第7話 記憶の扉、霧の向こう
結局あの後も、コウが目に見える煙を瓶に回収したものの、壁や床の木目にまでカビのように染み付いた『残り香』までは取りきれず、澱みは一向に引かず、私たちは早々に店を閉めることになった。
「…最悪ね」
全身にまとわりついた、あの熟成されたチーズのようにねっとりとした執着の重み。
あまりに密度が濃すぎて頭が痛くなってきたこともあり、さっさと館に帰って、洗い流すことにした。
「おや。随分とお早い…」
ホールで私を出迎えたセバスチャンは、そこまで口にして私の早帰りの理由を察したのだろう。
足を止め、憐れんだ瞳で私を見つめた。
「執着もここまで熟成したら…」
高級食材よね、という言葉は、自分でも耳にすることはなかった。
なぜなら、
「ユウカ様っ!」
という声と私に駆け寄る足音を遠くに聞きながら、視界が途絶えたからだ。
***
あれは、確か…まだ肌寒い、春の終わりの夜だった。
当時、私は人生の分岐点に立っていた。
ITエンジニアから転身し、スピリチュアルカウンセラーとして軌道に乗っていたものの、心は限界だった。
恋人は私を「集金ツール」として扱い、クライアントは私の言葉に依存するばかり。
「救われたい人を増やす仕組み」の一部になっている自分に吐き気がし、廃業を決意した矢先のことだ。
叔母が、突然失踪した。
なぜいなくなったのか。どこに行ったのか。いつ帰ってくるのか。
まったく情報のない中、親族からは「会社勤めではないおまえがしばらくお店を維持しろ」と言われ、私はとにかく憂鬱だった。
こうして眠れぬ夜、私は何を思ったのか、真夜中に叔母のカフェを訪れたのだ。
「…はあ。もう、全部投げ出したい」
薄暗い店内で一人、溜息をつく。
煮詰まった頭を冷やそうと、私は裏口のドアに手をかけた。
ただ、外の空気を吸いたかっただけなのだ。
けれど、一歩踏み出した先は……見たこともない、深い霧の森だった。
その異様な光景に危険を感じ私は、すぐに引き返そうと振り返ったものの、今そこにあったはずの裏口のドアは、もうどこにもなかった。
どうしよう…
いや、これは夢だ。そうに違いない。きっとお店のカウンターに突っ伏したまま寝てしまったんだ。
そう頭の中で自分に言い聞かせていると、不意に、
「…おや。迷い子ですか?」
という声と共に、燕尾服を着た男が現れた。
私は驚いて声を上げようとしたが、人間本当にびっくりすると、声も出ないらしい。
口元に両手を当てて、ただ彼を見つめる私に、彼は言った。
「まあ、とにかくこちらへ」
一瞬彼の目が赤く光ったように見えたが、もしかしたらそれは持ち上げられたランタンの炎が映っただけかもしれない。
頭の中では危険だという警告が鳴り響いているのに、身体は自然と彼の後を着いていく。
こうして森の中を数分進むと、霧が晴れ、目の前には大きな洋館が現れた。
彼が重厚な観音開きの扉に手をかけると、それは見た目に反して、音もなく滑らかに内側へと開いた。
「どうぞ、中へ」
促されるまま、私は恐る恐る足を踏み入れる。
一歩中に入ると、森の湿った空気は遮断され、代わりに古紙とインク、そして微かに甘い香木のような匂いが鼻をくすぐった。
高い天井からはシャンデリアが吊るされ、廊下の壁には風景画がずらりと並んでいる。
しかし、空の色や風景の異質さから、地球上ではないような気がする。
やはり、ここは夢なのだろうか。それにしては、靴底から伝わる石床の冷たさや、視界の端で揺らめく影の輪郭が、あまりにも鮮明すぎる。
「こちらです」
彼は私がキョロキョロと辺りを見回すのを気にも留めず、長い廊下を音もなく進んでいく。
私は迷子になった子供のように、慌ててその背中を追いかけた。
廊下の突き当たり、暖かな光が漏れるアーチ状の入り口を抜けると、そこは広々とした居間のような空間、談話室だった。
パチ、パチ、と爆ぜる音。
部屋の奥には巨大な暖炉があり、赤い炎が揺らめいている。
その暖炉を囲むように配置された豪奢な革張りのソファには、二人の先客がくつろいでいた。
私たちが部屋に入った瞬間、部屋の中央、ソファに沈み込んでいた金髪の青年が、弾かれたように顔を上げる。
「…あれ?いい匂いがする」
彼は鼻先をひくりとさせ、キョロキョロと周囲を探りはじめた。
向かいのソファで本を読んでいた黒髪の青年も、即座に本を閉じ、鋭い視線で空間を射抜く。
そして、私を連れてきた彼の背後に立ち尽くす私を見つけると、二人は同時に動きを止めた。
「戻りました」
彼の静かな声が、部屋の空気を震わせた。
「…え?」
金髪の青年が、目を丸くして私を凝視する。
そして、本を閉じた青年が、値踏みするように冷ややかな視線を私に突き刺した。
その視線を受けた瞬間、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「珍しいですね」
沈黙を破ったのは黒髪の青年だった。
彼は眼鏡の位置を人差し指で直し、感情のない声でつぶやいた。
「セバスが女性を連れてくるなんて」
「出かけようとしたら、迷い込んでおられたのに遭遇しまして。…さあ、どうぞこちらへ」
セバスと呼ばれた男性に背中を押され、私は夢遊病者のようにソファへと導かれた。
断るとか逃げ出すという選択肢は微塵も浮かばず、暖かくて、とてもいい香りがするこの場所で、私はそのまま腰をかけた。
「わあ、お客様?」
金髪の青年が、猫のようにしなやかな動作で身を起こし、私の隣に移動してきた。
「君、どこからきたの?…ねえ、すっごくいい匂いがする。甘くて、でもちょっと焦げてるみたいな?」
彼は無邪気に笑いながら、鼻先を私の肩口に寄せてくる。
初対面の距離感じゃない。けれど、不思議と嫌悪感はなかった。
彼の纏う空気があまりに現実離れしていて、美しい絵画に触れられているような錯覚を覚えたからだ。
甘くて焦げてる…?
カフェで何かの匂いが移ったかな?
そんなことを考えていると、いつの間にかセバスと呼ばれる男性が、目の前のローテーブルにティーセットを用意していた。
湯気が立つカップからは、嗅いだことのない芳醇な香りが漂う。
「当館特製のハーブティーです。お疲れのようですから、まずはこれを」
「あ…ありがとうございます」
私はカップを両手で包み、一口含んだ。
…美味しい。
喉を通った瞬間、強張っていた身体の力がふわりと抜けていく。
「ふふ、君は感情がすぐ顔に出るんだね。さっきまでは緊張、驚き、少しの恐怖。そして今は安心。」
金髪の青年がそう話している向かいの席で、黒髪の青年が本を閉じたまま私を観察していた。
何を考えているのかわからないその表情は、少し居心地が悪い。
「レイ、見過ぎ(笑)」
金髪の青年がクスクスと笑いながら、私の顔を覗き込む。
「こんなにかわいいのに、もったいないね。」
突然なんの話だろう。
「さっき一瞬笑った顔も、とってもかわいかったよ。」
金髪の美青年に至近距離でそんなことを言われ、急に恥ずかしさが湧き上がってくる。
「わあ…その顔、たまらないな」
「や、やめてください…」
そういってふと視線を外し、紅茶をもう一口、口に含む。
「本当に…おいしい…」
口に含んだ瞬間、花蜜のような甘さが舌の上でとろけ、不思議な清涼感が鼻へと抜けていく。
喉を通ると、カッと熱い塊が胃の腑に落ちた。
「ああ、いいですね。その恍惚とした表情」
セバスと呼ばれる彼の言葉にふと視線を向けると、
「なんだか惜しいな…」
金髪の青年が残念そうな顔で私をみる。
さっきから一体なんの話をしているのだろうと改めて3人の顔を見回していると、
「そこは割り切ってください」
黒髪の青年が表情を変えずにそう答え、
「そうだね…」
金髪の青年がそう言った直後に放った
「ごめんね…」
その言葉の意味を考える間もなく、私は意識を手放した。
これが、この物語のはじまり。
言葉と香りに満たされたこの洋館で、私はまだ、自分が無くしたものに、気づいていなかった。




