第9話:助けてお姉ちゃん、と妹は泣いた
その電話がかかってきたのは、平日の夜十時過ぎだった。
私はリビングで映画を見ながらくつろいでいた。
スマホの画面に表示されたのは『非通知設定』の文字。
嫌な予感はしたが、万が一仕事関係の緊急連絡という可能性もある。
私は音声を録音モードにしてから通話ボタンを押した。
「……はい」
『あ、お姉ちゃん!? やっと出た! よかったぁ……!』
耳をつんざくような、鼻声混じりの高い声。
愛梨だ。
着信拒否されているから、公衆電話か誰かの携帯を借りてかけてきたのだろう。
「……何の用? もう連絡してこないでって言ったはずだけど」
『そんなこと言わないでよぉ! 緊急事態なの! 本当に死にそうなの!』
愛梨は泣きじゃくりながら、捲し立ててきた。
『お父さんがいなくなっちゃったの! 退職金を全部持って! 家に一円もないの! 電気もガスも止まりそうで……お母さんは毎日泣いてるし、翔くんはずっと部屋の隅でブツブツ言ってるし……!』
予想通りの展開に、私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「そう。それは大変ね」
『他人事みたいに言わないでよ! 家族でしょ!? 助けてよ!』
「家族?」
私は鼻で笑った。
「私の婚約者を寝取って、私の結婚式を乗っ取ろうとした人間が、今さら家族面するの? 都合が良すぎると思わない?」
『だって……だってしょうがないじゃん! 私、妊婦なんだよ!? お腹に赤ちゃんがいるの! 栄養とらなきゃいけないのに、今日もおにぎり一個しか食べてないの……かわいそうだと思わないの!?』
愛梨は「妊婦」「赤ちゃん」という最強の免罪符を振りかざしてくる。
昔なら、私はここで折れていたかもしれない。「お姉ちゃんだから」と、自分の食事を抜いてでも妹に与えていたかもしれない。
でも、今は違う。
「愛梨。その子供の父親は誰?」
『え? 翔くんだけど……』
「なら、翔に何とかしてもらいなさい。それが父親の責任よ」
『だからぁ! 翔くん無職なんだってば! お金ないの! だからお姉ちゃん、お金貸して! 出産費用だけでいいから! 五十万……ううん、とりあえず十万でいいから!』
貸して、ではない。「くれ」と言っているのと同じだ。
返ってくる見込みなど万に一つもない。
「断る」
『な……鬼! 悪魔! 自分の姪っ子か甥っ子になる子を見殺しにする気!?』
「見殺しにしてるのは私じゃない。計画性もなく子供を作り、人の婚約者を奪い、仕事もせずに破滅したあなたたち自身よ」
私は淡々と事実を突きつけた。
「いい? よく聞きなさい。私はあなたたちと絶縁したの。赤の他人なの。他人の家の家計が火の車だろうと、私には関係ない。役所にでも相談に行けば? 生活保護なり何なり、知恵を借りればいいじゃない」
『そんなの恥ずかしいよ! みっともない!』
「私へのたかりは恥ずかしくないのね」
愛梨のプライドの高さには呆れるばかりだ。
『お願いお姉ちゃん……私が悪かったから……謝るから……お金……』
最後の方は、ただの嗚咽になっていた。
かつて、両親に甘やかされ、私のものを何でも奪い、勝ち誇っていた妹。
その成れの果てが、この電話の向こうにいる惨めな女だ。
「謝罪なんていらない。お金も出さない。次に連絡してきたら、警察に通報するし、弁護士を通じて接近禁止命令を出してもらうわ」
『まっ、待って! お姉ちゃん!』
私は無言で通話を切った。
そして即座に、非通知拒否の設定をオンにした。
胸が痛むことはなかった。
むしろ、最後の鎖が断ち切れたような、清々しさがあった。
◇
しかし、彼らの執念は私の想像を超えていた。
電話が繋がらないと悟ると、今度は手紙が届くようになった。
さらに、会社のエントランス付近で、翔や母が待ち伏せしているという情報が警備員から入った。
どうやら、「金を持っている恭子」に接触しようと必死らしい。
私は会社の上司と相談し、最終手段を取ることにした。
転勤だ。
ちょうど、遠方の支社で欠員が出ていた。
今の職場は居心地が良かったが、物理的な距離を取らなければ、あのゾンビのような元家族から逃げ切れない。
「本当にいいのか? 君には苦労をかけるね」
課長は申し訳なさそうに言ったが、私は笑顔で首を横に振った。
「いいえ、願ってもないチャンスです。心機一転、新しい土地で頑張ります」
「そう言ってくれると助かるよ。向こうの支社長には、事情を話しておく。君の住所などの個人情報は、絶対に漏れないように厳重にロックをかけるよう手配するから」
会社の配慮は涙が出るほどありがたかった。
引っ越しの準備をしながら、私は思う。
捨てる神あれば拾う神あり。
家族という地獄を捨てた私には、これからは自分の力で掴み取る幸せだけが待っているのだ。
私はスマホのSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に捨てた。
これで、彼らと繋がる手段は完全に絶たれた。
「さようなら。二度と会うことはないでしょう」
私は空っぽになった部屋に一礼し、新しい未来へと歩き出した。




