第七話 食卓とおやすみ
夕食どきの食堂はそれなりに賑わっていた。
白いクロスの長机に、磨かれた配膳台。古い女子校由来の、妙に上品な空間だ。
夕食時で賑わう食堂にアイリスを連れて入ると、案の定、視線だけはきちんと集まった。誰もが興味深げに聞き耳を立てているのが分かる。
「……こっち。並ぶの」
「わかった」
アイリスは素直にうなずく。
分かった、と答える時だけは、妙に子供っぽい。
配膳台の前で、翠はトレーを一枚取り、アイリスにも渡した。
「これ持って。あとは順番に取ればいいから」
「勝手に取っていいの?」
「いいの。寮生なんだから」
「わかった」
小さく言うと、アイリスはまたこくりとうなずいた。
周りから見れば、ただ面倒見のいい上級生と、転入してきたばかりの下級生にしか見えないのだろう。
実際、配膳の列に並んでいる間にも、二人ほどの寮生が会釈していったし、そのうち一人は、アイリスを見て「あら」と微かに目を見張ったあと、すぐ何でもないように表情を戻していた。
アイリスは配膳の一つ一つを、翠の手元を見ながら真似した。
スープ皿を取る。パンを一つ取る。おかずを受け取る。そこまではぎこちなかったが、席につく頃には、もう外向きの滑らかな顔に戻っていた。
「いただきます」
「……いただきます」
正面に座るアイリスは、食堂ではちゃんとしていた。
背筋を伸ばして、口元も汚さず、音も立てない。スープの匙の持ち方まで妙にきれいで、綺麗な容姿に綺麗な所作、学校内でここまで話題になるのも分からなくもない。
けれど、翠は気づいてしまう。
アイリスの目が、ときどき翠のトレーの端へ滑るのを。
そこには、食べ刺しのパンが残っていた。
最初は気のせいかと思った。
だが、食事を終えて翠がトレーを持ち上げかけた瞬間、いよいよ我慢できずにすっと白い指先が伸びてきた。
「……ちょっ――」
アイリスの手が止まった。
「何してるの」
「たべないのかなって」
「ええ。私はもういいのよ。」
「じ、じゃあちょうだい…」
「足りないの?」
昼をまともに食べていないせいで、足りなかったのか。そう思ったのだがどうやら違う。
「持って帰ろうかと…」
尻つぼみに小さな声。
いたずらを見つかった子供が、ばつが悪そうに白状するみたいにぽつりとこぼす。
食べ物は残しておくものだと、無意識に思っているのかもしれない。
アイリスが、まともな食生活を送ってきていないことぐらい、見ていれば翠にもよく分かる。
翠は視線を逸らすように立ち上がった。
「……ちょっと待ってて」
「わかった」
二人分の食器を持って、食器の下げ台に向かう。
食堂の奥、配膳台の向こうで片付けをしていたおばさんに声をかける。
「あの、余ってるパンって、まだありますか」
「あるわよ。どうしたの?」
「……あの子、たぶん足りてなくて」
自分で言ってから、何を当たり前みたいに説明しているのだろうと思った。
だが、おばさんはそれ以上何も聞かなかった。ただ一度だけアイリスの方を見て、「ああ」と小さく頷く。
「ちょうど余りがあるから、少し待ってなさい」
厨房との境目みたいな小さな作業台で、手際よくパンを切る。
余っていたバタールに、配膳で残った豚肉とサラダを挟む。布巾の上で軽く押さえて、紙に包んでくれた。
「ほら。持っていきなさい」
「あの、なんだかすみません。ここまでしてもらって」
「余りものなんだから気にしなくていいの。育ち盛りなんでしょう?」
おばさんはそう言って笑った。
その言葉に、翠は何とも言えない気持ちになる。
育ち盛り。そんな当たり前の言葉で気遣われたことが、たぶんあの子には無いのだろう。
「ありがとうございます」
「あなたもちゃんと食べなさいよ、周防さん」
苦笑まじりにそう言われて、翠は自分の皿に残したパンを見た。
少しばつが悪くなって、頭を下げる。
「は、はい、すみません」
席に戻ると、アイリスは立ち上がりもせず、ただ紙包みを見ていた。
視線がまっすぐそこへ落ちている。
「ほら」
「……これ、いいの?」
「いいの。余りものだから」
「持って帰る」
「ええ」
そう答えたのに、食堂を出て寮へ戻る廊下の途中で、アイリスが小さく立ち止まった。
「……食べていい?」
翠は振り返る。
紙包みを持つ手は落ち着いている。表情もいつもの通り。
けれど目だけがどこからんらんと輝いているようで、全然隠しきれていない。
昼間はあれだけ、上品に笑っていたのに、こういうところは子供みたいだと思った。
「今?」
「今」
「部屋に戻ってからにしなさい」
その返事を聞いた途端だった。
「わかった」
そう言って翠を追い越して廊下を速足でかけていく。
だが、鍵は翠が持っているのだ。
部屋には入れない。
案の定、部屋の前で立ち尽くすアイリスを発見した。
部屋の扉を開けてやると、急いで部屋に入り、ベッドに腰掛けると、膝の上に包み紙を広げた。
最初の一口だけは、まだ上品に食べようとしていた。
ちゃんと噛んで、こぼさないように気をつけているのが分かる。
けれど二口目から明らかに速くなった。
飲み込むみたいな早さで食べる。
口の端に屑がつき、さらに三口目ではパン屑が膝へ落ちた。本人は気づいていないのか、気づいても止められないのか、そのまままたかぶりつく。
食堂で見せていた、育ちの良さそうな所作はどこにもなかった。
翠はそれを見て、どうにも世話を焼きたくなってしまい、うずうずしてしまう。
「……ちょっと」
「ん」
口元にパン屑を付けながら、ようやくアイリスが顔を上げる。
「落ちてる」
「……あ」
そこでやっと膝の上を見る。
慌てて拾おうとして、余計に屑が散る。
翠は深くため息をついて、ポケットのハンカチを差し出した。
「貸して」
これに包んであげるから、こぼさずに食べろ、と暗に伝えたつもりだった。
「いい」
「よくないわよ」
仕方なく膝の上のパン屑を払いゴミ箱に入れてやる。
アイリスは妙におとなしくそのまま動かないが、物欲しそうに翠のことを見つめ、何かを訴えてきた。
「なに?」
「もったいない」
「いいの。また、作ってもらうから」
「また、もらえるの?」
「ええ」
口元のパンくずを取ってやる。
警戒心が薄れたのか、翠の手が近づいても避けようともしなかった。
「……ゆっくり食べなさい」
「分かった」
そう言いながら、次の一口もやっぱり少し速い。
数分も経たないうちに、顔のサイズ程もあったサンドイッチはアイリスの手のひらに収まるサイズになっていた。
「まず、一つ言っとくけど」
「うん」
「その辺に生えてる草も食べちゃだめ。ゴミ箱を漁るのもだめ。絶対」
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
返事は早い。
この素直さが、逆に怖い。
翠は息を吐いた。
「あと、生活のことも。今のうちにちゃんと決めるから」
「決める?」
「そう。分からないことは、最初に決めておいた方がいいでしょ」
アイリスは少し考えるような顔をしてから、素直に頷いた。
ほんとうに分かっているのだろうか。
「私が着替える時は、あんたは洗面所」
「うん」
「あんたが着替える時は、私は後ろを向く」
「うん」
「分からない時は、勝手に判断しない。まず聞く」
「聞く」
「復唱しなくていいの」
言いながらも、少しだけ調子が狂う。
たぶん本気で覚えようとしているのだ。
「それから、洗面所もトイレも勝手に使っていい」
「勝手に?」
「いちいち許可いらないって意味」
「……分かった」
そこまではよかった。
問題は、その次だった。
「お風呂は毎日入る」
「毎日?」
「毎日」
「……全部?」
「全部って何よ」
「頭も、体も?」
なんだその確認は。
頭を洗ったから一カウントとはならないぞ、と翠は心の中で突っ込んだ。
「当たり前でしょ」
「毎日」
「毎日」
アイリスは、また一つ大事な規則を覚えるみたいに小さく頷いた。
タオルと着替えをクローゼットから出して押しつける。
歯ブラシ、コップ、洗面用具まで一式揃えて見せると、アイリスはそれらをしばらく眺めていた。
「あんたのよ。これ使うの」
「……分かった」
その「分かった」が、また少しだけ遅い。
「先に入ってきなさい。私はその間に片づけるから」
「翠は?」
「あと」
「先の方がいいんじゃないの」
「なんで」
「女だから」
「そういうのはいいの。今はあんたが先でいい」
アイリスは迷った末に、ようやく洗面所へ入っていった。
扉が閉まる音を聞きながら、翠は残りのパン屑を拾う。
机の上に紙包みの端が置きっぱなしになっていた。さっきまであんな勢いで食べていたくせに、最後の一口だけ残している。
あとで食べるつもりなのだろう。
胸の奥が、また少しだけ重くなった。
◇
風呂上がりのアイリスは、濡れた髪をどうしていいか分からないらしく、タオルを持ったまま突っ立っていた。
翠がドライヤーを渡して、こう使うの、とやって見せると、本当に感心した顔をする。
それからようやく自分も風呂を済ませ、ベッドに戻った頃には、もう夜も深かった。
アイリスは、当然みたいに床へ降りようとしていた。
「何してるの」
「ここで寝る」
「なんで」
「ベッドは綺麗だからもったいない」
とういう意味か。
綺麗だから、汚すと勿体ないという意味だろうか。
ならば、パン屑をこぼしながら、ベッドに座って食べる方がよっぽど汚れるだろうに。
「つべこべ言わずに、ベッドで寝なさい」
「はい」
アイリスはベッドと翠を見比べて、少しだけためらったあと、ようやく端へ腰を下ろした。
「おやすみ」
灯りを消す前に、何気なくかけた一言。それを聞いたアイリスの顔が忘れられない。
驚いたような、噛みしめるような、不思議な表情だった。
返事はすぐには返ってこず、ただ一拍ぶんだけ遅れていた。
「……おやすみ」
小さく、ぎこちなく、慣れない言葉を喋るように。
「どうしたの?」
「………」
「………」
「……おやすみ、は久しぶりだった」
「なにそれ」
その時は、何を言っているのか分からなくて、気にすることもなく、灯りを消した。
布団に潜り込む――翠は、暗闇の中で目を開けた。
おはよう、こんにちは、こんばんは。
そういう挨拶なら、誰とでも交わせる。学園でも、街でも、いくらでも使う。
けれど「おやすみ」は違う。
眠る前の言葉――誰かと暮らし、同じ屋根の下、今日が終わることを労って、相手にかける親愛の言葉だ。
この子は、いつぶりだったのだろう。
誰かにそう言われるのも、自分でそう返すのも。
考えた途端、後悔した。
考えるんじゃなかった。
これは同情なんかじゃない――翠は自分に言い聞かせて、その目を閉じた。
暗闇の向こうで、寝返りを打つ小さな気配がした。
明日も、たぶん面倒なことに巻き込まれる。それでも、もうアイリスを一人で放ってはおけない気がして、もう一度大きなため息をついた。
読んで頂きありがとうございます。
好みを詰め込んで書いている作品なので、もし少しでも刺さったり、続きが気になったら、ブックマークや評価など頂けると励みになります。




