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第38話 三人の反応

冷たい霧が立ち込める異界の森を抜け、黒々としたシルエットを放つ『霧の狭間の館』へと辿り着くと、包まれた絵画を脇に挟んだまま両手でエントランスの扉を押し開く。


そうして館の敷居を跨いだ、その瞬間だった。


――ズンッ。


「……え?」


目を開けたままの私の視界で、エントランスホールの豪奢な風景が、唐突に青と銀のインクに溶け落ちていく。


強制的な、象徴潜行ダイブ


しかし、私は何も唱えていない。絵画に直接触れてもいない。

ただ、包まれたままの絵を持って、館に足を踏み入れただけだ。


抗う間もなく、私は静寂に包まれた極寒の神殿に立っていた。


目の前には、白と黒の巨大な二本の柱。

その中央で、青い衣をまとったカードの住人……『女教皇』が、手元の『TORA(宇宙の真理)』の巻物にじっと視線を落としている。


彼女の周囲には、空間を満たすほどの膨大な情報(光の粒子)が、とめどなく流れ込んでいた。

過去、現在、未来、あらゆる世界のデータが、彼女という一点に向けて絶え間なく入力インプットされ続けている。


だが、そこから外へ向かって出力アウトプットされるものは、ただの一滴も、ただの一音すらも存在しない。

彼女は、すべての正解を知っている。しかし、ぎゅっと結ばれた口が、自ら開かれることは絶対にない。


そこにあるのは、神秘などという曖昧なものではない。

外部への接続を完全に遮断し、ひたすらに莫大なデータを蓄積し続けるだけの、圧倒的な『沈黙』。

彼女自身が、すべての正解を呑み込んだまま決して口を開かない、極めて高機能な『保管庫』だったのだ。


「…必要なものは、すべてここにある」


私がその膨大かつ徹底した情報の管理機能を目の当たりにして、ただ純粋な事実としての感想をこぼした瞬間。


「ユウカ様……ッ!!」


切羽詰まった声と共に、青と銀の沈黙の世界が、ガラスのように砕け散った。


「……っ」


視界のピントが急激に元に戻り、私は自分が館のエントランスホールで、危うくバランスを崩しかけていたことに気がついた。


倒れかけた私を抱えるセバスチャン。

ホールの階段の上からは、今にでも転がり落ちそうな勢いで手すりからこちらを覗き込んでいるルカ。


そして、慌てて自室から出てきたのだろう。

いつもの軍服ではなく、ラフな格好をしたレイ。


三人の焦りと安堵が入り混じった表情が、私の状況をわかりやすく表していた。


「大丈夫ですか、ユウカ様!? お怪我は!?」


「……平気よ。少し、立ち眩みがしただけ」


私はセバスチャンの腕からそっと身体を離し、小脇に抱えたままの包みを見下ろした。


「貴女が館に入られた瞬間、唐突に貴女の気配が『完全に消失』したので、何事かと思いましたよ」


普段の完璧な余裕を完全に失っているセバスチャンの言葉に、険しい顔で階段を駆け下りてきたレイが、私の頭から足元までを、まるで存在を確認するように両手で挟むように確認をしながら頷く。


「突然の『無』でした。あれは、一体…」


私に何らかの攻撃が加えられたとでも思っているのだろう。

明確な異常事態を前に戦慄している彼らに、私は淡々と事実を告げた。


「攻撃されたわけじゃないわ。ただ、館に入った瞬間に、この絵のビジョンが勝手に脳内に展開されたの。こんなことは初めてよ」


私がそう言うと、手すりから身を乗り出していたルカが自らが置かれている状況を認識したのか「ひえっ」と首を引っ込め、レイが厳しい視線で私の手元を見た。


「これは…?」


いつもは冷静なレイが、張り詰めた様子を見せているのは、きっと彼がこの館では「護衛」の任も担っているからだろう。


「ああ、例の絵画……先日、吸血鬼が置いていった『女教皇』よ」


ここ数日起きたことは、都度三人には報告をしているため、その言葉を聞いて、三人は一斉に手元の包みを見た。


「なぜ…持ち帰ることが……」


セバスチャンは先日これが結界で弾かれて持ち帰れなかったことを知っているからか、不思議そうな顔をした。


「吸血鬼が、所有権を放棄したのよ」


「放棄、ですか?」


「そう。なんでも、今の私を『女教皇』に封じるには、やや完全性に欠ける…らしいわ」


「……そうですか」


そんな会話をセバスチャンとしていると、ルカが包みを指差した。


「開けてもいい?………に、見たいな」


途中の言葉が小さくて聞こえづらかったけれど、聞き返すほどでもないと判断し、包みの紐に手をかけた。


ここは館の中だ。

危険なことは起こらないと思いつつ、一応セバスチャンを見上げる。


「大丈夫ですよ」


セバスチャンはそう言うと、私から包みを受け取って、レイに渡す。


「こんなところで立ち話もなんですね。私はお茶を淹れてきますので、皆さんは先に談話室にでも移動なさってください」


そうして私たちは、連れ立って談話室へと移動した。


***


数分後。

熱を持たない魔力の炎が、パチリと静かに爆ぜる談話室で、私は一人掛けのソファに深く腰を沈めていた。


ほどなくして、私の向かいのソファでくつろぐルカとレイ、そして完璧な手際でティーセットを運んできたセバスチャンが揃う。

テーブルの中央には、先ほどの『女教皇』が、厳重に布に包まれたまま静かに置かれている。


「ダージリンのセカンドフラッシュです。お疲れのようですから、少し甘みを足しております」


「ありがとう」


コトリ、と私の前に美しい細工のティーカップが置かれる。

琥珀色の水面から立ち上る湯気を眺めながら、カップに口をつける。


(……ああ、美味しい)


微かな熱を帯びて身体の奥へとじんわりと染み込んでいくような、酷く上質で、どこか懐かしい甘み。

張り詰めていた神経の糸が、適切な温度でほぐれていく。そうして肩の力が抜けた私は、カップをソーサーに戻した。


「……包みを開きましょう」


私が静かに口を開くと、三人からスッと余計な力が抜け、護衛や執事としての『本来の顔』へと戻るのがわかった。


ルカがいの一番に包みに手を伸ばすと、セバスチャンがすかさず声をかけた。


「ルカ。絵画を扱うときは手袋を…」


その言葉にハッと動きを止めたルカは、一瞬目を細めると、ゆっくりと頷いた。


「……ああ、そうだったね」


そうして、セバスチャンがポケットから差し出した手袋を嵌めたルカは、包みを大事そうに開け始めた。


そこに、ルカと包みを囲むように、セバスチャンとレイが集う。


この館には至る所に絵画が飾ってある。

きっとこの三人も絵画の鑑賞が好きなのだろう。


私はソファから三人のそんな姿を眺めた後、暖炉の上の風景画に視線を移した。

そういえば、先日、店に飾られているタロットの絵と、雰囲気が似てるという話になった絵だ。


あの時は不必要な情報として、それ以上深掘りはしなかった。

けれど…


私の視線は、その見事な額縁に納められた風景画の右下へと移動する。


(やっぱり……)


そして、そこには、今日店で見たのと同じ、小さな薔薇の花のような模様が描かれていた。


ふと小さな歓声が上がったのを聞いて視線を移すと、姿を現した『女教皇』を囲んだ三人が、表情を綻ばせていた。


(ルカはともかく、レイとセバスチャンのあんな表情は見たことがないわね)


「嬉しい」「楽しい」というよりは、「慈しむ」「懐かしむ」という、今までになく優しい表情だ。


「……」


その表情を見ていたら、なぜだか急に目頭が熱くなり、視界が微かに滲んだ。


(なぜ……?)


それは一瞬のことで、涙が浮かぶというところまでは行かなかったけれど、理論上、確かに私は今、『感動』したのだ。

その不可解な現象は追いかける術がないので、とりあえず事実として受け止めるだけにして、私もソファから立ち上がり、三人の元へと向かう。


「あ、ユウカ!見て見て!魂のこもった、いい絵だよね〜」


ルカが無邪気にはしゃぎながら手招きをする。

それを見て、セバスチャンとレイが開けてくれたスペースに身体を滑り込ませる。


右下には、『正義』や先ほどの風景画と同じ、小さな薔薇の花。


「あの風景画と同じ画家の作品なのね」


その言葉に、三人の視線が集まる。


「……ということは」


私はもう一度、暖炉の上に飾られた風景画に視線を移した。

そして、そのまま三人の顔を、順々に見る。


「ユリア・ヴィスコンティ。これが、ここにある絵を描いた画家の…名前」


その瞬間、三人が三人とも違った表情を見せた。


ルカは嬉しそうに目を細め、レイは一瞬だけ目を伏せた。

そして、セバスチャンは……そっと目を閉じた、


それはもう、『ユリア・ヴィスコンティという名前を知っている』という、明確なサインだった。


「……知っているのね」


こうして確信を持った私は、ただフラットな声で彼らに告げた。


「彼女は、誰?」

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