第40話 夢の中の歓喜
生命の樹では、大アルカナはすべて正位置での配置のはず。
それこそ生命の樹の考え方に精通していたであろう彼女が、そんなミスを犯すわけがない。
私はしばらく一人でブツブツとつぶやきながら考えを整理していたが、その中で一つだけ未確認の事項があることに気がついた。
「ねえ…」
三人はじっと私の顔を見つめていたようで、ふと顔を上げると、すぐに視線の先にいたレイと目が合った。
レイは私の次の言葉を待っているのか、あえて何かを口にすることなく、そのまま私をじっと見つめたままでいた。
「22枚のそれぞれが別の異界に繋がっているって…言ってたわよね?ここは?この館が存在する異界は、どのカードと対応しているの?」
今までの情報から考えると、ヴィスコンティにある絵画のどれかであることは間違いない。
あそこにない絵画とポータルが繋がっているはずがないからだ。
すると、レイは視線をセバスチャンに向けた。
「それについては、ポータルの管理人であるオーナーかコウに聞いてもらうのが確実かと思いますが……おそらく、『正義』かと……」
「…なぜ、そう思うの?」
単純にセバスチャンの答えに疑問を持って聞き返しただけだったのだが、予想外に場の空気が変わった。
私の問いかけに、三人それぞれが困惑の表情を見せたのだ。
「え…?私、何か聞いちゃいけないことでも聞いた?」
もちろん自覚はないし、そもそもなぜ正確ではないにせよ『正義』に対応していると思ったかを問うただけだ。
「ユウカ様……」
普段からセバスチャンの困惑の表情はよく見るけれど、今回の「困惑」は今まで見たことがないものだった。
「それについては、まず、この異界が対応している大アルカナが確実になるまで、お待ちいただけないでしょうか」
その表情が徐々に苦悩の表情に変わっていくのを見て、何かしら大きな意味があると悟った私は、少し考えてこう答えた。
「わかったわ。では、まずは叔母のところに行って、各タロットと対応している異界について聞いてくることにするわ」
すると、三人はあからさまにホッとした顔を見せた。
よほど大事な話と繋がっているのだろう。
そんな中、談話室の柱時計が「ボーン」と3回鳴ったのを聞いて、今日は一旦解散することにした。
自室に戻り、寝る支度を整えてベッドに横たわると、深夜3時を回った肉体の疲労がどっと押し寄せてきた。
しかし、頭の中だけは異様に冴え渡っていた。
目を閉じても、まぶたの裏には先ほどの会話の断片が明滅している。
10個の球体。それらを繋ぐ22本の道。
宇宙の真理を稼働させるための、巨大で完璧なシステム設計図…生命の樹。
私の脳は、無意識のうちにその『生命の樹』のパズルを一つ一つ組み上げようとしていた。
点と線が繋がり、形を成していく。
あと一枚。最後のピースがカチリと音を立ててハマった、その瞬間……。
ふと、鼻先をひどく懐かしい匂いが掠めた。
埃っぽい空気と、強い油絵の具の匂い。
目を開けると、私は石造りの冷たい床の上に立っていた。
いや、『私』ではない。
視線の高さも、絵の具で汚れたこの細い指先も、私のものではないとわかっているのに、なぜか全く違和感がない。
(夢………?)
薄暗い空間の床一面に、22枚のキャンバスが幾何学的な法則に従って並べられている。
『私』は震える手で、最後の1枚を……その定位置へと、ゆっくりとキャンバスを置いた。
その瞬間、22枚の絵が目に見えない糸で繋がり、空間そのものが微かに、しかし確かな鼓動を打ち始めた。
完璧なまでにノイズのない、宇宙の真理。
真の『生命の樹』が、この空間に産声を上げたのだ。
「ああ……」
『私』の口から、無意識に感嘆の吐息が漏れる。
と同時に、胸の奥から爆発的な熱が込み上げてきた。
歓喜。
人生のすべてを懸けたライフワークを成し遂げたという、圧倒的な達成感。
そして、ようやくここまで辿り着いたのだという、震えるほどの深い満足感。
熱い涙が頬を伝い落ちるのを感じた。
満たされている。
心が、感情が、ちぎれそうなほどに震えて、歓びで満ち溢れている。
それは、今の私が彼らに喰い尽くされ、とうの昔に失ってしまったはずの…ひどく鮮やかで、焦がれるような『感情』の奔流だった。
(なぜ、感情が……?)
そう疑問に感じた瞬間、パチリ、と目が覚めた。
視界に映るのは、薄暗い石造りのアトリエでも、幾何学的に配置されたキャンバスでもない。見慣れた自室の天井だった。
鼻先を掠めていた油絵の具の匂いも、とうに消え失せている。
頬に冷たいものが伝う感覚があり、指先で触れた。
濡れている。私は、泣いていたらしい。
胸の奥には、夢の中で感じたあの爆発的な歓喜と、心がちぎれそうなほどの達成感の残滓が、まだ微かに燻っていた。
「喜び……」
まるで他人の忘れ物を観察するように、私はぽつりと呟いた。
けれど、その熱は目覚めと共に急速に引いていく。
彼らに喰われ尽くし、とうに底が抜けてしまった私の心には、その熱を留めておくための『器』がもう存在しないのだ。
数度の瞬きをする間に、早鐘を打っていた心臓の鼓動は落ち着き、あの震えるほどの感動も、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように綺麗さっぱり消え失せてしまった。
あとに残ったのは、いつもの凪いだ静寂と、冷徹なまでの思考回路だけ。
胸に手を当てても、もう何のノイズも聞こえない。
「……なるほどね」
私はベッドから身を起こし、完全に乾ききった頬を手の甲で拭った。
夢の中で体験したあの圧倒的な熱量。
あれほどの強烈な感情を抱え込みながら、寸分の狂いもなく、あの複雑な『生命の樹』のシステムを構築し続けるのは、確かに至難の業だ。
「やっぱり、感情なんて不確定要素、切り捨てて正解だったのよ」
ユリア・ヴィスコンティが選んだ手段の『合理性』を、身をもって証明されたような気分だった。
私は小さく息を吐き、今日やるべきタスクを脳内でリストアップしながら、いつものように身支度を終えると、軽食をとるために一階のダイニングへと向かった。
重厚な扉を押し開けると、すでにルカとレイが食後の飲み物を飲んでおり、私が席に着くとすぐに、セバスチャンが淹れたての紅茶と軽いトーストを用意してくれた。
「おはようございます、ユウカ様。昨晩はよくお休みになれましたか?」
いつもの穏やかな微笑み。昨晩のあの異様な困惑は、見事に隠し通されている。
「ええ、とても」
私は席につき、紅茶のカップを手に取りながら、ふと思いついて口を開いた。
「そういえば、不思議な夢を見たわ」
「夢、ですか?」
ティーポットを持ったセバスチャンが小首を傾げる。
「ええ。私が、22枚のキャンバスを並べて『生命の樹』を完成させる瞬間の夢よ。…ううん、あれはおそらく私ではなく、ユリア・ヴィスコンティだったのだと思うわ」
ガシャン!
突如、レイの手から滑り落ちたカップがソーサーに激突し、鋭い音を立てた。向かいの席では、ルカが「ゲホッ、ゴホッ!」と飲み物を気管に詰まらせて激しくむせ返っている。
そして、私の傍らに控えるセバスチャンは…ティーポットを持ったまま、まるで魔法で石像に変えられたかのように完全に硬直していた。
いつもの完璧で穏やかな微笑みは、見る影もなく剥がれ落ちている。
「……ユリア様の、完成の瞬間を……?」
ティーポットの取っ手を握りしめる彼の手は、関節が白く浮き出るほどにこわばり、絞り出すようなその声は微かに、しかし確かに震えていた。




