですか」
「それは見たことがありません」
少年は少し得意そうな顔になった。
「だろうな」
羊は五十頭ほどいるだろうか。白い群れが丘をゆっくり移動していく。沈遙はしばらくその様子を眺めた。
「全部、お宅の羊なのですか」
「うちと叔父の家です」
少年は答える。
「春から秋までは俺の仕事なんです」
「大変ですね」
「そうでもないですよ」
少年は肩をすくめた。
「羊は文句を言わないから」
沈遙は思わず笑った。
都の役所ではそうはいかない。
羊たちは風に吹かれながら草を食んでいる。遠くにはまだ雪の残る丘が見えた。
「冬はどうしているのですか」
「囲いの中に入れます」
少年は言った。
「動きを少なくして、餌の量を減らすんです」
「足りなくなることはありますか」
「…あります」
その答えはあまりにもあっさりしていた。
「その時はどうするのですか」
「減らします」
少年は羊を見ながら言う。
沈遙はそれ以上聞かなかった。少年にとっては当たり前のことなのだろう。北陵で生きるということは、都で暮らす自分が思うより厳しいのかもしれない。
昼近くになると、少年は羊を連れてさらに北へ向かう準備を始めた。
「もっと良い草場に連れて行きます」
「一人で行くのですか」
「慣れてるんで」
そう言って笑う。
別れ際、少年は沈遙に尋ねた。
「都は面白いですか」
沈遙は少し考えた。
「面白いですよ。人も多いですし、珍しいものもあります」
少年はうらやましそうな顔をした。
「一度見てみたいな」
「いつか行けると良いですね」
少年はうなずくと、羊の群れを追って丘の向こうへ消えていった。
沈遙はしばらくその後ろ姿を見送った。
都へ行ってみたい。
その願いは先日会った老人とは正反対だった。老人は一生行かないと言った。少年は行ってみたいと言った。
同じ北陵でも、人によって見ている未来は違う。
沈遙は記録帳を開く。
『羊飼いの少年。都への憧れあり。』
短く書き留める。
風が吹いた。草が波のように揺れる。
沈遙は空を見上げた。旅を始める前は、土地を知るとは山や川を知ることだと思っていた。だが今は違う。土地を知るとは、そこに生きる人々を知ることなのだと少しずつ分かり始めていた。




