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第8話 人気のバーテンダー

「…しつこい香りですねぇ。壁紙や額縁の溝まで染み込んでそうだ」


二十時。


開店前の薄暗い店内で、コウがしかめっ面をして、強力な浄化作用のあるホワイトセージの葉をいぶしている。


昨夜の「ストーカー男」が残していった『執着ブルーチーズ』の濃厚な残り香は、丸一日経ってもまだ完全には消えていなかった。


「営業再開の基準値ギリギリね」


私はカウンターで帳簿を広げ、淡々と損失を計算する。


結局、無自覚なままこの「重圧」に当てられて帰宅直後に倒れた私は、泥のように眠り続け、気づけば丸一日近くが経っていた。


おかげで「あの日」の夢を見た。


()()()


意識を取り戻した後のことは、今でも奇妙な夢のように覚えている。

驚いた顔で私を見つめる三人と、その後に起きた不思議な出来事。


結局、私はあの日を境に、この館に身を寄せることになった。

私にとっても、彼や仕事のしがらみから物理的に断絶されたこの場所は、都合の良い隠れ家だったし、何よりもう、今までのような生活は送れなくなってしまったからだ。


そう…あの日を境に、私は「感情」を失ったのだ。


「昨夜はあのあと、空間汚染により営業を中断せざるを得なかった。店を、あんな『高密度の澱み』で満たしたままにするわけにはいかないもの」


昨晩、あの男が帰った後、個室から漏れ出した「熟成されたチーズ」のような芳香は、フロア中に充満してしまった。

人間にとっては物理的な匂いではないが、その「澱み」は精神に悪影響を及ぼす。

人外にとっても好き嫌いが大きく分かれる香りだ。


そのため、私たちはまだ宵の口だったにも関わらず、『CLOSED』の札を掲げ、営業を打ち切るという判断を下したのだ。


「まあまあ。その分、極上の食材ブルーチーズが手に入ったと思えば安いものですよ」


コウはすすけたセージを灰皿に押し付けながら、どこか楽しげに、昨日回収した「青緑色の煙」が詰まった瓶を磨いている。

文句を言いながらも、彼にとってはご馳走なのだから世話がない。


「貴方にとってはね。…でも、ようやく空気も澄んできたわ」


時計を見ると、ちょうど定刻の二十時を回っていた。

感情的な苛立ちはない。ただ、乱された静寂を取り戻し、淡々と夜の務めを果たすのみだ。


「そろそろ開けて。今夜は静かな夜になるといいのだけど」


コウが「はいはい」と軽く答え、入り口の札を『CLOSED』から『OPEN』へと裏返す。


すると、しばらくして、


カラン、コロンとドアベルが鳴った。


「わ、ほんとにそれっぽい!」


会社帰りらしい三人組の女性が、少しだけ緊張した顔で店内を見回す。


足元には古びた木の床。荒削りな石積みの壁には無数のキャンドルが揺れ、その琥珀色の光が重厚なカウンターや絵画を幻想的に浮かび上がらせている。

まるで中世の古城に迷い込んだような、セピア色の空間だ。


「ここ、お料理を注文すると、タロットでアドバイスくれるって聞いて来たんですけど…」


一番明るそうなショートカットの女性が言った。

私はグラスを磨く手を止めず、頷く。


「本鑑定は有料の予約制ですが、一枚引きでしたらご注文と引き換えに可能です」


三人は顔を見合わせ、ほっと笑った。

それなら頼みやすい、という顔だ。


「カクテルっておまかせで作っていただけますか?」


今度は、ゆるくパーマのかかった女性が上目遣いでコウに言った。

彼女たちのお目当てがコウなのは一目瞭然だ。


「もちろんです」


コウは営業用の柔らかな笑顔で頷く。

その声色と表情に、彼女たちの頬が店内の明かりとは別に少し上気するのが見て取れる。


「少々お待ちください」


コウは流れるような所作でボトルを手に取った。

氷を削る音、リキュールが注がれる音、そしてシェイカーが空気を切る音。

それら全てが、薄暗い店内で心地よい音楽のように響く。


「お待たせいたしました」


差し出されたのは、ルビー、サファイア、そして黄金色に輝く三色のショートカクテル。

キャンドルの光を吸い込んで、宝石のように輝いている。


「わぁ、綺麗……!」

「映えるね、これ!」


彼女たちは歓声を上げ、スマートフォンで数枚写真を撮ると、軽やかな音を立ててグラスを合わせた。


ひとしきりカクテルを味わい、場の空気が和んだ頃合いを見計らって、コウがカウンターに小さめのクロスを広げた。


「では、カードを」


コウの声に、三人がハッとして居住まいを正す。


「質問は不要です。今の貴女たちに『最も必要な答え』が、シンプルに出ますから」


ショートカットの女性が、おずおずと手を伸ばす。

めくられたのは、豊穣のカード……『女帝』。


「わ、強そう」


コウが琥珀色の瞳を細め、彼女を見つめた。


「ご覧ください。この女性は武器も仕事道具も持っていません。ただ、ふかふかのクッションに身を預けているだけです」


「あ、本当だ」


「貴女は普段、周りに『与える』ばかりですね。……もっと、傲慢になっていいんですよ」


「え……」


図星だったのか、女性が息を呑む。


「何かをした対価として愛されるのではなく、何もしなくても、ただそこにいるだけで愛される。…そんな『不条理な幸福』を、ご自身に許してあげてください」


女性は感極まったように口元を押さえた。

「頑張らなくていい」という慰めよりも深く、理性を甘やかに溶かす解釈だ。


二人目が引く。

目隠しをされた女性が、剣の檻に囲まれている『剣の8』。


「え、なにこれ。剣がいっぱい……なんか怖い」


不安そうな声が上がる。

コウは静かに頷き、カードの中の女性を指差した。


「四面楚歌、身動きが取れない状態ですね。……ですが、よく見てください」


コウの声が、少しだけ低く、艶を帯びる。


「縄はとても緩く、周りの剣も隙間だらけだ。……貴女は『被害者』でいることが、一番楽なのでしょう?」


「え…」


「動けないふりをしていれば、失敗しても『環境のせい』にできる。……貴女を閉じ込めているのは環境ではない。貴女自身の『動きたくない』という甘えだけですよ」


「うっ……き、厳しい」


彼女は苦笑いしたが、その顔はどこかスッキリとしていた。「自分で変えられる」という自由の証明でもあるからだ。


そして、最後の一人。

リーダー格の女性が引いたのは、星空の下で水を注ぐ『星』。


「あ、これ綺麗!」

「希望のカードですね。……ですが、彼女は裸です。鎧も常識も身につけていない」


コウは涼しい顔で言い放つ。


「全部、脱ぎ捨ててしまいなさい。

計算も根拠もいらない。貴女が『なんとなくこっちだ』と思う、その根拠のない方向。……裸の心が指す方角へ進むことだけが、今の貴女を泥沼から引き上げてくれますよ」


「根拠なんかなくていい、か…。ふふ、なんかスッとした」


彼女は満足そうにカードを見つめ、ふと背後の壁に目を留めた。


「あ、見て。後ろの絵も綺麗」


そこには、叔母が集めたタロットをモチーフにした絵画が飾られている。

石壁の凹凸に深い影を落とす、数枚の絵画たち。


「おしゃれだねー。写真撮っていいですか?」


「ええ、構いませんよ」


彼女たちはスマホを構え、壁の絵画たちを背景に何度もシャッターを切っている。


他のお客さんがいなくてよかった、と思いながら眺めていると、コウも同じことを思っていたのだろう。私に視線で訴えてきた。


写真を撮り終えた彼女たちは、食べ物数品と追加のカクテルをオーダーし、しばし賑やかなおしゃべりに夢中になっていたが、それが一段落すると、会はようやくお開きとなった。


「ありがとうございました! また来ます!」


重厚な木戸が開き、ドアベルが静かに鳴る。

華やかな嵐が去り、店内に静寂が戻る。


カウンターには、三つの空のグラス。

一つだけ、底に赤い余韻が残っている。


私はグラスを片付けながら、コウの鑑定結果を思い出した。


一見、現代的なカウンセリングのようでいて、彼が与えたのは『傲慢さ』『陶酔』『理性の放棄』だ。

社会に適応するための「癒やし」ではなく、社会から逸脱するための「甘い毒」。

19世紀の魔術的な解釈を、現代の包み紙でくるんで渡すような芸当だ。


…本当に、器用な真似をする。


ふと、背後の絵に視線を向ける。


同じ画家が描いた全22枚からなるシリーズだというこの絵画は、今、18枚がこの店にある。

残りの4枚はいくつかの画商やバイヤーに依頼してまだ探している最中だというが、集まる日は来るのだろうか。


「たまには絵を掛け替えた方がいいのかしら?」


そういえば、叔母はよく思いつきで店内の絵画を入れ替えていた。

壁のスペースには限りがあり、手元にある18枚すべてを一度に飾ることはできないからだ。


叔母の習慣を思い出し、何気なく尋ねると、グラスを拭いていたコウの手がわずかに止まった。


「いえ。今のままでよいのでは?」


そう言って微かに微笑んだコウの表情に、私はなんとなく違和感を感じた。

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