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第11話 脂ぎった計算機(前編)

「……静かね」


私はカウンターの中で、グラスを磨きながら呟いた。


今日の店内は、物理的には静かだ。

BGMのジャズが低く流れているだけ。

けれど、空気はずっしりと重く、澱んでいる。


その原因は、カウンターの隅でうずくまるようにしてグラスを握りしめている、一人の客だ。


五十代半ばの、サラリーマン風の男。

よれたスーツ。白髪交じりの頭。

先ほどから、スマートフォンの電卓アプリを叩きながら、何かブツブツと独り言をつぶやき続けている。


「…今辞めたら自己都合退職で、退職金はこれだけ減る。住宅ローンが残り1500万…再就職先なんてあるわけがない…。老後は破産だ……」


男性は琥珀色の液体を喉に流し込み、脂汗を拭った。


「…でも、もし()()が成功すれば…。俺は定年まで会社にいられる…。満額の退職金と、平穏な生活…。リスク係数は高いが、リターンは…」


その背中からは、悲壮感というよりも、もっと粘り気のある「迷い」が滲み出ている。

誰かを憎んでいるが、自分では解決できない。

損得勘定と保身。長い時間をかけて煮詰められ、澱んでしまった「怨嗟」の重み。


「…彼、随分と追い詰められているようね」


私が小声で言うと、コウは冷ややかに頷いた。


「ええ。ここ数十分、ずっと同じ数字を足しては引いてを繰り返しています。…答えなど出ないのに、ひたすらイコールボタンを連打している。まるで壊れた電卓のようだ」


コウが不快そうに鼻を覆う。

換気扇は最強で回っているが、それでも店内に充満する「濃厚なラード」のような気配は消えない。


その時だった。


ブー、ブー、ブー。


男性のスマートフォンが、テーブルの上で短く、しかし神経を逆撫でするような音を立てて震えた。

男性はビクリと肩を跳ねさせ、恐る恐る画面を覗き込む。


通知を見た瞬間、男性の顔色が土気色に変わった。

そして、絶望に耐えきれないように、その内容を掠れた声で漏らした。


「…明日のプレゼン…14時から…遅刻厳禁……」


一見すれば、どこにでもある上司からの業務連絡だ。

だが、その言葉を読み上げる男性の声は、死刑宣告を受け取った囚人のように震えていた。


男性は震える指でフリック入力し、何かを返信しようとするが、指が止まる。

結局、彼は画面を伏せ、逃げるようにグラスを煽った。


「うぅ…」


男性が呻くように頭を抱える。


「…あの、お客様」


私が静かに水を差し出すと、ハッとした男性は縋るような目で顔を上げた。


「ああ、そうだった!ここ、何でも相談に乗ってくれるって…噂で……」


男性の声は掠れていた。


「実は、ある『大きなプロジェクト』を抱えてて……。成功すれば、俺は自由になれる。退職金も、家族も守れる。……でも、失敗したら終わりなんです」


彼は「プロジェクト」と言った。

だが、その顔色は、希望あるビジネスを語る者のそれではない。

それに「出世できる」ならともかく「自由になれる」というのもおかしな話だ。


「…そのプロジェクトが成功するかどうかを、占ってもらえますか?」


男性は縋るようにカウンターに身を乗り出した。

その目は、「絶対に成功する」という確証を欲しがっている。

たとえそれが、悪魔との契約であったとしても。


「…優秀な『コンサル』がついているんです。彼の指示通りにすれば、本当に…本当に、俺は助かるのか…。それとも…」


「コンサルタント、ですか」


私がその単語を復唱すると、男性はハッとしたように口をつぐんだ。

言ってはいけないことを漏らしたという顔だ。


「い、いや、なんでもない。……とにかく、結果だけ教えてくれればいい」


男性は必死に誤魔化そうとしているが、その全身からは「誰かに肯定してほしい」という悲鳴のような匂いが立ち上っている。


このままカウンターで話を続ければ、店内の空気が古い油の匂いで満たされてしまいそうだ。


「……お客様」


私は静かに男を遮り、言葉を続けた。


「当店の鑑定には2種類がございます。ご注文のお客様にサービスで引かせていただいているシンプルな1枚引きと、30分1万円の予約制で承っている個室での本鑑定です。どちらをご希望ですか?」


お金の心配をしているくらいだから一枚引きを希望するかと思ったが、男性は意外にも本鑑定を希望した。


「人生がかかっているので、本鑑定にします」


その言葉が妙に重く聞こえる。


「承知いたしました。では、こちらへどうぞ」


私が店の奥を示して微笑むと、男性はゴクリと唾を飲み込み、ふらふらと立ち上がった。

まるで、取調室へ連行される容疑者のような足取りで。


***


男性を通した個室は、黒いベルベットの壁に囲まれた、懺悔室のような空間だ。

わずかな照明だけが、テーブルの上の黒いクロスを照らしている。


男性は向かいの席に座ると、さらに縮こまったように見えた。

密室の静寂が、彼の罪悪感を増幅させているのだろう。


「では、そのプロジェクトの『今後』を紐解いていきましょう」


私はカードを三枚引き抜き、テーブルの上に左から順に並べた。


「左から、『背景』、『現状』、そして『最終結果』です」


男性がゴクリと唾を飲み込む音が、狭い部屋に響く。

彼は1万円も払ったのだから、さぞかし「良い数字」が出るだろうと期待しているようだ。

だが、タロットに忖度はない。


「まずは、このプロジェクトが立ち上がった『背景』から」


私が左端のカードをめくる。

そこに描かれていたのは、玉座にふんぞり返る王。しかし、逆さまだ。


『皇帝(逆位置)』


「…暴君のカードですね。実力もないのに権力だけを振りかざす、裸の王様」


男性の目が大きく見開かれる。


「部長……!」


「貴方は長い間、この理不尽な支配者の下で、尊厳を削り取られてきた。…違いますか?」


男性は無言で、しかし激しく頷いた。

その目には、長年の屈辱と殺意が滲んでいる。


「では、次に『現状』を見てみましょう。その『コンサル』とやらが進めている計画の実態です」


私は真ん中のカードをめくった。


現れたのは、王冠を被った男が、たった四枚のコインを頭と両手両足で必死に抱え込み、動けなくなっている絵柄。


『ペンタクルの4(FOUR OF PENTACLES)』


「…これは?」


男性は食い入るようにカードの絵柄を見つめている。


「ご覧なさい。この男は、何かを得ようとしているのではありません。『今持っているものを失うまい』として、必死にしがみついているのです」


私は男の目を真っ直ぐに見据えた。


「貴方の動機は、未来への投資ではない。ただの『保身』。今の生活レベルと、退職金の確保…その執着心で、心がガチガチに凝り固まっています」


「…だ、だからこそだ! これを守るために、コンサルの言う通りに…!」


男が叫ぶ。脂汗が頬を伝い、黒いクロスに落ちる。


「コンサルのスキームは完璧なんだ! 上手くいけば、俺の立場と資産は守られるはずだ!」


漂っていた古い油の臭いが、一瞬にして鉄錆(血と鉄)の臭いへと変質する。


「…そうですか。完璧なスキーム、ですか」


私は冷ややかな目で男を見据え、最後のカードに手をかけた。


「では、その計画の『最終結果』を……ご覧いただきましょう」


クロスの上にそっと開かれたカード。


そこに描かれていたのは……雪の降る寒空の下、ボロボロの衣服を纏い、怪我をして歩く二人の人物。教会のステンドグラスの光は、彼らを拒絶するように輝いている。


『ペンタクルの5(FIVE OF PENTACLES)』


「……なんだ、これは」


男が間の抜けた声を出す。

予想していた「成功(勝利)」でもなければ、派手な「失敗(塔)」でもない。

ただひたすらに、惨めで救いのない絵柄だ。


「…ただの貧乏くじか? いや、金ならある! 退職金さえ入れば…」


男はまだ、この絵の「真の意味」を理解していない。

私は深く息を吸い込み、カードの絵柄に指を這わせた。

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