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終末天秤のアイリス/預言者となった女子校の王子様は、壊れた女装少年を拾う  作者: ねこ太郎


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第六話 不吉な過去の予感

 背を向けたまま、翠は耳を澄ませた。


 服を脱ぐなら、衣擦れの音がするはずだったが、何も聞こえてこない。

 妙に静かだ――静かすぎる。


「……アイリス?」


 返事がない。

 引っかかるものを覚えて、翠が半ば振り向きかけた、その瞬間だった。


 すぐ背後に、気配があった。


「っ――」


 思ったよりずっと近い。

 振り返りきるより先に、細い腕が背中越しにそっと回されたことに気が付いた。


 抱きしめられたのだと理解するまで、一拍遅れた。


 強くはない。押さえつけるようでもない。

 けれど迷いがなくて、ぞっとするほど静かだった。

 翠が目を見開く。


「な、に――」


 そこで言葉が切れた。

 振り向いた先、すぐ目の前にアイリスの顔があった。

 整いすぎた顔立ち。伏せられた睫毛。わずかに開いた唇。

 ほんの少し踵を浮かせて、少年とも少女ともつかない、息を呑むほど綺麗な顔が、何のためらいもなく近づいて。


 その一瞬だけ、翠の思考が遅れた。


 綺麗だ、と見惚れてしまったのかもしれない――唇とも頬ともつかない場所に、かすかに触れる。

 その意味を理解して、血が沸騰した。


 それは、ほとんど反射に近い反応だった。

 ぱしん、と乾いた音が部屋に鳴る。


 アイリスの顔が横へはじかれ、小さな体がほんの少しよろめく。

 白い頬に、すぐ赤い痕が浮いた。


「――な、なにしてるの!?」


 翠の声は、自分でも驚くほど鋭かった。


 アイリスは数秒、そのまま止まっていた。

 やがてゆっくり翠を見上げる。目を丸くして、どこか不安げに表情を覗き込む。


「……違うの?」


 その問いが、翠の怒りを一瞬で止めた。


「違うって、どういう…そ、そんなの、違うに決まってるでしょ…」


 言い返しながらも言葉に詰まる。即座に言い返せたが、動揺してかその先がうまく続かない。


 アイリスは頬を押さえもしない。

 ただ、本当に何が間違いだったのか分からない顔で翠を見つめている。


「――なんで…、なんでこんなことするの?」

 

 怒りと羞恥をなんとか押し殺して、それだけ絞り出した。


「だって、翠は、いらいらしてた」


「は?」


「学校でも、帰ってきてからも。だから、そういう時なんだと思った」


 翠は呆然とする。


「……そういう時?」


「欲求不満?みたいな」


「はあ!?」


 思わず声が裏返った。

 アイリスはその反応にも怯まず、むしろ説明するように続ける。


「苛立っていて落ち着きがなくて、距離が近くて、命令する時は、そういうことをしたい時だと――」


「誰がそんなこと」


「大丈夫」


 妙な自信に満ちた声だった。


「翠の年齢なら、自然なことだ。

 それに、ぼくは男でも女でも慣れている。たぶん、うまくできる」


 しかし、その一言で、翠の中の何かがすっと冷えた。


 怒りとは少し違う。

 もっと鈍くて重い、居たたまれない何かだった。


 冗談ではない。

 誘っているのでも、からかっているのでもない。

 本気で、それが正しい応じ方だと思っているのだ。

 そう思わされてきたのだと、嫌でも分かった。


 喉の奥が詰まる。

 何かを言わなければいけないのに、何をどう伝えればいいのか分からない。


 目の前のアイリスは、頬を張られたまま、まだすぐそばに立っていた。

 乱れた襟元に外しかけたカラー。そこから覗く、ぞっとするほど扇情的な鎖骨。半端に緩んだ胸元のボタンは、妙に慣れた手つきの残骸で、かえって見ていられなかった。


 なのに綺麗なのだ――それが余計に痛々しい。


「……何、それ」


 結局、それしか言えなかった。

 問い詰めた自分の方が、ひどく悪いことをしたみたいで、翠は小さく呟いてごまかす。


 アイリスは一度、視線を落とした。

 まただ。目を伏せながら、ちらちらと、こちらの表情を窺うように視線だけを寄越してくる。


――危うい。

 相手が翠でなくても、もしかしたら同じように応じてしまう可能性があるのではないか。

 常識もそうだが、思考過程が決定的にずれていて、そのくせ妙に従順だ。

 どういう人生を送ってきたのかは知らないが、少なくとも、まともに守られてきた子供の反応ではなかった。


 ただ、不用意に他人がそれ(・・)に触れていい気もしない。

 動揺を悟られないよう、翠は乱暴に息を吐いた。


「まず確認しなさいよ」


 アイリスが目を上げる。


「私が何か言った時、意味が分からなかったら勝手に判断しないで、先に聞いて」


「聞けばいいのか」


「そう」


「それと、こういうことは、もう二度としないで」


「しないの?」


 ほんの少しだけ、驚きの表情を浮かべる。

 いったいどういう経験則なのか。


「しないの!

 それから、たとえ他の人に求められても、しちゃだめ」


「だめなのか」


「そう」


 そこでアイリスは首を傾げた。


「ごはんをくれたり優しそうな人には――」


「だめっつってるでしょうが」


 思わず下品な口調になってしまった。


「…」


「…」


「脱げって言われたら?」


「着替えろって意味!」


 ほとんど反射で返す。

 アイリスは叱られた子どもみたいに一瞬肩を揺らしたが、やがて素直にうなずいた。


「わかった」


「本当に?」


「今のは、そういう意味じゃない」


 アイリスは自分の中で確認するように繰り返す。


「そう。今のは、そういう意味じゃないの」


 翠がオウム返しの様に言い含めてやると、アイリスはまた小さくうなずき返した――悪気なく、常識がかみ合わないだけで、素直なのだ。


 そこまで来て、ようやく少しだけ空気が緩んだ。

 緩んだはずなのに、気まずさはむしろ増した。

 沈黙―――これからどうしよう、そんな考えが翠の頭を過った時だった。


 きゅぅ

 

 不意に鳴った小さな音が、その気まずい沈黙を破った。

 控えめに鳴ったアイリスの腹の音だった。


 翠は目を瞬いた。

 アイリスも、わずかに目を逸らす。


「……ちょっと待って」


 嫌な予感がした。


「昼、食べた?」


「食べた」


 即答だった。

 だが、翠は眉をひそめる。


「何を」


 アイリスは答えない。


「何を食べたの」


 沈黙。


「答えなさい」


 しばらくして、アイリスは制服のポケットに手を入れた。

 取り出したのは、小さなお菓子の包みだった。


 休み時間、中等部の教室で机の上に置かれていたものだ。

 誰かにもらったのだろう。


 翠は目を見開く。


「……あんた、これだけ?」


「食べた」


「それは見れば分かる」


 アイリスは少しだけ肩をすくめた。


「食べなくても、すぐには死なない」


「そういう話してないの」


 翠は額を押さえた。

 こうやって常識を一つ一つ訂正していくのは、かなり骨の折れる作業だ。


「昼、なんでちゃんと食べなかったのよ。クラスメイトとかに誘われなかった??」


「食欲がないって言って断った」


「なんで?」


「お金がない」


 あまりにも平坦に言うので、翠は一瞬言葉を失った。


「……は?」


「この国のお金、持ってない」


「そんなこと、なんで早く言わないの」


「翠に、おとなしくしてろと言われたから」


「だからって何も食べないの!?」


「その辺の草なら食べられると思った」


「草?」


 本気で何を言われたのか分からず、翠は聞き返した。


「野草、ともいう」


「はぁ?」


「外に出ていいなら、探した。

 それにこの国は、比較的ごみ箱にも食料は落ちてる――」


「それは落ちてるとは言わないの」


 そこでようやく、昼間の「食欲がない」の意味まで繋がった。

 断ったのではない。断るしかなかったのだ。


 頭が痛い。

 怒ってばかりいるのも馬鹿らしくなってくる。

 こんなのを一人で放っておけるわけがない。


 翠は深く息を吐いた。


「いい?

 その辺に生えてる草も食べちゃだめ」


「わかった」


「ゴミ箱も漁っちゃだめ」


「わかった」


「――はぁ‥‥。

 とにかく食堂に行くから」


 アイリスが瞬く。


「食堂?」


「そう。ご飯。分かる?」


「分かる…!」


 その一言に、アイリスの蜂蜜色の瞳が輝いたような気がした。


「なら今度こそ、さっさと着替えて。私は制服脱ぐから、その間、洗面所行ってて、ほら」


 アイリスは素直にうなずいた。


「分かった」


 その返事を聞いて、翠はベッドの上の部屋着をつかんで押しつける。


 いちいち全部言わなければ伝わらない。なのにあまりに歪で放ってはおけない――それが一番、厄介だった。


「はぁ…なんで、寮に入って、男と暮らさなきゃならないのよ…」


 今日一番の疲労感とともに深いため息を吐き出した。

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