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第9話 激辛の愛(前編)

「…チッ」


静寂に包まれるはずの開店直後の店内。

開店前に個室を整えに行き戻ってくると、店内はいつもと様子が違っていた。


わざとらしいほど大きな舌打ち。

その発生元は、コウだ。


カウンターの向こうで、琥珀色の瞳をしたコウが、珍しく不機嫌そうに眉を寄せている。

彼が手にしているのは、いつも愛用しているシェイカー…ではなく、ただのグラス用クロスだ。


そして、その視線の先にいるのは、我が物顔でカウンターの中に立ち、優雅な手つきでグラスを磨いている男。


「……あの。セバスチャン?」


私が声をかけると、その男…館の執事であるセバスチャンは、完璧な営業用スマイルで振り返った。


「おや、なんですか? 主人あるじ


「そこで、何をしているの?」


主人あるじが、最近疲れているご様子でしたので。少しでも負担を減らそうと思いまして。で、来てみたらこれです…ほら、ここ。グラスに微かな曇りがありますよ。三流の仕事ですね」


セバスチャンは、コウが磨き上げたばかりのグラスを光にかざし、大袈裟に嘆いてみせた。


「…店長。この異物を摘み出してもよろしいですか?」


コウの笑顔が引きつっている。

額には青筋が浮かび、手にしたクロスがミシミシと悲鳴を上げていた。


「怖いですね。私はただ、愛する主人あるじが粗悪な環境で働かされていないか、心配で見に来ただけですよ」


素知らぬ顔で淡々とグラスをチェックし続けながら、セバスチャンはコウの顔も見ずにそう言った。


「帰っていいわよ。貴方がいると、コウくんの機嫌が悪くなるから」


私が追い払おうとすると、セバスチャンはゆっくりとこちらを見て、冷ややかに目を細めた。


「お断りします。…今日は『辛口』の気分なんですよ。貴女も、たまには刺激が必要でしょう。」


その時だった。


「やだぁ〜、もう。目が痛いんですけどぉ!」


カウンターの端、一番奥の席から文句の声が上がった。

常連のインキュバス(淫魔)だ。彼はハンカチで鼻と口を覆い、涙目でこちらを見ている。


「なんなの、この空気! さっきから唐辛子スプレーでも撒いたみたいにピリピリして! アタシのデリケートなお肌が荒れちゃうじゃない!」


「あら、そう? 私は悪くないと思うけれど」


その隣で、頬杖をついてカウンターの中にうっとりと熱い視線を送っているのは、インキュバスとともに来店した女性客…サキュバス(淫魔)だ。

胸元が大きく開いたボンテージ風のドレスに、コウモリの羽を模したヘアアクセサリー。

背中からは、ハートのついた細い尻尾がゆらゆらと揺れている。


彼女は、インキュバスとは対照的に、目をキラキラと輝かせていた。


「見てよ、あの二人の殺伐とした空気…!執事の『慇懃無礼な攻め』と、料理人の『静かなる殺意』! ん〜っ! このぶつかり合うオスのプライド、最高にセクシーだわぁ…!」


彼女は自分の二の腕を抱きしめ、身悶えるようにクネクネとしている。

どうやら彼女にとって、イケメン同士の不仲は極上の食前酒アペリティフらしい。


「もぉ〜。サキュバスはイケメンならなんでもいいんでしょ。…アタシはこの『いがみ合いの波動』で胃もたれしそうよ」


インキュバスがげんなりしてカクテルを啜る横で、サキュバスは舌なめずりをした。


「あんたはお子ちゃまねぇ。この『混ぜるな危険』な組み合わせこそが、大人の味なのよ。…あぁ、もっと罵り合ってくれないかしら」


「…あそこの二人も、追い出していいですか?」


コウが氷のような声で囁く。

私も同感だ。ただでさえ厨房内の連携オペレーションに支障が出ているのに、外野にまで騒がれては営業の邪魔でしかない。


だが、そんな私たちの日常会話を遮るように…


バンッ!


入り口のドアが、乱暴に開け放たれた。

カランコロン、という軽やかなベルの音さえも、悲鳴のように聞こえる勢いだ。


「いらっしゃいませ……おや」


コウが条件反射で声をかけようとして、言葉を止めた。


入ってきたのは、一人の若い女性だった。

流行りのメイクに、露出度の高い服。

だが、その形相は鬼気迫るものがある。

髪は乱れ、充血した目は血走り、片手にはひび割れた画面のスマートフォンを握りしめている。


そして何より……臭い。


彼女が足を踏み入れた瞬間、店内の空気が一変した。

鼻の奥をツンと突き刺すような、強烈な刺激臭。


「…ゴホッ。これは…」


私は思わず咳き込んだ。

まるで、唐辛子エキスを霧吹きで撒き散らしたような、目が痛くなるほどのカプサイシンの匂いだ。


「うわっ! 最悪! なにこの激辛!」


インキュバスが悲鳴を上げ、さらに強くハンカチを顔に押し当てた。

甘い蜜を好む彼にとって、この刺激臭は毒ガス以外の何物でもないらしい。


しかし、セバスチャンだけは、その激辛の空気を楽しむように目を細めていた。


「…ふむ。これは上質な『ハバネロ』ですね」


彼はハンカチを取り出すこともなく、むしろその刺激臭を肺いっぱいに吸い込んでいる。


「焦げるほどに熱く、ただれるほどに痛い。…『嫉妬』の香りだ」


女性は、私たちなど目に入っていない様子で、ふらふらとカウンター席へ近づいてきた。

その歩き方は不安定で、今にも倒れそうだ。


「…お酒。強いやつ」


彼女はカウンターにドスンと座ると、携帯電話をコースターのようにテーブルに叩きつけた。


「…かしこまりました。《《強いやつ》》ですね」


コウは短く承諾すると、すぐに背後の棚へ手を伸ばした。

彼女の望み通り、この激臭を薙ぎ払うほどの「強い一杯」を作ろうとしているのだろう。


だが、コウがボトルを手に取ろうとした瞬間、横からセバスチャンがすっと身を乗り出した。


「お客様。今の貴女には、アルコールよりも『氷』が必要かと存じますが?」


「あぁ!? …うるさいわね。誰よあんた」


女性がギロリとセバスチャンを睨みつける。

普通の店員なら怯むところだが、セバスチャンは口の端を吊り上げ、さらに甘美な声で囁いた。


「私はただのヘルプです。…ですが、わかりますよ。その携帯電話の中身を見たくて、でも見たくなくて、何度も指先を行き来させていたその『葛藤』が」


「……ッ!」


図星を突かれたのか、女性の肩がビクリと跳ねた。


「あの泥棒猫…私の彼氏に、ちょっかい出しやがって!」


彼女の口から、どす黒い本音が漏れ出した。

それと共に、店内の刺激臭が一気に増す。


「彼氏は『ただの友達だ』って言うけど、絶対嘘! インスタのストーリーで同じ匂わせ投稿してたし、絶対クロよ! …あーもう、イライラする!!」


彼女はバンバンとカウンターを叩き、ヒステリックに叫んだ。


「…店長、目が痛いです」


コウが小声で訴えてくる。

インキュバスに至っては「もう帰るぅ…」と涙目になりながら、サキュバスの背中に隠れていた。

一方のサキュバスは、「あらあら、元気なこと」と余裕の表情でグラスを揺らしている。


私はため息をつきつつ、女性の前に水を置いた。


「お客様。…その怒りの正体、突き止めますか?」


私が静かに問いかけると、女性は充血した目で私を睨み、そして勢いよく頷いた。


「当たり前でしょ! あの女がクロかシロか、はっきりさせて! …もしクロだったら、ただじゃおかないから!」


「承知いたしました。では、一枚引いてください」


私はカウンターに、黒いクロスを広げる。

今夜のカードは、触れるだけで火傷しそうなほど熱を帯びているに違いない。


その横で、コウが静かにシェイカーを振り始める。

カシャカシャという氷の音が、開戦のゴングのように店内に響き渡った。

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