第10話 激辛の愛(後編)
カシャ、カシャ、カシャ……。
コウがシェイカーを振る音が、店内の張り詰めた空気を切り裂いていく。
そのリズムは、心臓の鼓動のように速く、そして鋭い。
「これ!」
女性は躊躇なく、真ん中あたりにあった一枚を乱暴に引き抜いた。
めくられたカードは…『剣の7(SEVEN OF SWORDS)』。
男が数本の剣を抱え、忍び足で野営地から逃げ出そうとしている絵柄だ。
「…あら」
私は短く呟くと、淡々とその意味を告げた。
「おめでとうございます。クロですね。それも、とびきり情けない『真っ黒』です」
「ッ!! やっぱり!!」
女性がバンッ! とカウンターを叩き、立ち上がった。
その瞬間、彼女の全身から真っ赤な炎のようなオーラが噴き出し、店内の温度が数度上がった気がした。
「あの泥棒猫! 許さない、絶対許さない! 今すぐ電話して、問い詰めてやる!」
その様子を見て、言葉を加える。
「訂正します。これは浮気相手の女性を排除すれば解決する、という問題ではありません」
私は、ヒステリックに叫ぶ彼女の声を遮り、冷徹に事実を指摘した。
「原因は彼自体にあります。彼はあなたに二枚舌を使い、リスクを負わずに『安心感』や『身体』といった利益だけを掠め取ろうとしている。もっと言えば、あなたが今そうして感情的に怒り狂うことすらも、『ほら、君がヒステリックだから俺は逃げるんだよ』という『戦略的逃走の燃料』として事前に計算されています」
この事象の根本原因を提示したのだが、彼女の感情的な怒りの炎は、私の論理では消せないらしい。
彼女としては、女性を悪者にしなければ自我が保てないのだろう。
彼女は震える手でスマートフォンを掴むと、画面をタップしようとした。
怒りで指先がうまく動かず、何度もパスコードを間違えている。
その時だ。
「お客様。…少々お待ちを」
カウンターの中から、滑らかに伸びてきた手が、彼女の手首を優しく、しかし強引に制した。
セバスチャンだ。
「な、何よ! 放して!」
「今、その電話をかければ、貴女の負けですよ」
セバスチャンは、まるで駄々をこねる子供を諭すように、甘く低い声で囁いた。
「このカードの絵をよくご覧なさい。…描かれているのは、堂々とした悪魔でも、戦う騎士でもない。ただの『コソ泥』です」
「……コソ泥?」
「ええ。彼は貴女と向き合う気など最初からない。ただ、貴女の愛情や時間を『盗み食い』して、バレそうになったら逃げ出す…そんな卑しい精神性の持ち主だということです」
セバスチャンの言葉に、女性の手が止まる。
彼女はカードの中の、忍び足で逃げる男の絵を食い入るように見つめた。
「コソ泥……」
「そんな小物相手に、電話で泣き叫ぶのですか?貴女の貴重なエネルギーをぶつける価値など、彼にはありませんよ。…泥棒を追いかける必死な姿なんて、美しい貴女には似合いません」
セバスチャンの言葉は、冷たい水のように彼女の頭にかかった。
だが、それは怒りを冷ますためではない。
怒りをより鋭く、より冷徹な『軽蔑』へと変質させるための水だ。
「…そうね。なんか、急に冷めたわ」
女性は唇を噛み締め、涙を浮かべた。
だがその涙は、悲しみではなく、あんな男に執着していた自分への情けなさからくるものだろう。
「では、どうすれば……」
「簡単です。……泥棒に対する一番の防犯対策をなさればいい」
そこで、タイミングを計ったようにコウがスッとグラスを差し出した。
「お待たせいたしました。ご注文の『強いお酒』です」
コウが出したのは、『アラスカ』……ウォッカとシャルトリューズのカクテル。
グラスの中には、北極の氷山を思わせる、冷たく透き通った液体が揺れている。
だが、その縁には、真っ赤な唐辛子のパウダーがびっしりと塗られていた。
「……なにこれ。すごい色」
「極寒の冷たさと、焼き尽くすような辛さ。……今の貴女にぴったりの味です」
コウは琥珀色の瞳を細め、静かに告げた。
「泥棒は、未練という名の開いた窓があるから入ってくるのです。…氷山のように簡単には溶けない、という強固な姿勢で拒絶してしまえばいいのです。『二度と私の敷居は跨がせない』と」
コウの言葉に、セバスチャンが被せるように続ける。
「そう。最高の復讐は、貴女が美しくなり、より良い男を見つけ、彼を『貴女の人生に入場できないただの他人』にすること。……それが、最も彼のような小物のプライドを傷つける『劇薬』です」
「……!」
女性は、二人の男の言葉を反芻し、そして目の前のカクテルを手に取った。
震える手でグラスを口に運ぶ。
一口飲んだ瞬間、彼女の顔が歪んだ。
冷たさと辛さ、そして強烈なアルコールが喉を焼き、食道を駆け下りていく。
「……んぐっ、……かはッ!」
彼女はむせ返り、涙を流した。
だが、その瞳から、先ほどまでの濁った狂気が消えていく。
代わりに宿ったのは、氷のように冷たく、研ぎ澄まされた光だった。
「……そうね。あんなコソ泥のために、私が泣くなんて馬鹿みたい」
彼女はグラスをドンと置くと、乱れた髪をかき上げた。
「ふふ…女にとって一番屈辱なのは、奪ったと思った男が捨てられた男だと知った時」
サキュバスが意味ありげな視線を彼女に送る。
その声が届いたのか、彼女はハッとした顔をしてスマートフォンを持ち上げた。
「連絡先、全部消してやる。……SNSもブロック。家の鍵も変えるわ。あいつの荷物なんて、ゴミの日に出してやる」
彼女はスマートフォンを操作し、次々と「削除」ボタンを連打し始めた。
その指先に迷いはない。
そして、すべての未練を断ち切った彼女は、財布から代金を出すと、憑き物が落ちたような顔で笑った。
「ありがとう。……目が覚めたわ」
彼女は背筋を伸ばし、ハイヒールの音を高く響かせて店を出て行った。
その背中には、もう唐辛子の刺激臭はない。
あるのは、ミントのように冷涼な、自立した女の香りだけだ。
カラン、コロン。
ドアが閉まると、店内に静寂が戻る…はずだった。
「う〜ん、お見事! 素晴らしい連携プレーだったわねぇ!」
パチパチパチ、とサキュバスが拍手をする。
インキュバスも、「やっと空気が吸えるぅ…」とハンカチを外して深呼吸していた。
そして、カウンターには彼女が残していった『激辛の想念』だけが、赤い粉末のように漂っていた。
「…さて。これの処分ですが」
コウがクロスを手に、厄介そうにその赤い粉を見つめる。
すると、セバスチャンが横から素早く手を伸ばし、その粉を小瓶に詰め込んだ。
「ご心配なく。これは私が頂いていきますよ」
「は? なぜ貴方が」
コウが不満げに睨むと、セバスチャンは悪魔的な笑みを浮かべた。
「我が主人の、今夜の夕食のスパイスにちょうどいいかと思いまして」
「…却下です。店長の胃が荒れます」
「おやおや、過保護ですねぇ。たまには刺激も必要でしょう?」
「必要ありません。貴方の存在だけで十分刺激が強すぎます」
二人は再び、至近距離でバチバチと火花を散らし始めた。
「あ〜あ、また始まった。…ねえ、もう一杯ちょうだい? 今度はもっと甘いやつ」
インキュバスが呆れたようにグラスを差し出す。
サキュバスは、「あら、私は今の『激辛』の余韻で、もう一杯いけそうよ?」と楽しげに笑っていた。
私は、そんな喧騒をBGMに、静かにカードを片付け始めた。
激辛の愛の結末は、意外と後味がさっぱりしているものだ。
…あの二人が、いつまでも私の目の前で喧嘩していなければ、の話だが。




