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第42話 深夜の避難所

時計の針が、深夜一時を指そうとしていた。

扉の札は少し前にCLOSEDにしていた。


最後の客も少し前に帰り、本日のレジ締め作業が終わって一息ついたその時。


カラン、コロン……。


重いドアが開く音と共に、夜の湿気を引きずって一人の男が入ってきた。


「……いらっしゃいませ。申し訳ありません、本日はもう……」


事務的な断りの言葉を口にしかけた私の視線が、男の姿を捉えて止まる。

そこに立っていたのは、九条だった。


いつものよれたスーツを肩にかけ、気怠げな姿はいつもの通りだ。

だがそれ以上に、彼の纏う空気が尋常ではなかった。

息は浅く、焦点の合っていない瞳は、まるで泥の底を歩いてきたかのようにひどく濁っている。

全身から発せられているのは、圧倒的な『疲労』と『摩耗』の気配で、一つ二つではなくさまざまな感情の霧を纏っている。


「……悪い。少しだけ、座らせてくれ」


九条は私の返事を待たず、ふらつくような足取りでいつものカウンター席に倒れ込むように座った。


厨房の片付けを終えたコウが顔を出し、私に何か言いたげな視線を送る。


心配したわけではない。

しかし、九条の浅い呼吸と、不規則な脈打つ首元の血管を観察した私は、コウにこう伝えた。


「コウ。明日は定休日だし、仕込みはないわよね。火の元と戸締りのチェックは私がやっておくから。貴方はもう上がってちょうだい」


「……」


コウにも彼の状態が視えているのだろう。私の言葉に、コウは静かにうなずいた。


「…わかった。俺は(二階)にいるから、何かあったら呼んでくれ」


コウは九条にチラリと視線を送ると、厨房と廊下の灯りを消して奥の階段を上がっていった。

二階へと続く足音が消え、店内には冷蔵庫のモーター音と静かに流れるBGMだけが残された。


私はカウンター越しに、テーブルに突っ伏すように目を閉じている九条を見る。

アルコールもカフェインも、今の彼の胃には負担が大きいだろう。


本日の営業はすでに終了し、レジも締め終わっている。

しかし、明らかに何かを口にした方が良さそうな彼に、私はゆっくりと尋ねた。


「何か…召し上がりますか?」


その言葉に、彼から発せられる感情の霧が揺らいだが、彼からの答えはなかった。

そこで、私は、小鍋でお湯を沸かし、ハーブとスパイスをブレンドした温かいハーブティを作った。


コトリ、と九条の前にマグカップを置く。


「……酒じゃ、ないんだな」


九条が薄く目を開け、カップから立ち上る湯気を見つめた。


「今の貴方の内臓にアルコールを入れるのは、毒を盛るのと同じです。……何か、凄惨な現場でも見てきたんですか」


私が感情を交えずに問いかけると、九条はゆっくりと身を起こし、マグカップを両手で包み込んだ。


「……人間の、醜い部分をな。嘘、欲望、裏切り……そういう泥みたいな感情を、一日中浴びてきた。……もう、まともに息ができないくらいにな」


自嘲気味に笑う彼の声は、ひどく掠れていた。

刑事という職業柄、他者の強烈な感情ノイズに当てられ続けるのは日常茶飯事だろう。

私のように感情を捕食されて空っぽになった人間とは違い、彼にはそれを真正面から受け止める心(器)があるのだから。


九条はハーブティを一口飲み、ふう、と長く息を吐いた。


「…この店……いや、おまえといると、落ち着くな」


唐突に発せられた言葉に、私は首を傾げた。


「………?」


「何も、語らない。何も、押し付けてこない。……同情も、好奇心も、軽蔑もない。ただの、圧倒的な『無』だ」


九条はカップから視線を上げ、私の瞳を真っ直ぐに見つめた。

その眼差しには、前のような苛立ちや不信感はなかった。ただ、溺れかけている人間が、唯一の浮き輪を見つけたような……ひどく無防備で、危うい安らぎの色が浮かんでいた。


「泥まみれの世界で、ここだけが……おまえの側だけが、静かだ」


「……そうですか」


私は肯定も否定もせず、彼の言葉を受け入れた。


モーター音に溶け込むような、ひどく静かなチェロの独奏だけが、二人の間の空白を埋めている。

九条の呼吸が、少しずつ深く、穏やかなものに変わっていくのがわかった。

彼にまとわりついていた感情の霧も徐々に散っていく。


その、静寂の時間が、どれくらい続いただろうか。


「閉店時間なのに、悪かったな。部屋まであと少しなのに、持ちそうになくてな…」


ポツリと九条がつぶやいた。

それからもう一度、ふうと息をつくと、ハーブティーを口に運ぶ。


「俺には人間の感情が視える。ずっとそれが当たり前だったから、何も見えないおまえの隣が異常なくらい静かで……最初は混乱した」


そういえば、前に彼が『人より少しだけ視えるものが多い』と言っていたことを思い出す。


「……でも、今はその『何も見えない』のが、ひどくありがたい。一日中他人のドロドロしたもんを見せられてると、流石に息が詰まるんでね」


自嘲気味に笑う九条は、カップの温もりを確かめるように両手で包み込んでいる。


「そうですか。ですが、私の隣にいる間だけの一時的な回避策なら、根本的な疲労の解決にはなりませんよ」


私が極めて論理的な事実を突きつけると、九条はぽかんと瞬きをした後、肩を揺らして低く笑い声を漏らした。


「ははっ……違いない。おまえ、本当に容赦ねえな」


だが、その笑い声には先ほどまでの重苦しい疲労感はなかった。彼にまとわりついていた感情の霧も、すっかり綺麗に晴れている。


「……でもまあ、根本的な解決にならなくても、一時的な『避難所』くらいにはなるだろ」


そう言って、九条は最後に残ったハーブティーを飲み干し、ふう、と短く息を吐いた。


「ごちそうさん。……生き返った」


彼はゆっくりと立ち上がり、隣のスツールの背にかけていたよれたジャケットを羽織る。


「『避難所』…ですか」


一応ここはタロットカフェなのだけれど。

そう言おうと思ったものの、それは九条からの次の言葉で遮られた。


「こんな時間まで、悪かったな」


そう言って、九条は内ポケットから革の財布を取り出した。

先日のハンカチもだが、この常に気怠い様子に反して、小物類は綺麗に手入れされているのが意外だ。


「いくらだ?」


「お代は結構です。本日のレジ締め作業はすでに完了していますので、今から売上を計上すると帳簿処理が非効率になりますから」


私が事務的な理由で断ると、九条は財布を開きかけた手のまま、呆れたように息を吐いた。


「……おまえなあ。刑事がタダで飲み食いして帰るなんて、できるわけないだろ」


「メニューにないただのお湯とハーブです。原価を計算する方が手間ですので、お気になさらず。それでも都合が悪いのであれば、私が自分用に用意したものを飲んだことにでもしてください」


と、そこで、昨日の過剰な支払いの返金をしなくてはいけないことを思い出し、カウンターの下からお釣りを入れた封筒を取り出す。

案の定「返す」「要らない」と一悶着したものの、


「帳簿が合わなくなるので」


きっぱりと告げると、九条は「頑固だな……」と小さくぼやきながら、渋々といった様子でそれを受け取り、胸ポケットにしまった。


そして、ふと壁の時計を見上げる。

針はすでに、深夜一時半を回っていた。


「……もうこんな時間か」


九条は短くつぶやくと、再び私へと視線を戻した。


「おまえ、これから帰るんだろ。……送っていく」


ごく自然な、けれど有無を言わせないような響きだった。

彼なりに、深夜に女性が一人で帰ることを危惧しているのだろう。刑事としての職業病か、あるいは先ほどの『避難所』の代金代わりの気遣いか。


私には感情がないので、そこにどんな色が含まれているのかを正確に読み取ることはできないが、どちらにせよ、その提案を受け入れる理由はなかった。


「お気遣いは不要です」


私が即答すると、九条は少しだけ不満げに眉根を寄せた。


「いくらおまえが変な連中に慣れてるっつっても、夜道は何が起こるかわからないからな。まがりなりにも俺は刑事だ。遠慮なんか……」


「遠慮ではありません。物理的に送っていただく必要がないんです」


私は九条の言葉を遮り、店の奥……掃除用具入れがある裏口の方へと視線を向けた。


「私の帰路は、あの裏口の扉を開けた先ですので。夜道を歩く工程自体が存在しません」


私が淡々と事実を告げると、九条は言葉を失い、私と裏口の扉を交互に見た。


「ん?この敷地内に住んでるってことか?じゃあ、安全と言えば安全だな」


厳密には間違っているのだけれど、どちらにせよ彼はあの裏口から霧の森には入れない。

なので、その言葉には肯定も否定もしなかった。


「…じゃあ、俺はこれで失礼する。……戸締りだけは、しっかりしとけよ」


九条はそう言い残して、店の入り口の扉へと向かう。

どちらにせよ施錠する必要があるので、見送りがてら後ろを着いていく。


「じゃあな」


「ええ。おやすみなさい、九条さん」


カラン、コロン……。


乾いたベルの音が響き、今度こそ九条の背中が灯りもまばらな夜の街へと消えていく。


その後ろ姿を見送り、扉に施錠をした私は、今度こそ静かになった店内をゆっくりと見回す。

カウンターに戻り、彼が残していった空のマグカップを手に取ると、それはまだ、温かかった。


「……」


なぜそんなことをしたのか、わからない。


けれど、その温かさを確認した私は、残りの閉店作業を済ませるべく、歩き出した。

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