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第43話 安っぽい洗脳

九月も半ばを過ぎた頃。

数日前までまとわりついていた残暑の湿度は唐突に鳴りを潜め、夜の空気に不意に冷たい秋の気配が混じるようになってきた。

日が落ちると、ひんやりとした夜風が街を吹き抜ける。


時計の針が二十三時を回った店内は、ひどく静かだった。

人間の客の波はすでに引き、私はカウンターの中でグラスを磨きながら、明日の備品のチェックを進めていた。


『正義』の正位置の絵のありかについて、特段新しい情報はない。

残りの『力』『恋人』『世界』に関しては、なにもわかっていない。


(一体どこから調べたら良いのか……)


とっかかりを掴むこともできず、時間だけが過ぎていく。


カラン、コロン……。


と、そこで、乾いたドアベルの音が響き、我に返った。

ドアが開き、足元から吹き込んだ秋の夜風と共に店内に入ってきたのは、ひどく濃厚で、甘ったるい香水のような匂いだった。


「こんばんは〜。あー、外はすっかり冷えるわねえ」


気怠げな足取りでカウンターに歩み寄ってきたのは……インキュバスだ。

胸元が大きく開いたシャツから覗く白い肌と、艶めかしい流し目。相変わらず、見る者の理性を強制的に溶かすような異常な引力を放っている。


「いらっしゃいませ」


私が淡々と声をかけると、インキュバスはふう、と大げさなため息をついて、いつもの席に腰を下ろした。


「ねえ、コウく〜ん。今日はアタシ、すっごく胸糞悪い気分なの。甘くて、でもどこか残酷な……そうね、この前食べた『裏切られた純情のタルト』みたいなのでも焼いてちょうだい。紅茶はアールグレイで」


「はいはい。お安い御用で」


厨房の奥からコウの気だるげな声が返ってくる。

インキュバスは頬杖をつき、長いネイルでコツコツとカウンターを叩きながら、私に視線を向けた。


「ねえ、アタシがちょっと前に話した放火のこと、覚えてる?」


「放火……?ああ、夢のお告げが〜って…あれですか?」


「そう、それ!で、その女の子に、たっぷり『お仕置き』してやったって話、したじゃない?」


私が頷くと、インキュバスはひどく忌々しそうな顔で眉をひそめた。


「あの時、その子から『魔界の植物のお香』みたいな、安っぽくて吐き気がする匂いがしたから、サンプルを取って調べさせたのよ。……その結果が、今日ようやく出たんだけどさ」


インキュバスは、親の仇でも見るような目で虚空を睨みつけた。


「あれ、ただの違法な媚薬なんかじゃないわ。人間の脳の報酬系に直接作用して、『承認欲求』だけを異常なまでに肥大化させる……最低最悪のジャンク・ドラッグだったのよ」


承認欲求を強制的に引き出す、魔界由来の化学物質。

その響きから、効果を推測してみる。


「誰かに認められたい、特別扱いされたいという欲求を極限まで発動させる…ということですか?何のために……?」


承認欲求を限界まで高めて、何になるというのだろう。

純粋にその理由がわからず、インキュバスに問いかける。


「あー…ユウカちゃん、そういうの興味なさそうだもんね。アタシたち夢魔が引き出すのは、もっとこう……心の奥底に隠した本物のドロドロした情欲や愛憎なのよ。なのに、あのお香が引き出すのは『みんなから羨ましがられたい』みたいな、ペラッペラで底の浅い自己愛だけ!あんなジャンクフード、アタシたちの舌に合うわけないじゃない!」


美学を汚されたインキュバスの怒りはごもっともだが、私の興味は別のところにあった。


「それで、その女性はどうなったんですか?貴方のお仕置きを受けた後も、その洗脳は解けなかったのでしょうか」


私の問いに、インキュバスはピタリと動きを止め、スッと目を細めた。

その瞳の奥に、得体の知れないものを見たような薄ら寒さがよぎる。


「……それがね。アタシがたっぷり可愛がってやった後も、あの子、うわ言みたいにずっと言ってたのよ。『私だけが選ばれた』『彼のためにこの店を燃やせば、天国へ行ける』って」


「店を、燃やす……?」


「そう。名前、なんだったかしら?なんとかって男に、完全に心酔しきってた。だから、もう少し時間をかけてその男の正体掴んで、安っぽい洗脳も解いてやろうと思ってたんだけど……」


インキュバスは、ふうっと息を吐き出した。


「ちょっと目を離した隙に、忽然と姿を消したのよ。窓もドアも鍵がかかったままの完全な密室から、煙みたいにね」


「……逃げたのでは、なく?」


人間が一瞬の隙に消えるなんて、考えられない。


「言ったでしょ、密室から消えたって」


そこまで話したところで、コウが


「お待たせしました。『焦がした愛憎とダークチェリーのタルト』です。きっとお好きな味ですよ」


コウが絶妙なタイミングでタルトと紅茶を差し出す。

インキュバスは「ありがと」とタルトをフォークで切り分けながら、忌々しそうに口に運んだが、一口食べて至福の表情を浮かべた。


私は黙ってグラスを磨きながら、情報を整理していた。


『夢のお告げ』。

『放火を示唆する洗脳された女性』。

『承認欲求を強制的に引き出す魔界のお香』。

そして、『密室からの消失』。


(……この不可解な事象の裏には、魔界の薬物を人間界に持ち込み、効率よく人間を操作している何者かが確実に存在している)


しかし、まだ情報が足りない。

それがなぜ『空間からの消失』という物理法則を無視した現象に繋がるのか、そのカラクリを解くための決定的な情報が、ない。


私はグラスを棚に戻し、一切の感情を交えることなく、次なる情報の到来を静かに待つことにした、その時だった。


カラン、コロン……。


再びドアベルが鳴り、ひどく重たい足取りの男が入ってきた。

ヨレヨレになったスーツに、無精髭。全身から泥のような疲労と苛立ちを立ち昇らせている警視庁捜査一課の刑事、九条だ。


その様子から見て、残業終わり、あるいは徹夜の捜査の合間といったところだろう。


九条は店内を見渡し、カウンターで優雅にタルトを食べているインキュバスと目が合うと、フッと小さく息を吐いて微かに目を細めた。


「……いつもの。今日はやけに甘い匂いが充満してやがるな」


「あら、久しぶりじゃない。相変わらず色っぽい雰囲気醸し出しちゃって」


インキュバスが流し目でからかうと、九条は「どこがだよ」と苦笑いだけを返し、インキュバスから一つ席を空けて腰を下ろした。

このちょっとした距離感がちょうど良いのだろう。


九条がいつもの、という時は、コーヒーのみという意味だ。

私が彼のお気に入りのコーヒー豆を挽き始めた、まさにその瞬間。


カランカランカランッ!!


ドアベルが勢いよく、けたたましい音を立てて鳴った。


「九条さん!そう簡単には捲かれませんよ!今日こそ一緒に飲みましょうよ!」


バンッと扉を開け放ち、息を切らして飛び込んできたのは、パンツスーツ姿の若い女性だった。

年の頃は二十代半ばといったところか。ドアに片手をついて息を整えていた彼女は、店内に九条を見つけるや否や、ズカズカとカウンターへ歩み寄ってくる。


「おまえなぁ……俺はもう今日は上がりだって言っただろうが。ついてくんな」


「九条さんの上がりは私の上がりです!あっ、マスター!私にもこの人と同じものをお願いします!」


元気よく私にオーダーを通した彼女は、九条の隣の席……つまり、九条とインキュバスが空けていた『一つ分の空席』にドカッと腰を下ろした。


腰を下ろした彼女はふぅと小さく息をつくと、ふと隣のインキュバスに視線を送った。


「隣、失礼しまーす!」


その瞬間、


「……えっ!」


彼女の動きが止まる。

胸元を大きく開け、艶めかしい流し目を向ける、人外の圧倒的な美貌。


「あっ、こっちにもイケメン!なにこの店、顔面偏差値高すぎません!?」


彼女は一切の躊躇なく、九条とインキュバスの間にすっぽりと収まり、さらにはコウを見つめながら目をキラキラと輝かせた。

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