第十五話 市場の声
州府を出た沈遙は、そのまま市場へ向かった。北陵へ来て最初に見た時よりも、人の数はさらに増えているように思えた。昼が近い。各地から集まった商人たちが声を張り上げ、客を呼び込んでいる。羊毛を扱う店の前では遊牧民と商人が値段の交渉をしていた。干し肉を売る露店には旅人たちが並んでいる。都では見かけない光景だった。
沈遙はゆっくりと通りを歩いた。急ぐ理由はない。誰かを調べるために来たわけでもない。まずは人々がどのように暮らしているのかを知りたかった。
市場の端では老人が木箱に腰掛けていた。手には木彫りの匙を持っている。器用に削りながら客と話していた。沈遙は足を止める。
「よく売れるのですか」
老人は顔を上げた。
「さあな」
ぶっきらぼうな返事だった。
「だが腹は減る」
「だから皆、何かを売る」
もっともな話だった。
沈遙は思わず笑う。
老人は匙を一本差し出した。
「役人さん、一本どうだ」
「役人に見えるのですか」
「見える」
老人は即答した。
「字を書く手をしている」
沈遙は匙を受け取りながら感心した。都でもそこまで言い当てる者は少ない。
「おいくらですか」
「三文だ」
沈遙は代金を払った。
老人は礼も言わず、また木を削り始める。
不思議な人物だった。
市場をさらに歩くと、今度は香辛料を売る露店が目に入った。異国の香りが風に乗る。店主は西方から来たという男だった。言葉はたどたどしかったが商売は上手らしい。客が絶えない。
沈遙は記録帳を取り出した。
『西方の商人あり。北陵は草原のみならず西域とも通じる。』
都で読む報告書には載らないことばかりだった。
その時、聞き覚えのある声がした。
「紙ばかり増えてるじゃないか」
振り向くと柳月がいた。
荷車の脇に立ち、腕を組んでいる。
「仕事ですので」
沈遙が答える。
「役人は大変だね」
「商人も大変そうです」
柳月は笑った。
「それはそうだ」
そう言って市場を見回す。
「だが北陵はまだましな方さ」
「そうなのですか」
「冬が長い土地だからね」
柳月は言った。
「一度しくじれば飢える」
その言葉には実感があった。
商人の言葉というより、この土地で生きてきた人間の言葉だった。
沈遙は少し考えてから尋ねる。
「北陵は豊かな土地だと思っていました」
柳月は鼻で笑った。
「市場だけ見ればね」
そう言って北の方角へ顎を向けた。
「町の外を見てみな」
「村によっては今でも去年の冬を引きずってる」
沈遙はその言葉を記録帳に書き留めた。
柳月はそれを見て苦笑する。
「本当に何でも書くんだね」
「忘れないためです」
「なら一つ覚えておきな」
柳月は荷車へ乗り込んだ。
「北陵を知りたいなら市場だけじゃ足りない」
「人が金を使う場所より、食う場所を見な」
そう言い残し、部下たちへ声をかける。
荷車はゆっくりと市場を出ていった。
沈遙はしばらくその背中を見送った。
やがて近くの食堂へ入る。
昼時とあって混雑していた。
羊肉の煮込みを頼み、空いている席へ座る。
すると隣の卓から会話が聞こえてきた。
「州牧様はまた無茶をなさる」
「だが助かった」
「あの方らしいさ」
男たちは小さく笑った。
その表情に不満はない。
むしろ親しみと信頼が滲んでいるようだった。
沈遙は黙って耳を傾ける。
何の話をしているのかは分からない。
だが北陵の人々が州牧を慕っていることだけは伝わってきた。
州府で会った男の顔を思い出す。
豪放な印象の人物だった。
沈遙は記録帳を開き、小さく書き留めた。
『州牧、人望あり。』
それだけ記すと帳面を閉じた。
人の評判は役所の文書より正直なことが多い。
少なくとも今のところ、北陵の人々は州牧を信頼しているように見えた。
食堂を出る頃には日が傾き始めていた。
市場の喧騒も少しずつ落ち着いていく。
沈遙は記録帳を閉じた。
北陵へ来てまだ二日目だというのに、書くべきことはすでに何頁にもなっている。
まずは町を見る。
そして人の話を聞く。
それが自分に与えられた役目だった。




